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2007年03月31日

※この記事は「食も心もマインドフルに―食べ物との素敵な関係を楽しむために」より
「PART1 心がマインドフルであること」を参照して作成したものです。※

心と身体、両方の健康を保つ秘訣は
過去を嘆くことでも、
未来について悩むことでもない、
先の問題を案ずることでもない。
現在の瞬間を賢く、まじめに生きること、
それが心身の健康の秘訣である。
-仏陀-

自分の心を自覚する
・心の中で起こっていることより「してはならないこと」に心が向くのは、それを優先すべきだと思ってしまうからです。
・自覚を研ぎ澄ませるのには何の行動も必要ありません。何も変わる必要はないのです。ただ着目してください。
食行動を重要なこととして心の前面に位置づけましょう。
・自分の食べ方については何も変えることなく、ただひとつひとつの行動と食べている感覚に関心を払います。
・ラジオのスイッチを切るようにくだらないおしゃべりを頭の中で切ってしまいます。
現在起こっていることだけをそのまま観察しましょう。
これによってただ漫然とマインドレスに食べることに対する自覚が高まります。
・怒りや不安などに圧倒され、ただそれを自覚していることが困難な状況のときは、
視覚、音、匂い、味、などに順に注目しすることで周辺の環境に対する自分の身体感覚を呼び覚ましてみましょう。頭の中に浮かんだ思考から離れ、自分の感情を把握できたら、感情に名前をつけて分類してみてください。感じるだけです。分析してはいけません。

心に浮かんでいることを観察する
・自覚を呼びさましたら、次は一歩退いて心を観察します。
心にはたくさんの要素が詰まっていますが、私たちはそれらに基づいていつも自分がどんな行動をとっているのか、ゆっくりと観察することは殆どありません。
・頭の中で起こっていることをまさに絵を描くように言葉で説明してみます。
・判断や変更を加えることなく、対象をあるがままにただ見てください。
・自分自身に向かってどのようなことを言おうと、その言葉にとらわれずに自分の経験を確認し、観察することが重要です。
・飢えた心、快適に満たされた心をそれぞれ観察して見ましょう

一瞬一瞬食べる
・一瞬一瞬そのプロセスを受け入れ、今の瞬間に集中します。
まずは食べ物を良く見つめます。どのように口に運びますか。どのように噛みますか。
温度は、味はどうでしょう。これらのことに良く注意しながら食べ物を飲み込んでいくことが「一瞬一瞬食べる」ということです。
そして自分の身体の反応を本当に実感したとき、食べる喜びを理解できるようになります。
・ゆっくり食事をしてみましょう。食べ物を掴み、口に入れるというのは、どんな感覚ですか。

マインドフルな食事--食べ物についてじっくりと考える
・食べるというのはひとつの経験です。
ペースを落とすというのは忙しい社会にとっては馴染みの薄い概念です。
いくつかの事柄を同時にこなしていくほうが効率がいいとみなされます。
これは自分の食事によく注意を向け、賢く食べ物を選択する能力を著しく妨げます。
・どうしても一度にふたつ以上のことをしたい、という強い欲求に駆られるということは、瞬間瞬間にひとつの活動に関心を払うことがとても難しいということをあらわしています。
・食べるという行為とそのプロセスに集中すると、食べるという経験との結びつきが強くなります。脳と胃は満腹になると明らかなメッセージを送ることができるようになります。
・何をするにしろ、自分の行動を完全に経験することに専念してください。食べる際も食事を楽しむプロセスだけに集中するのです。

マインドレスな食事の習慣を変える
・マインドレスに食事をする人の多くは食べ物を安全か安全で無いか、のふたつに分類します。深く考えもせず、本当の喜びを感じないままに食べ物を消費してしまいます。
・マインドレスにお決まりの習慣に乗っ取って食べていれば、その瞬間は罪悪感から開放されますが、問題は長引いてしまいます。
・マインドレスに食べている食品とマインドフルに食べている食品をそれぞれリストにしてみましょう。
行動を変えるための第一のステップは、その行動に対して、自覚的になることです。
・次にマインドレスに食べてしまう食品を試しに食べて、恐怖の克服をしてみましょう
・食べたことのないものに挑戦するなどして食習慣を変えてみましょう

つらさから離れずに感じてみる
マインドレスな食事を引き起こす原因のひとつは苦しみから逃れたいという願望です。
食習慣を修正するというのは心に大きな負担をかける可能性があります。
・マインドレスな食事をしていれば自分のさまざまな問題のことなど簡単に忘れられるのです。マインドレスな食事は自分とのつながりを絶つのに役立っていたのです
・マインドフルであるというのは「人生から逃げてはいけない」ということです。経験をそのままに受け入れてください。
状況を理解しないままにつらさから逃げ出してはいけません。
辛さから逃げ出す代わりにその痛みをしっかり捕まえてください
進んで受け入れることによってマインドフルになってください。
つらさが何についてのものなかがわかれば、それに耐え抜く解決策を突き止められるでしょう。
・避けようとしている感情、思想、問題はありますか。あるがままに受け入れてください。改めるにはどうしたらよいかと考えてはいけません。何を感じようと、感じるものをただ認め、心をかき乱すものをただじっくり検証してください。

今を生きる
・現在のこの瞬間こそが、今まで生きてきた中で唯一の真に体験できる時間であるということを自覚することが大切です。
・「・・・すべきだったのに」「・・・まで待たなければならない」といった状態の中で生きていくと「まさしく今、ここにいる」という生き方ができなくなってしまいます。
・過去が生かされるのは、それを変えようとするのではなく、そこから学びたいという気持ちを持って臨んだ場合なのです。
・過去を「・・・すべきだった」という言葉で脚色しなおそうとするのではなく、現在を生きることを楽しめるように、自分のつらさに対処し、癒すように取り組んでいくことが大切です。
・自分に対して否定的な意識が上ってきたら、まずはそれに注目してください。しかし反応してはいけません、そのまますぐ傍を通りすぎるのをイメージしてください。

情け深い心をもつ
・自分の問題について優しく情け深い態度を示せないならば、自分を大切に扱うことはできません。
理解不足から批判に陥ることはよくあります。自己批判は情け深さとは対極のものです。情け深くなることで問題を引き起こしている原因について深く考えることができます。
・問題を抱えているときには批判的になるのをやめ、思いやりをしめしましょう。
・マインドレスに食べてしまったら、「大丈夫よ」と自分に言ってください。
・「私は自分を愛している、何があろうと、何をしようと。」

マインドレスなダイエットをやめる
・ダイエットはいつかもっと素敵な姿になる日を待って、今とのつながりを断ち切ってしまうことなのです。心と身体のつながりも切られます。
・ダイエットは食べることの喜びを取り上げることで、
「心」「身体」「思想」「感情」の四つの調和と取るべき柱の中の、
特に「感情」に大きな打撃を与えてしまいます。
・自分の身体に耳を傾ければ、どれだけ食べたらいいか、そしていつ食べ終わったらいいか、教えてくれます。

落ち込んだ気持ちにマインドフルに対処する
・食事問題というのは、精神的な苦痛を感じているということを外へ知らせる信号であることが多いのです。
ストレスの原因に直接対処するよりも、マインドレスに食べるほうが簡単なのです。
・問題が手に負えないときはカウンセラー、書籍、友人、講座などの助けを借りて問題を認識しましょう。

マインドフルに「そのままにする」
・コントロールできない事柄を「そのままにしておく」というのもひとつの対処法です。
・自分の力ではコントロールできない人々や出来事からは手をひきます。
変化をそのまま受け入れ、自分でなんとかできる範囲にある事柄の責任を引き受けていくようにします
・心に浮かんでくる願望を自覚しましょう。何にしがみついているかを自覚しましょう。それらを手放すことを自覚しましょう。


「食も心もマインドフルに」関連記事一覧
1 はじめに
2 心がマインドフルであること
3 身体がマインドフルであること
4 感情がマインドフルであること
5 思想がマインドフルであること
6 感想

ダイエットの情報というのは雨後の竹の子のごとく、
次から次出てきては消え、出てきては消え、していて
全てを把握することもできない状態、
少なくても何割かは根拠のないものでしょうし、
「ダイエットやめたらヤセちゃった」の夏目祭子さんは
「全部迷信」と爽快なことを言ってくださったわけですが、

そういう「手変え品変え」の様子が一番よく見えるのは
やはりインターネットの世界だと思います

実はこのサイトはブログランキングのダイエット部門!にエントリしてます
(「自分の抱えている問題は食べ物と体重だけだ」
と思い込んで、生活に悩んでいる人に見てもらいたかったので、
そういった方の集まりやすそうなジャンルに入ってみた。)

それで上位人気ダイエットブログを時々観察してみたりしているのですが
情報って、「誰が」「何のために」発信しているものなのか
という視点でみると隠れた面が見えたりします。

まずひとつのタイプは
「自分がダイエットしているので、その記録を付けたい、見て欲しい」
という目的のものですよね。
ダイエッターさんが、モチベーション維持のために書いたりするもの。
「今日は何を食べて、どんな運動をして、マイナス0.5キロ」
とか書いてあったりします。
「読んでも読んでもずーっと同じじゃん。ダイエットって大変だなあ」
っていう感じで、でもその劇的展開のなさが親しみもてたりするタイプですね。

もうひとつあるのは
「ダイエット商品紹介用サイトを作って、みんなに買ってもらいたい」
という商用のものです。
これは純粋に沢山見てもらって、沢山買ってもらうことが目的なので
なによりもまず買いたい気持ちになるように作ってあります

ダイエットは提携広告の世界では指折りの「儲かるキーワード」です。
で、儲かるためのノウハウというのもちゃんとあって
「悩み」や「欲望」を解消するためのキーワードをいれるんですね
ダイエット情報が「健康」や「モテ」「幸せ」「ラク」とセットになっているのは
そうするとたくさんの人に見てもらえ、買ってもらえるからです。
このタイプのサイトを見てるとダイエットってとっても簡単そうな感じがします。
「これを買えば全てはちゃんとうまくいく!」って感じになってくるんですね。

折衷型もあります。
ダイエットをしていて(あるいは成功したから)
この経験を生かしてダイエット情報ブログを作って
ちょっと広告も貼ってみよう!というタイプです。

まだ他にもタイプがあるかもしれないですね。

広告貼って儲けるサイトへの批判の気持ちはまったくないのですが、
ただ、情報というのは全てが同じ目的で発信されているものではないので
情報を受け取るときにはそこまで考えた上で
自分の判断で取捨選択していく必要がある、
ということをお伝えしてみたかったのです

このサイトも広告貼ってあります。
本の宣伝画像は全部アマゾン広告で、ここから買ってくださると
20円くらい私がいただけたりします(笑)
どういう目的で情報発信しているサイトなのか・・・・?
疑ってみてくださいませ。

→情報選択の訓練になる?人気ダイエットblogランキング

2007年03月30日

当サイトの参考文献プレゼント企画は休止中です。

参考図書プレゼント企画を時々行っていますが、
不安を感じる方のためにちょっとフォローの記事です。

もとは私が「お金無いけど、この参考文献が欲しい、
じゃあとりあえずこれの本代だけ稼ごう」ってことで
自分でバナークリックして資料請求して広告収入から本を買ってたんです。

でも考えてみれば、この方法私じゃなくても誰でも使えるな、と思って。
食べ物の問題で悩んでいる人って自分で働いている人ばかりじゃないから
比較的高額なものの多い摂食障害などの関連本を読みたいの全部買うの大変じゃないかなと思ったので、プレゼント企画にしてみたまでなのですね。
(広告収入とお送りする本の代金との差額分は私のお小遣いとしていただくので
みんなちょっとずつ得じゃないか、と思ったのです^^)

そういった事情もあって、貼ってあるバナーは自分で資料請求済みで問題なかったものです。
時々張り替えてるんですが、中には私一人で二回も三回も資料請求したやつもあります。

(ちなみに万が一勧誘電話みたいなのがきたら面倒だな、という
気持ちはあるので一応電話番号は下四桁を0000にして登録してます。
でも不達だと広告収入がもらえないので住所は本物にしてください)

ただ、やっぱり資料請求した企業に対して
自分の名前や住所などの個人情報が渡るのは確かですから、
そこは個人の判断になります。
私は何の問題もなく何度も行っていますが、人によっては嫌なことかもしれませんから
不安な方はご遠慮ください。
本代くらいで個人情報を売るのはやだ、という判断もあるでしょう。
あと、住所入力するのとか面倒ですしね。

それから比較的広告料の高いジャンルばかり選んでますので
結婚相談所、証券会社、育毛関係などが多いです。
結婚相談所や育毛などプライバシーを必要とするものは
何のパンフレットだかわからない封筒で届きますのであまり気にならないんじゃないかとは思いますが
心情的に嫌だと思われる方には向かないと思います。

※なぜ資料請求すると管理人ノラが広告収入をもらえるのか、ということがそもそも不思議な方はアフィリエイト広告というシステムの説明をお読みくださいませ。→アフィリエイトはエーハチネット

複雑そう?ってのは
アマゾンギフト券の利用についてはアマゾンを利用したことがある方だったら
何のストレスもないはずです。
決済のときメールでお送りするギフト券番号を入力するだけなので
他の決済のときと手間は変わらないです。


そういったようなわけです。


ついでにもうひとつ余談ですが、
メールを読んでクリックするだけ! GetMoney!
こちらのサイトだと資料請求などのアクションで現金がもらえます。
自分で広告の種類も選べますし、かなり時間がかかりますが
気長にやっていると本代くらいは出ます。
私がこのプレゼント企画を思いついたのはこのサイトから発想を得たものです。


「じゃあアノ本欲しい」と思った人はどうぞ
参考図書プレゼント

当サイトの参考文献プレゼント企画は休止中です。

食も心もマインドフルに―食べ物との素敵な関係を楽しむために
食も心もマインドフルに―食べ物との素敵な関係を楽しむために

ずっと紹介しようしようと思っていた本なのですが
何度トライしてもまとまらないので、いつも引き伸ばしてました。

タイトルになっている「マインドフル」とは
現在この瞬間瞬間に心をとどめることに努めなさいという仏教の教えに基づくものです。

そしてこれは、やみくもに食べてしまう人が「マインドフルに食べる」ことができるようになるための実践に即した指南書です。
とても具体的で、とっても細かく、多岐にわたっています。
あまりにも多岐に及んでいるため
私にって分かるところとさっぱり分からないところがあったり
あるいはどうでも良いように思えるところまでが
細切れに散在していて、どうやってまとめたらよいものか
どうしてもうまく行かなかったんですね^^

ではありますが、これは本当に
「もう何を食べていいのかさっぱりわからない」と
完全に途方に暮れてしまっている人にはぜひぜひ紹介したい本ではあり、
それで何度も手をつけてはやめたりしていました。

この際、思い切ってまとめて紹介してみることにしましたが
分からないところはすっぱりあきらめて捨てました。
その上取り上げたものの中でも分かりにくい言葉はどんどん変え、
私の解釈がかなり入ってしまう、というのを恐れず取り組んで
どうやらまとまりはじめたものです。

だから私の紹介したものを読んでいただいて、
ちょっと気になった人はご自分でも直接読んでみてください。
結構違うものに見えるかもしれません。
読みやすいものではないのですが、
でも必ずヒントになるものが沢山ちりばめられていると思います。

マインドフルには四つの柱「心」「身体」「思想」「感情」があります。
ひとつずつご紹介していきますので、四回の連載になります。

マインドフルとは自分が今この時、どのような人間であるのかということを正しく評価し、今自分にないものを求めていつまでも拘るのをやめること、
楽しい経験か嫌な経験かに係わらず、経験をあるがままに受け止めることです。
マインドフルになることであらゆる経験に対し、批評的にならず心を開いて受け入れていく姿勢を学べます。

食事がマインドフルでないことは、問題の表面であり、他に何か対処する必要があることを示す目に見えるサインなのです。

マインドフルには以下の四つの柱が必要です

「心がマインドフルであること」--今この瞬間食べるように促すものは何か、注意を払い、観察する
「身体がマインドフルであること」--身体が何か訴えてきたら耳を傾け、それに従う
「思想がマインドフルであること」--食欲に影響する心のやり取りに注意を傾け自覚する
「感情がマインドフルであること」--自分の気分と食欲の関係を理解する

この四つの柱について一つずつ解説していきます。


「食も心もマインドフルに」関連記事一覧
1 はじめに
2 心がマインドフルであること
3 身体がマインドフルであること
4 感情がマインドフルであること
5 思想がマインドフルであること
6 感想

満腹を超えて食べ過ぎることって
私はやっぱり「ちょっと変なことだなあ」と思う
なんで変かって、生き物は何をどれくらい食べたら良いかを
自分で分かる体ってのを本来備えているので、
たいていは必要を超えて食べてしまったりしないものだろうなあ
と思うからだ


自発的に吐くとなると「もっと変だなあ」と思う
明かに身体のメカニズムを壊してしまうのがはっきり感じられる行為なのに
それでも自分でしてしまうってのはやっぱりちょっと変な行動だ

生物ってだいたい「こういう生き方をしているものです」っていうのが
もともとある程度あらかじめ決まっていて
例えばモモンガは夜起きている、とか
リスは真冬は寝ている、とか、
鹿は草を食べている、とか
そういう決まった範囲の中にいるのが
一番色々うまくいくもんだと思うのだけど

食べ過ぎたり、食べなかったり、吐いたり、というのは
その範囲からちょっとずつでてしまってるわけで
そうするとやっぱり出た分だけ心と身体に負担があるだろうなと思うわけだ

だからどちらかというと
その「変なこと」はやらないでもいいのなら
あんまりやらないほうがよいのではないかな、ってのが主な私の意見だ

ただ、ひとつ思うのはその「変なこと」に直面したときに
「意味わかんない」と蓋を閉めるのと
「なんでこんなことしてるんだろう」と蓋を開けるのとでは、
雲泥の差があると思う。

「意味わかんない、やめなさい」と頭で言って
物事が解決するのであれば一番早いしそれはそれで結構だと思うんだけど
「変なこと」ってたいていそんなに楽じゃないわけで
「やめよう」って言って止まるなら多分最初からやってないはずだ
そうするとやっぱりそこで「なんでこんなことしてるんだろう」
ってのが出てくるべきじゃないかなと思う

私の経験では頭って基本的にあんまりたいしたこと言わなくて
「ああしろ、こうしろ、これやめろ」
というのは、実は良く考えてみるとあんまり役立ってないことが多い
どっちかというと「こんな気がする」って言う気持ちのほうが役割は上位に思えるし
「こんな気がする」の中には生きるための色々な情報が詰まっている

「食べ過ぎるなんて狂ってる」という考えはそれ以上は広がらないけれど
「この喉元までつまる感覚がちょっと安心する」と思うなら
やっぱりその「ちょっと安心する」の方がずっと大事なことを言ってて
ずっと役に立つ感覚なんじゃないかなって言う気がする

生き物ってだいたい「こういう風に生きるもんだ」という範囲内に
うまいこと収まるように身体でも心でも働くから
だからやれることってのは
そっちの方へ進んでいく体や心ってのを信じて
もうタダひたすら信じて何もせずに見ている
自分の生きる力をひたすら尊敬する
ってことかなあ、と思う

何かすることもよりも何もしないで見ている方が辛いもので
「そんなことやめなさい」と頭で言うことは言わないことよりもずっと楽だ
でもやっぱり治るってのは「自分で立ち上がっていく力」に全部完璧にゆだねられているので
本当に本当にその力をとにかく信じて見守るより
他に方法はないのだ

やめなさいと言うことは、何も言わないことよりもずっと楽ではあるけれど。

2007年03月29日

チェリーの摂食障害は思春期にはじめたダイエットがきっかけになります。
完璧主義のチェリーは自分の身体を完全にコントロールできることが誇らしく
受け入れられたい、認められたい、完全でありたい、という思いから、次第にダイエットがやめられなくなります。
ある日娘の姿がアウシュビッツの捕虜のようであることに気づいた両親は、チェリーを病院へ連れて行き、極端なダイエットに干渉をはじめます。


「どうして自分の身体を自分の好きにしちゃいけないの」
「どんなことになったって、パパたちのいいなりになんかなるものですか」
「食べたくないものまで食べさせられるなんて、絶対イヤよ。
自分で体重をコントロールをしなきゃ、意味がないもの」

完全に身体を自分でコントロールしたいと思うチェリーと、チェリーの身体を心配する両親は泥沼の戦いを始め、そしていつの間にか事態は完全にチェリー自身の手に負えなくなります。
やめようと誓っても、どうしてもやめられない、下剤や嘔吐の習慣。
家族は完全に疲れ果ててしまいます。

「いや、ママお願いよ!あきらめないで!私を見捨てないで!ママ、お願い!」

そんな中でチェリーは新しい恋人ダンと出会います。
拒食症について受け入れ、二人でなら病魔を追い払えるだろうといってくれたのです。

「この人は本当に私を変えてくれるかもしれない」

チェリーはダンと二人で始める生活に希望を持ち、悪癖は絶つことを新生活の希望にかけて誓います。
しかし、一時収まることはあっても、気がつくと自分の意志に反し、時には犬の餌までガツガツと貪り食いをし、下剤を使い、過剰な運動をし、極端な食事制限をするチェリー。
そしてダンに見つかると、自分に驚き、絶望し、心から悔恨の涙を流します。

「まさか私がこんなことをするなんて!ダン、本当にごめんなさい!」

何度も繰り返される改心の誓いと、それを裏切る食行動、嘘、万引き、などの癖はダンを次第に苛立たせていきます。

「私の妻でいたいのなら、少しは生活を変えなくては!
このままキリスト教徒としての結婚をつづけたいんだったら、
私が家長となり、君は従順な妻でなくちゃいけないんだ!」

チェリーはそれに同意し、ダンは最低体重を決め、生活と食べるものを監視します。
それでも監視の目を盗んでは繰り返される異常な行動、嘘。
万策尽きた、と絶望する二人は高名な専門カウンセラーを訪れました。
二人は少しずつ気づきをもたらされていきます。
カウンセラーは言います

「他人を完全なコントロールのもとに置こうとするのははじめから無理なのですよ。
コントロールする方も、される方も、ただ苛立つだけです。
コントロールされる方に、それに従おうという気持ちがなければ、全て無益なことです。
チェリーは他人からコントロールされる状態を望んでいながら、
同時に、そのコントロールから何とか逃れて、
自分ひとりで歩こうと苦闘している典型的な例なのです」

チェリーは体重をめぐる長い戦いが自立の試みであったことに気づきました。
ただ、方法が非常に自滅的なやり方であっただけなのです。
チェリーは思います。

「人は、自分から好んで憂鬱になることだってできるのだ」
でもダンは、このような自由は決して許しませんでした。
それがどんな自由だろうと、どんな代償を払おうと--。
私はやっと、二人がともに変わることが必要なのだと気がつきました。

少しずつ、チェリーに独立心が育っていき、気分の落ち込みも減ってきます。
両親を遠くに押しやって自分ひとりの力を楽しむようになります。
健康を回復し、体重が増えてきます。
増えた体重に対する自己嫌悪ゆえに状況は一身一退しながら、長い時間をかけて体は快方に向かっていきます。
時々下剤や嘔吐をしてしまっても、その癖にあまり振り回されなくなりました。
ダンは拒食症を単なる精神病として片付けることをやめ、なぜ痩せたいと思うようになったのか、真剣に理解しようとし始めます。
そんな日々の中、チェリーはある日、実家に帰省し母親と口論になります。

「ガタガタ言うんじゃないわよ」
「この家でそんな口をきくもんじゃありません。分かってるの!」
私はこの家にいる間は、相変わらずおりこうさんでなくてはいけないようです。
せっかく芽生え始めた自信もしぼんでしまうような気がしました。
ついに私の怒りが爆発しました。
「いったいいつまで私を子ども扱いしようっていうの!
どうしておとな扱いできないのよ!私はもう24歳よ!赤ちゃんじゃないわ!」
ああ、ついにいってしまった!
この何年か、いおういおうと思いながらもいえなかったことを口に出していったのです。
私はとうとう独立を宣言したのです。

そしてこの日を境にして親子関係は変化します。
チェリーは拒食症から完全に立ち直り、自分の人生に責任が持てることを証明したのです。


この文章はチェリー・ブーン・オニール著
拒食症を克服した私」より内容抜粋して作成したものです。

---この本について---
内容については、あともう一歩の踏み込みが足りない、というのが正直な私の感想です。
大スターパットブーンファミリーの長女の著書で、実名で出版されているものなので、
おそらくチェリーの家族に対する思いや記憶の中に
意識的に避けて書かれなかった重要な部分があってのことなのでしょうが、
分析に今一歩の踏み込みがされていない部分があります。
また食欲を我慢できないことが意志の弱さからくるものだというような
(私個人としては猛反対を掲げている意見の^^)記述も多少見られます。
ですが、家族との密接なつながりの中での摂食障害、
それも本人の視点から分析しながら書かれた本というのは、稀少ではないかと思いますので、
「家族と摂食障害」について考えておられる方には何か
摂食障害に関する理解のヒントになるところもあるかと思い、
このような記事を作成してみました。
評価としてあともう一歩、ではありますが、類似の本の中では良書と思います。

実は数日前からリンク集にこっそりと
「ダイエットをやめたらヤセちゃった」の著者夏目祭子さんの
ブログ「夏目祭子のアンチダイエット・スリミングな生活」
サイト「アンチダイエット・スリミング本舗」
を追加させていただいていました。
本を購入しようかどうしようか思案している方はのぞいてみてはいかがでしょうか。

クリックで拡大します

イタリアルネッサンスの巨匠ラファエロの1514年の作品です。
ルネサンスって懐かしいですが、「人間中心主義」って習った、あの時代ですね。

このサイトを見て下さっている方と
「太っていることの意味」について
詳しくお話しさせて頂く機会がありました。
とても文章の上手な方だったので
文字だけのやりとりだったんですが
「柔らかな身体を持った女性像」が伝わってきました。
それがまた魅力的なのですよね。
私の頭の中に勝手に出てきたのが、この「小椅子の聖母」だったんです

ラファエロは沢山の聖母を描いてますが
これが一番「ボリューム」を訴えてくるような気がします
まず、幼子イエスが「バランスの間違い?」というほど
大きくてふっくらしてますよね
聖母も着衣で肌の露出が殆どないながらも、
ふっくらとした頬やたっぷりした肩や腕のあたりがとても印象深いです
でも、その重さで人を縛るものではなく
軽く空気のように身にまとえるもの、という感じ

たぶん、この絵の中で豊かな肉体そのものが
非常に大きな印象をもたらすということと
それからお話させていただいたのがお子さんがいらっしゃる方だったので
それらの連想がこの絵を思い出しのだと思うのです

この絵の中での女性は
幼子がこれほどふくよかになるまで与えてきっても
それでもまだ自分自身もこれだけの豊かさを失ってない
ずっと与え続けることのできる存在、
与えることを喜びとする存在、として見えます。
それは間違いなく「聖母」として描かれたからこそなのだと思うのです

同時に聖像画にしては随分「普通の人」っぽくもみえるのは
あんまり可愛らしいので
聖母として若すぎるのじゃないか、という感じとか
頭に巻いた布や衣装がエキゾチックで流行の衣装風であること、
椅子に腰掛けているのだけど、肩と膝の高さがかなり近い、
聖母にしてはお行儀悪い姿勢でこちらにリラックスを呼びかけいるということ、
そして、見る人と直接係わろうとするかのようなカメラ目線、
など、スナップショットみたいなところもあるためだと思われます。

実際これはラファエロが愛人を描いたのだとか
たまたま通りかかった母子があまりにも美しかったので
思わず酒樽の蓋に描いたんだとか
(これ、私が切り取ったのじゃなくて、もともと丸い板に書かれた絵なのですよ)
色々言われてますが、
どちらにせよ、目の前にとても魅力的な女性がいて
それをありのままではなく「聖母」という
理想にまで推し進めて絵を描いたみたいなのですね。
そしてその聖と俗の境目がかなり揺れている感じがします。

豊かで、与え続けるのを目的とし、
和をもたらし、でしゃばらず、
常に幸せで、美しく、守り、育て・・・
という、それは実際のところ理想であって

本当の日常ではどんな人でも時々一人になって
「女なんてやってらんないわ、あーあ疲れた疲れた」
って言いながらバランスを取ってるわけで
やっぱり「理想」は聖母様に持っていてもらいたい
私たちは同じ土俵で聖母様と競いたくはない、
ってのは感じますよね

システィナのマドンナ クリックで拡大します


もうひとつラファエロの聖母子で有名なものの中の一つが
システィナのマドンナだと思いますが
これ、聖母子の姿にピンとこない人が居ても
画面下の二人の天使を知らない人はいない、っていう作品です

この絵以降、天使は可愛らしい子どもの姿で描かれるのが一般的になったそうです
これ以前の絵は青年の姿の天使が多く描かれています。

こうなると画面全体の構成からしても紛れもなく聖母子に見えます。

聖家族 クリックで拡大します

もうひとつ、同じルネサンスの巨匠ミケランジェロの描いた聖家族。
これは場面の仕立ては間違いなく聖像画なのですが
単純に私のイメージで言うとこれはこれで聖母に見えないんですよね。
おそらく「筋肉がつきすぎている」という理由から。

聖母が筋肉ついていているはずがないという理由は特にないはずなんですが、
どうもラファエロのイメージの、果てしなく柔らかそうな身体の方が聖母に見えます。
何でだろうなあ、と考えてみたんですが
できるだけ柔らかそうな方が赤ちゃんを抱いたときに
まるで一体であるかのようにしっくりした感じに見える、
というようなことなんでしょうかね。

ミケランジェロは彫刻家だから、筋肉の動き方そのものに凄く興味があって
それを二次元で緻密に表現したくてやってみたのかな、
と思わないでもないのですが、
それにしてもどうしてこんなに筋肉質のマリアをあえて描いたのか知りたい気がします。

肩越しに赤子を受け取る姿も、キリストの高位をあらわしているのだろう、と考えても
なんとなく男性的に見えたりしますよね。
完全な聖の世界の中に描かれた聖母が男性的とも見える強さを備えている意味、
ってちょっと興味を感じます。

イメージはMarkHarden's Artchive.さんよりお借りしました

2007年03月28日

※すみれさんとの掲示板のやりとりでヒントを得た記事です。
すみれさん、どうもありがとう。

何をしても手につかない時、ってあるもので
「何したらいいんだ、何なら集中できるんだ」
と思ってうろうろして色々中途半端に手をつけて
結局、やっぱり食べる以外に自分の心を落ち着ける方法が見つけられなかった
という時って、あると思うんです

私が思うに「何をしても手につかないとき」というのは
「何もしたくないとき」で
「何もしない」をすることによってしか
心の落ち着きは得られないのじゃないかなと思うのです

ただ「何もしない」って難しいのですよね
どんなことでも集中するってとても難しいことで
食べることに集中するのも難しいんですが
「何もしない」に集中するのはもっと難しいって思います

私が一番良いと思うのはただ床に寝転がってることなんですが
これは実はある程度感情がこなれているときに可能な方法で
頭の中をあまりにも冷たい嵐が吹き荒れて
心がざわざ鳴り止まないときには
とてもできないんですよね。
ざわざわを止めるために何かせずに居られなくなります。
だから、あんまり難しく思えるときはやらない方がいいと思うのです
誰にだって背負いきれる感情と
背負いきれない感情がありますから
背負いきれないときは逃げないと危ないって思います。

じゃあ、どうしようか
となると、私の場合はここでお気に入りの手帳が出てきて
時間の許す限り延々文字を書いているのです。
私は心の中を言葉にしていくのが殆ど苦労のいらないタイプなんですね、
だから努力も集中力もあまり使わずに書いていけるのですが

でも、多分感情と言語とがあまり近くない、
頭の中にあるものを言葉にするのが
結構手間のかかる人も居ると思うんです
それに、今は何か書くっていう気分にもなれないんだ
ということもあるでしょう

そう言う場合に、どうしたら良いかな、と考えていたのですが

読んでいた「食も心もマインドフルに」という本で面白い
リラックス法を発見したのです

「呼吸に集中する」という方法です
読んでいた本を置いて早速やってみたのですけど、
確かにもっとも手軽で効果的なリラックス法でした
吸って、吐いて、だけにずっと意識をするんです
自然に呼吸が深くなってきて腹式呼吸になって
自分の心はこの身体の中に入ってるんだ、みたいな
「今ここ」で生きてる感じがリアルになります
本のアドバイスでは「吸って」、「吐いて」の意識以外に
心がふらふらとあちこちに行ってしまうようであれば
呼吸の数を数えるのも良いでしょう、とあります

特に過食を我慢する必要はないと思いますが
とにかく何をしても落ち着かない
でも何もしないこともできない
なんとかしてこのざわざわを沈めたい
食べたくないけど、やっぱり食べるしかないのか
という気分になったとき

どうでしょうか
「呼吸に集中してみる」

2007年03月27日

「ダイエットをやめたらヤセちゃった」の紹介記事を書いたところで
「ダイエットやめたら本当に痩せるのか?」
ということにどうやらみんな興味津々だということに気づき
今まで「体重」を完全に無視してやってきたことを
ちょびっと反省しました(ちょびっとね、笑)

ダイエットやめたら痩せるということについては
ダイエットやめたらヤセちゃった」の著者が自分で繰り返し体験し、
かつ皆に当てはまる法則だろう、と判断し、
調査し論拠を述べています
(公開講座などもしていらっしゃるので、
実際痩せていく多数の例を目にしているでしょう)

それから、ジェニーン・ロスも
食べたいように食べたら痩せる、と言っていて
実際自分で体験してるし、全米規模でワークショップを行っていて
著書の中でも体重を減らした実例が沢山出てきます
私がここでまとめた摂食障害から開放されるためのガイドライン
自由に食べて痩せるためのガイドラインでもあるのです

スージー・オーバックも
食べたいものだけ食べるようにすれば痩せる、といってますし
ダイエットの本はもういらない 」というのは
まさにそういった内容の本です

それから私も「食べ過ぎることの意味」を読んで
過食症を治し、好きなものばかり食べるようになって
最終的に大幅に体重が減少しました

事実としてあげられるのは、今のところこれだけです
拝金主義で無責任なダイエット産業のように
確実に痩せる!とはいえないので
これらを考慮して自分で判断してもらう必要があるんです


実はダイエットをやめるさいに
殆どの人にとって凄く気がかりになるだろうことがあって
それは何かというと
「痩せる前に太る」ってことだったりします。

ダイエットやめたらヤセちゃった」では、この現象を
現在のバランスを一度壊して新しいバランスを作り出すという
”変身のためのエネルギー”としていったん太る、と解釈してますし、
ジェニーン・ロスは
長い間のダイエット生活で自分から剥奪してきたものに対する渇望を癒すために
今まで禁止してきた食品を必要より多く求める期間がある
としています
スージーオーバックはあまりこの時期について注目して取り上げてないのですが
よく読むと痩せる前にいったん太り、
そのときに食事と精神的問題について深く考えることで痩せていっているのがわかります。
で、私も強迫的摂食をしなくなり、今のままの体重で目の前の人生に取り組むということをはじめた頃、
リクルートスーツでシュークリームの歩き食いをしていた情けない時期に
(参考記事:シュークリームの思い出)

ぽこっと太って、その後知らぬ間に痩せました。

踏ん切りをつけるのを躊躇ってしまうのは、
この時期がどのくらい続くか分からないってことだと思います。
それまで17年間の慢性的なダイエットと大幅なリバウンドを繰り返したジェニーンロスは
半年かけて6.8キロ増え続けたと書いています。
その後二年間で13.6キロ減り、
五年の間上下幅5.5キロ程度で絶えず揺れ動いているそうです
(参考記事:二週間のチョコチップクッキー欲求)
ダイエットやめたらヤセちゃった」では、具体的な数字はないですが、
ずっと増え幅も少なく、減りはじめるまでの期間も短いような感じで書いています。
(それまでの人生で増減させてきた体重の量による差じゃないかな、と思うのですが)
私自身は体重計を持ってないので微妙な話は難しいんですが
就職の決まらなかった数ヶ月にズボンがきつく感じる程度に微増して
就職が決まったとたんするする落ち始めました。
この辺は精神的な要因と絡んでると思います。

それからさらにもうひとつ、
ダイエットやめたらヤセちゃった」の著者の弁によると
”痩せた体の冷凍保存”はできません
つまり生きている限り、身体が必要なときには脂肪が増えるってことです

私の例

過食をやめて一時期太ってから
その後生活の安定した三年間に渡って
体重は減り続け、もう一生太らないんじゃないか、と思うほど痩せました

で、三年経過したあとに私は人生を変えようと思って
勤めていた会社を辞めて、持ち物を全て処分して
自転車で三ヶ月旅に出るんですね^^;
運動量と食事量と将来の不安が激増し、旅行中に体重微増。
で、そのあと今度は住み込みで肉体労働を一月半、
食べるものは一日二回の賄い食のみという生活に入ります
強烈に甘いものに飢えたけれども手に入らない日々でした
この時は旅行中に微増した分の体重が減りました

その後自分で家を借りて新しい仕事を企画しはじめます。
ここで体重増えるんです。
多分急激に増えていた運動量と
住み込み労働期間中のカロリー不足が引き金かな、と思います
増えるのは嫌でしたが、仕方ないと思ってそのままにしておくこと一年
増えた体重が減らないことに気づきます
おかしい、と思うわけです
食生活について考えてみると
収入が安定しないために我慢ばかりしているんです
食べたいものがあっても我慢
食べたくないものでも、仕事のパートナーが「食べる?」と聞いてくれたら
それを食べて食費を節約。
自分の食べたいものを全く食べない一年だったことに気づいたんです。
尚且つ増えてこない収入に対する不安で生活が萎縮します。

いかん、いかんと思いまして
「金がなかろうが、痩せてなかろうが、
自分が欲しいものを手にいれるために最善をつくすということを
諦めてはいけなかったんだった!」と初心に返り、
何を食べたいかを考えた末に「チョコパイ」(関連記事)を買いまして
机の傍においていつでも食べられるようにし、
食べたくないものについては誘われても断るようにして
チョコパイは減ったら補充を続け、
常に好きな食べ物が身近にあるように心がけました。
(カマンベールチーズになったり、ポテトチップになったり、
その時々で違いますが)
まだはっきり分かるほどではないですが(体重計無いもんで)
身体で感じる限り、
体重は減り始める時期にさしかかってるような感じがしています

そういう感じで
”痩せた体の冷凍保存”ができません
常に身体の要求に応じ、太る必要のあるときは太るのを認めることと
身体の状態に耳を傾け、できるだけ快適であるように生活に気配りをし続ける
必要があります

そういうことなんです
「楽ヤセ!」「二度と太らない体質に!」ということは
言えないわけです

それでもよかったら、どうぞ
(どちらにしてもこの本は一度読んでみて良いかと思います)


ダイエットやめたらヤセちゃった―アンチダイエット・スリミングの魔法
ダイエットやめたらヤセちゃった―アンチダイエット・スリミングの魔法


※「ダイエットやめたらヤセちゃった」関連記事一覧
レビュー
ダイエットをやめたら本当に痩せるのか?

2007年03月26日

ダイエットやめたらヤセちゃった―アンチダイエット・スリミングの魔法
ダイエットやめたらヤセちゃった―アンチダイエット・スリミングの魔法

面白いのです、この本

このサイトですでに何冊か本の紹介はしているのですが
フェミニズム論が入っていて少し堅かったり
外国で出版されたもので文化的土壌が違っていたりしたんですが
その点この本はかなりしっくりきて、読みやすさ抜群です。

パイナップルダイエット、
キャベツダイエット、
ゆで卵ダイエット、
リセットダイエット、
など「あー、あったあった」と身近な感じですし
マイクロダイエットを飲んだあとは普通の食事がとりたくなる、
なんて書かれると「あー、なるなるなる」と思いますし
日本のダイエット史をめぐる
女の子トークとして読んでも普通に楽しかったです(笑)


ベースになっているのは長年のダイエット、摂食障害経験のある著者が
「ダイエットすると太るし、やめると痩せる」
という説得力のある経験を分析したもの
痩せている時期について考えてみると
美味しく、積極的に食べている時期と一致する、と言うのです

結果たどり着いたのは
今までの「エネルギーの必要量より少なく食べると、皮下脂肪が消費されて痩せる」
という従来のカロリー引き算の法則は嘘、という仮説。

身体は自ら不要な栄養素は吸収せずに排出し、
必要以上の皮下脂肪は解体して捨てていくバランス維持機能があるので
つまり痩せるためには身体がその機能をきちんと発揮できるよう
カロリーに不足が出ないように食べながら「体調を整える」のが正解

ダイエット食品や、痩身エステなどダイエット産業の実体や
ダイエット広告をめぐる嘘の解明
身体の声を聞き取る力の磨き方や
過食に陥る謎の解明と脱出法も書いてあります。


これ、「仮説でしょ」って言うこともできますが
経験的に納得いきませんか?
私もぐんぐん痩せいった時期って何食べてかな、と考えてみると
深夜2時とかに一人でじゃがいも切ってポテトチップスを作って
もりもり食べてそのまま寝たりしてたんです(笑)
その時期なぜかポテトチップスにはまっていたんですよね。
友達に言うと「えー、太らないのっ!」と言われるんですけど
実際かなり痩せていってるから
「・・・太らないみたいだよ」って言うしかない。
(深夜にポテトチップスを食べると痩せる、って話じゃなくて
食べたい時に食べたいものを痩せる、って話ですよ^^。)

ダイエット法って色々あります。
毎日どんどん生産されるし、
最悪なことにそれぞれ逆のことを言ってたりしますよね。
「朝は食べる。いいや、朝は食べない」とか
「果物を積極的に。いいや、果糖はいかん」とか
どうすりゃいいんだって感じなんですが
情報ってのは人の数だけあるもので、
比較的もっともらしいものはありますけど、どれも保障ってのはないわけです
結局自分の責任で選ぶしかない。

で、あれば
「それを信じたら幸せになれそうか」
というのを基準に選ぶしかないんじゃないかな、と思います
計算式をもとにカロリーを減らしていけば幸せになれそうか
それとも
身体の調子を整えながら食べたいものを食べていけば幸せになれそうか

「自分のしたいようにするのが怖い」のであれば
それはまたダイエットとは別の問題で
まずその心の問題をダイエットと切り離して先に取り組む必要があるわけですしね。

そんわけでとりあえず、
この本を皆で読んでみませんか。

ダイエットやめたらヤセちゃった―アンチダイエット・スリミングの魔法 (sai books)
ダイエットやめたらヤセちゃった―アンチダイエット・スリミングの魔法 (sai books)

関連記事一覧
レビュー
ダイエットをやめたら本当に痩せるのか?
アンチダイエットサイトのご紹介
食品カロリーの謎
身体の冷凍保存

2007年03月25日

19歳の、大学に入ったばかりの頃でした
食パンを買ってくると
それを一回で全部食べてしまうことに気づいたとき
なんだかおかしいぞ、と思いました
いくら何でも食べすぎだろうと思ったので
一枚だけ食べよう、と決めるのですが
どういうわけか一袋食べ終わるまで止まりませんでした

食べていないと時間が進んでいかないような気がしました
時計を見て、あまり時間が進んでいないことに驚いて
そして食べたりしました
ラジオを聴いていて聞いている間に何をしていたら良いのかわからないくて
それで食べたりもしました
夜中に目が覚めて、ふと自分がお腹が空いて目が醒めたのじゃないかという気がして
それで食べることもありました
とにかく何かを埋めるように食べました

何かがおかしいような気がしたとき
私が最初に思いついたのは、
悲しいことにまず自分から取り上げるということでした。
食パンを買って家においておくことをやめました
それから食パン以外にも簡単に食べられるものを置いておくのをやめました

そのときから家中の食品を集めて
何だかよくわからないぐちゃぐちゃしたものを作って
食べ続けるようになりました
およそ食べ物といえないようなものを食べる自分のことが
もう全く分からなくなりました
食べすぎて気持ち悪くなって吐いたときに
自分は狂ったんだな、と思いました

私は19歳でした
中学三年のときからの四年間
勉強して勉強して、無理して背伸びをした大学に入りました
どうしてあんなに勉強したのかといえば
「今これだけ勉強してあの大学に入ればきっと本来の自分の人生がはじまる」
と思い込んで自分の人生をそのときまで引き伸ばすことに夢中になっていたからです。
楽しいことも悲しいことも虚しいことも
全部勉強の後ろに隠して
「今はそんなことしてる場合じゃない。私には勉強があるのだから」
と言ってきたのです。
そうやって、私は閉じこもってできるだけ傷つかないようにしていたのです。
多分そのときはまさか本当に自分が大学生になるなんて
思ってなかったんでしょう。

だけど時はたって
私はちゃんと希望の大学に受かってしまいました。
引き伸ばしてきた人生が、全部いっぺんに降りかかってきました。
もう、引き伸ばす口実は見つかりません。
でも当然、大学というものそのものが
光り輝くような生活をプレゼントしてくれるということもありません。
私は大学に入学する準備は充分にしていましたが
人生をはじめる準備はちっともできていませんでした。
人とどうやって交わっていいのか分かりませんでした。
悲しんだり、傷つけられたりするのはいやでした。
人から離れて一人になれば、その分孤独がついてきました。

だけどその大学に入ることが
私にとってはあまりにも大変なことだったがゆえに
大学生活が素晴らしくないなんて、思うわけにはいきませんでした
私はできるだけ何も考えたくないと思ったのです
だから
ふと何かを考えてしまいそうになると食べ物を口に突っ込んだのです
食べている間は考えずに済みました

今だから分かるのは
私が、自分の置かれている状況を認めて
今までなかった新しい勇気を持ちはじめるために
そのとき食べ物の助けが必要だったなら、
本当はそれで全然構わなかったのです。
もちろん満腹以上に食べればその分は太りますし
19歳の女の子にとって太るのはなかなか辛いことではありますが
だからといって途方に暮れて弱っている人間の手から
もっともっとますますもぎ取って行こうというのは
まったく見当違いな対処です。
剥奪しなければ、いつかそれが必要なくなったときに
私は何の苦もなくそれを自分から手放したでしょう。

私は自分を恐ろしくなって
家に食パンを置くのをやめました
自分の好きな食べ物を一切おくのをやめました
手軽に食べられる食べ物を全て排除しました

本当は
私にできる最良のことは
私の孤独の家を
好きな食べ物で一杯にすることだったのに

そのときにはそれが分からなかったのです

2007年03月24日

ヴァルパンソンの浴女 1876年 クリックで拡大します


新古典主義の作家アングルの作品
均整がとれていることを重視した時代です。
コルセットで締め付けずナチュラルであることが流行しています

この見事な背中は「ヴァルパンソンの浴女」 という1876年に描かれたもの
この背中はずっと見ていたくなります。

この絵を見ていて、なぜ好きなのかな、と考えるわけですけど、
ちょうど銭湯で人を見る感じと角度が近いのですよ。

銭湯って、こっちも周りも全裸なわけですから
やっぱりあんまり正面から人をじろじろ見たりしないんですが
でも私は女性の身体が好きなので
湯船の中から洗い場の女性を見ていたりするんですよね。
それでこっちが湯船に入ってると、ちょうどこの絵みたいに
低い角度から色々な女性の背中を少し見上げる感じになるわけです。

だからこの絵を見てると、銭湯で知らない誰かの背中を見て、
それが色々な形であることに安心する感じとか
見てるほうも見られてるほうも、裸で装ってなくてほっとしてる感じとか
あとはもわもわした湯気のにおいとか、質感とか
そういうものを思い出すんですよね。
だから、単にこのモデルの背中の美しさに見とれるという以上に
感覚的にもっと好きなところがある気がします。

この絵は女性の背中の美しさを描いたものとして有名なものです。
自然の地平線を見るようななだらかさですよね。
今の流行のボディよりはかなりボリュームがあって
腰まわりもゆったりとしています

これが、ヒップハンガーのパンツとかはくと
この腰の部分の肉が乗っかるわけですよね(笑)
乗っかった肉ってのは美しいものじゃないんですけど
肉ってのは乗っけるものじゃないから美しくないだけで
肉そのものが美しくないわけじゃないんですから
試着室から出てくるときは
「私の身体は醜いんだ」と思いながら出てこないで
「このパンツは私のボディラインにマッチしてないんだ」
と思いながら出てきてくださいね。


閑話休題



泉 1820~56年 クリックで拡大します

アングルはぱっとみてもわかるんですが
やたら美しい肌を描きます。
30年かけて美の理想を追求したという「泉」という作品では
この肌が美しすぎるのが「嘘っぽい」
ということで批判されました。
確かに質感は生き物というより陶器のように見えます。
でも、このつるつる肌の理想って、現代の理想に通じてますよね。
たっぷりライトが当たってシミも皺も体毛もない
生きてきた歴史を感じさせないモデルさんの写真は
ちょうどこんな風に陶器のように見えます。
美の理想というのは、どうかすると
「人間っぽくない」ぎりぎりのところにあるんですよね。

「ああ、この絵は西洋絵画史における叶姉妹なのかなあ」
とか思ったりして、色々な人から色々な叱られ方しそうですけど(笑)
でも全体としてアングルの方が現代の美の理想よりは
はるかに人間っぽいと私は思います。

この絵が面白いのは
男性が見るとアングルの狙い通り完璧なプロポーションに見えるらしいですが
女性は「お腹出てるよね」とばっさり切ったりするようで
確かに人間というのは自分の気にしてるところばかり見るものです。


ドミニック・アングル
1780~1867年、(フランス)

イメージはMarkHarden's Artchive.さんよりお借りしました

かつて、恋人に摂食障害について言う時
どうしてわかって分かってもらえないんだろう
といつも思っていた

こちらにしてみれば
とんでもない勇気を振り絞ってカミングアウトをしているのに
「うん、うん。暴飲暴食に気をつけてね」
と、親切な忠告をうけてその話題は終わったりする。
まるで私が馬鹿で自制心がないから食べてるみたいだなと悲しくなる。
それでも諦めきれずに何度か言う
何度言っても、伝えたいことを分かってもらえない

「摂食障害の辛さを分かってくれない」
とは、私に限らず多くの人が言うことなのだ
あのすれ違いって何なんだろう、と
考えたのだけど

食べ過ぎることや充分に食べないことというのは
言葉にならないメッセージで
私たちはそれを主張する権利が自分にはないと思っているから
食べ過ぎることで表にあらわしている
「私は食べすぎてしまうの」と告げるのは
いわば摂食障害のバトンを相手に渡す行為で
「言わないけどわかって」
「言えないけど私の本当の辛いことを魔法のように理解して」
という試みだったのだ

だけど
「魔法のような理解」というのは
普通はありえない
分かって欲しいことは
それを自分で主張するしかない

こちらが辛い思いをしているのを分かっていて
わざわざ体型のことをからかうパートナーもよくいる
「その摂食障害のバトンは受け取らないよ」
というサインだろうと思う
食べるという形でものを言ってほしくない、
間接的な手段で相手を思いやるように操作されるが嫌なのだ

恋人が同時にカウンセラーではないのは無理からぬことだ
人の関係の中では、伝えたいことは
「分かってもらうように相手の心を操作する」のではなく
「自分で主張して妥協点を探り当て」ていかなければならない

「私は摂食障害なの」と誰かに告げるとき
私たちは物凄くたくさんの期待をしている
どれだけ辛いのかを分かってもらって
自分でも良く分かっていない抑圧した欲求を理解して解決してもらいたいと思っている
相手の関心を自分の「辛さ」に向けさせたいと思っている

根底にあるのは
「私には自分が本当に思っていることを主張する権利はないから」
という想い。

2007年03月23日

ルーベンス「毛皮さん」  クリックで拡大

はい、セルライトです(笑)
現在私たちが普通に暮らして自然に目に飛び込んでくる情報にだけ頼っていると、
セルライトって、エステサロンの「施術前」の写真の中でくらいしかお目にかからないですけど、
歴史ある美術館にいくと一杯あるってことです。

ルーベンスという作家の1630年頃の作品、
バロック芸術と分類される時代です。
この時期は太っていることが権力の象徴であり美しいことだ、
という流行がもっとも盛り上がってた時代です。
この絵を見ても豊満と贅沢がほぼ同義だというのが分かります。

ルーベンスは派手な構図のものを沢山描いた画家で
そのなかではこれは比較的動きが少ないようにも見えますが
でもかなり思わせぶりです。

モデルは作家自身の二度目の奥さんエレーヌ・フルマン。
そう考えるとナマナマしいなあって思っちゃたんですが
離れて見て美しい肉体として描かれてるわけではなくて
自分で近づいて触る肉体なわけですよね。

この作品は遺言によって売却を禁止され
エレーヌの手元に残されたという、
ルーベンスにとって特別なものだったようです。
余計ナマナマしいんですけど・・・(笑)

当時はヌードというのは大っぴらに描いてはいけないもので
聖書か神話かをテーマにかこつけて描くのが暗黙のルール。
この作品は一応美の神ヴィーナスとして描かれているのですが
ヴィーナスを暗示するモチーフは殆どないです。
なぜか裸体に毛皮を羽織るあたりが非日常的な感じはしますが
でもこれも神々しさというよりも、むしろ「風呂上り?」
みたいな、現実と非現実の間で揺れ動いてる感じがします。
ヴィーナスにも見えないし、生活の中の奥さんにも見えない。

強いて言えば女性がなんとなく身体を手で隠すけど、
隠しきれていない、というポーズはヴィーナス像を連想させます。
(ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」とか」)
余談ですが、宮沢りえさんが写真集をだしたときに
なんとなく前を隠すようなポーズをしてたのも
「ヴィーナスのポーズだなあ」と思ったんですが
あれは意図したものだったんですかね。

ボッティチェリのビーナスの誕生 クリックで拡大

この裸体に毛皮というのは
非日常の中でも神話よりというよりは
娼婦風の官能という風にみえます。

結婚したときルーベンス53歳で妻16歳なんです
妻はこれから生命の頂点に向かって凄い速さで駆け上がっていく年齢で
ルーベンスは寿命のことについて考え始める年齢、
そのギャップってルーベンスから見ると
物凄く深いものじゃないかと思うのです
近づくほど、触れるほど、深まっていく
自分には手の届かない生命の躍動っていう思いが
身近で生活する生身の身体を、
ヴィーナスの世界とも娼婦の世界とももつかない美の理想に
住まわせたのかもしれないですね
理想というのは、「取り返しがつかない」という想いの中にこそ宿るのかもしれません。

この身体を現代風のぴちぴちのTシャツとか
ローライズデニムとかに押し込むわけにはいきませんが
この豊満な肉体に豪奢な毛皮のコートを
おぼつかなげに羽織る姿というのは非常に良く似合うしミステリアスで官能的です。
(正直言うとルーベンスのエロジジイとも思いますけど)

近年の心理学実験では
痩せすぎてるモデルの写真をみると不安を感じる、
なんていう現象も確認されているようですが、
翻って寄せたり上げたり締めたり押し込んだりしてない
こういう肉体の姿って、安堵します。
女性にとって自然に近いボディラインだからってのもあるのでしょうが、
なんていうのか、現代人としては見て張り合わなくていいから楽ですよね。
「この人の太ももは私より細い、どうしようっ」とか
そいう無駄な戦いを連想させない美しさがあるってだけで嬉しいことです。

21世紀になって若い女性たちが
脂肪が自分を美の理想から遠ざけると信じるようになるとは
ルーベンスまったく思いもしないことでしょうね。

三美神 クリックで拡大
有名なこの三美神も奥さんがモデルと言われています。こちらも重量感のあるボディ

イメージはMarkHarden's Artchive.さんよりお借りしました


ヴィーナス、通称毛皮をまとったエレーヌ・フールマン The Little Fur (Helen Fourment, the Second Wife to the Artist)
ルーベンス
ウィーン美術史美術館

普通に生活していると
美容産業の手によって計画された一種類のタイプの美人しかみかけないもので、
それはたしかに美人で可愛くて大変結構なのだけど
実は人類はもっともっと沢山のタイプの美人像を持っている
そういうのをぜひ知っておきたいじゃないか、
と私は思うのだ


で、著作権法を調べてみたところ
著作者の死後50年を経過した絵は
公有財産とみなされ、誰でも自由に使用することができるらしいのですね。
(お勉強させて頂きました:http://www.h6.dion.ne.jp/~em-em/page123.html)

そんなわけで「柔らかな身体の美女たち」をみる
という企画をシリーズで行うのはどうか
なんて考えてみました

ちなみに絵画についてはまったく詳しくないので
物凄く恥ずかしいこと言っていたら
こっそり教えてくださると助かります。

企画倒れませんように。

2007年03月22日

痩身願望についてきちんと検証した論というのは
あまり見かけないので、これは非常に面白かった。
ちょっと難しかったのでここに概要をまとめながら
読んでみたわけでした。

私が自分自身過食症だった経験から振り返って考えると
少なくても私は「自分で選んで過食症になった」という思いがあるので
感覚的にはこの本の論と少しずれているところはある。

過食症ってのは今や社会現象といっていいくらい一般的なものになってしまったのだし、
そうである以上、政治的な要因、経済的な要因、文化的な要因など
本書に書かれていることは当然絡んでくる。
そういうものを考察することは有益だとも思うのだけど、
ただ私の感じからして、
「社会の側に痩身願望を誘発する要因がある」ということと
「私が痩身対して強迫的になる」ということの間には
もうワンステップあって、
そのワンステップは社会の側でなく、私の中にあった。

思うに、私はちょうどあの過食症をしていた二十歳前後のころ
それまでの成長過程で手に入れられなかった自意識を、
自分の力でなんとかしてに入れなければならなかった時期だったんだ。
そのために、なんというのか、とにかく何か苦しまなければならなかったわけで。
何歳になっても、どういう形のものでも
成長ってとても危険なものだと私は思っていて、
自分を一回殺して、それで生き返ってくる、くらいの
緊迫感のある人生の段階が「成長」ってやつで
私はそれをあの頃「過食症」という形でやってたんだなあ、という
そういう感じの理解なんだな。

だから社会がいくら強迫的ダイエットのお膳立てをしても
それ自体が強迫観念を作り出せるわけではなく
やっぱり強迫行動を選んでその中に入りこんでいくのは
他ならない自分自身だろうし、
必要あれば自分自身で選んでそこから出てくるだろうっていう、
やっぱり私は結局個人に帰結する考え方を、
むしろするんだよな。

でもこの本は今まで当たり前だと思っていたことを
実はこれはこうです、こうです、と取り出して説明してくれるので
自分の中で一体何が起こってるのかということを
広い視野で見ることができるし、
社会という文脈の中でこの強迫観念について見ていくと
その強迫観念自体、全然気の狂ったものなんかじゃないってことが
とっても良くわかって、やっぱりいい本だと思う

なぜそんなに痩せたいの?―「美人」になりたい女の社会心理学
なぜそんなに痩せたいの?―「美人」になりたい女の社会心理学


「なぜそんなに痩せたいの?」関連記事一覧
1 美人の文化史
2 美人の社会心理学
3 美しいボディの創造
4 美人をめぐる神話
5 私の感想

なぜそんなに痩せたいの?―「美人」になりたい女の社会心理学
なぜそんなに痩せたいの?―「美人」になりたい女の社会心理学

「第四章 美人をめぐる神話」の概要です。

なかなか社会構造やマスコミに対して手厳しい論が続くんですが
最後に、じゃあ、どうやって取り組んでいこうか、というところで
「女同士で愚痴を言うのは効果的」
となるあたりでちょっとうふふ、と笑ってしまいました。
いや、でも実際効果的だと思う。
特に今まで誰も言わなかったことを言うのってすごく良いと思う。

猛進してきたこのフェミニズム論の最後に「愚痴りましょ」
と書いてあると、なんか予想外の安心感を感じてしまったのでした。

魅力を売買するシステムにおいてボディは資本になり、美は通貨になる。
美の崇拝はとりわけ一つのことを意味する。
それはぼろ儲けということだ。
意識的に吹き込まれた劣等感によって女性たちは最後まで同一行動をとるように仕向けられる。
美容産業は女性が持つ無意識の不安をあやつって自己憎悪を書き立てる。

美しいボディの創造に絶えずいそしむことは、
女性にとって社会的に認知されたひとつの職務形態である。
外科医になるよりもセクシーに見せるほうが簡単だ。
さまざまな社会規範に対応しきれずに苦しんでいる社会では
ボディサイズをコントロールすることに意識を集中することは
ある種の開放でもある。
美しいだけで充分なのだ。

しかし実のところ美人を持っているのは素敵な人生ではない
美人とされる人ほどより自意識が高いわけでもないし、より知的なわけでもない、
健康でもないし、自身の外見に確信があるわけでもない。

一般的に美人がもつとされている特性を実際にもっているのは、
客観的な美の基準に関係なく、自身の強い自己評価感覚に基づいて自分自身を魅力的だと考える人たちである。
より高い自意識は、肯定的な自己イメージによってもたらされる。
自身の美しさを自覚していない美人は、自身の持つ魅力がプラスに作用する可能性はずっと少ない。
人生とうまく折り合いをつけて幸福であるためには、美しくある必要はないのである。

美は私たちから時間、金、エネルギーの三つの供物を要求する。
美のためには莫大な金がかかり、女性たちは疲労困憊する。
一体、美は割にあうのだろうか?

美をめぐる神話が女性にもたらすのは
自己憎悪、コントロール喪失の不安、自分自身のボディを不完全だと思い込むこと、の破壊的な混合物である。
美をめぐる神話は、女性が力をもつためには魅力が必要不可欠な資格であると宣言した。
自身を自己演出することによって力を得られると女性は思い込む。
しかし、美しいボディによって得られた力は
間接的であり、自覚的ではない。
美は決して行動能力には結びつかない。
美に社会的な力があることが確かととしても、
正直なところ、女性が自分のボディを憎んでいたら
世界を獲得しても、一体何の意味があるだろう。

女性が美とボディに固定されることで
女性の力は同時に弱められもする。
自身を人形のように見せることは直接的な権力には関心がないことのシグナルとなる。
美は行動能力の代替品、見せかけの力であり、
美の力は体験されないものの代償となる。
美の規範に従う女性は女性解放に対してまだ充分な勇気がないことを示しているのではないだろうか。

自身のありのままの姿を好きになることを学べば問題はなくなる、
というのは空疎なたわごとである。
なぜなら美は重要、とても重要であるから
美の規範を無視することは殆ど不可能なのだ。
自分自身を醜くて嫌だと感じる時期は常にあるだろう。
この不満が永続的にならない限りは特に問題はない。
問題はむしろ、ボディの危機といかにつきあうかである。

他の人たちの何を美しいと思うのかを、
自分に問いかけてみよう。
それは外見だろうか、立ち振る舞いだろうか、
ボディだろうか、他のひとたちから賞賛されるからなのか。
自分のそのような外見であればもっと幸福だと考えるからだろうか。
そうであったとしたら本当に今よりもっと幸福だろうか。

考えてみるとボディの変更の可能性は非常に少ない。
背の低い人は低いままだし、
太りやすい人が痩せるのはとにかく非常に難しい
がっしりした体格が華奢な身体に突然変異することはまずないし、
年を取れば皺が増えて子どものようなすべすべの肌には戻らない。
つまり遺伝の持参金は殆どが変更不可能で
美しくなるための余地は比較的少ないのだ。
理想的な美を作ることはできない
できるのは美への新たなアプローチである。
私たち自身ならびに他者に向ける私たちの視線を変えることはできる。

ボディの危機に際して定評のある最初の一歩は
女性たちが自身の経験を語ることである。
女性が自身のボディに好意的になれないときには
女性同士で愚痴をこぼしあうのはきわめて有効である。
内心恐れを抱いていることについて語ることはしばしば、
不安をやわらげる助けになる、
美について、それに関連する葛藤について語ることによって、
女性を不安にする力の一部は消える。
痩身妄想の自己破壊的な面を認識し、
次第に自身の心理的、肉体的飢餓に理解を示すことを学ぶかもしれない

わが身を美しくすることが害になるのではない。
美容一般が私たちを害するのは
私たちに他の選択肢がない場合、つまり
戯れが強制になる場合である。
私たちの個性と欲求が美によって制限されたり、
私たちが美に自己評価を見出そうとする場合に美は非生産的になる。

美はもはや品質を決める特性であってはならない。
そうなれば自身の外見と和解することはずっと容易になるだろう。


「なぜそんなに痩せたいの?」関連記事一覧
1 美人の文化史
2 美人の社会心理学
3 美しいボディの創造
4 美人をめぐる神話
5 私の感想

2007年03月21日

なぜそんなに痩せたいの?―「美人」になりたい女の社会心理学
なぜそんなに痩せたいの?―「美人」になりたい女の社会心理学

第三章「美しいボディの創造」の概要です。

「何を犠牲にしてでも美しくありたい」という気持ちにスポットが当てられます。
私が知る限り、「体重を減らすためなら手の一本、足の一本を切ってもいいような気がする」
という人たちは現実に居るし
私も下剤飲んだり、絶食したりしていたころは
「問題は健康かどうかってことじゃなくて、痩せてるかどうかってことだけだ」
と思ってました。

「まずは苦痛が苦痛として認識される必要がある」
という章です。

美を作り出し、保つには苦しまなければならい。
断食し、体操し、吐き、健康な肉体に外科手術をする。
女性は自らを美の名前で拷問にかける。
肉体が苦痛を免れていて、それでも魅力的というのはもはや想像するのがむずかしい。
美に対する苦痛に女性たちは口を閉ざす。

だが痛みが緩和されるためには
まずそれが社会によって痛みとして認識される必要がある。

体重という概念を発見したのは生命保険会社だ。
被保険者の健康と死亡を見積もるために分類する基準として使われた。
1850年頃から健康は数値で表され始めた。
既製服の普及によって女性は仕立て屋にではなく、自身のボディに不満を持つようになる。
ダイエット産業の発展により太っているのは意志力の欠如によるものとされ、ダイエットはモラルの問題となる。
痩身の理想はマスメディアによって宣伝され、首尾よく定着する。
自分で健康と感じるから健康なのではなく、
スリムであってこそ健康なのだという考え方に美容産業も便乗した。

実際のところ健康と体重に関係はあるのだろうか。
女性が長生きなのはより多くの脂肪をもち
腰、臀部、大腿部に蓄えられているからであって
女性の過体重が健康と関連している場合は
むしろ繰り返されたダイエットと自分自身を憎悪するときのストレスが
その主な原因といえる。
男性についても痩身と健康との関連を確定することはできない。
たいていの場合、健康上の理由からダイエットを行う必要はないのだ。

太っているか痩せているかは遺伝の問題も関係する。
体型に善悪のような道徳的価値を投影するのは紛れもない人種差別と言える。

何もしなければ全てが不確実なときにダイエットは少なくても安心感を与えてくれる。
欠けている人生のコントロールの補償としてのボディコントロール、
現実の権威に変わって権力を表現するボディ。

自由意志による断食は、自由にならない過食という副作用を引き起こす。
ヨーヨー現象によってダイエット後はますます太り
精神的にも感情的にも大きな負担を強いられる。
そしてダイエットと同様に自己コントロールの幻想を抱かせる強迫的なスポーツ。
危険を伴う食欲減退剤と下剤。
栄養価が少なく高価格で、食品業界を太らせるだけの低カロリー食品。
その恐ろしさについては殆ど何の報告もされていない美容整形手術。
永遠に続く美のための拷問。


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3 美しいボディの創造
4 美人をめぐる神話
5 私の感想

過食症というキーワードを狙った気になる情報を見かけました
新しいものでもないので、詳しいかたはご存知なのかもしれませんが
ご報告。

ネットで過食症について調べていたら
メルマガがヒットしまして
読んでみたんです
過食症の治療機関で発行してるらしい情報で
バックナンバーを3ページほど読んだあたりで
なんか変な感じがしたのは

どうも脅してるんですよ

過食症はこんなに怖い
放置するととんでもないことが起こる
と、悲惨な体験記を長々とコピーして
「これを読むだけでも過食は止まるでしょう
でも治らなかったら当センターへ相談を」
となってまして

ただでさえ傷ついてる人を専門の治療機関がわざわざ脅すか?

と思ったのでちょっと良く見たわけです
そうするとどうも医療機関のように見えるように書いてはあるんですが
団体名がはっきりしない
ホームページへのリンクがあったのでそっちもみました

そうすると
「過食症を治すのは非常に簡単です」
と書いてあるわけですね
ほお、そうか?私は簡単じゃないと思うけどね
と思ってよく見ると
どうやって治すのかは一言も書いてないわけです
「簡単です」って書いてあとは
「治った、嬉しい」という体験者談でひたすら情報を水増ししてある
詳しくはメールか電話で個別相談してくださいってことです

情報の寸止め、ですね

治療法を探してサイトに辿りついた人に対して
何の有益な情報ももたらさないって
専門家としておかしくないか、とますます首をひねります
もっと読むと
電話とメールは無料、面接は有料、となっており、
・・ということは
無料で相談するとまた寸止めがあって
続きは金払ってね、という仕組みかな、
と当然勘ぐってしまうわけではあります
面接の料金も不明確で
とりあえず電話しなければ何もわからないようになっている

体験談もどこかおかしいんですよね
「過食症が治ったからこれで私は幸せになった」
という異常なハイテンションが延々続くわけです
過食症が治っても、それは単に過食をしなくなるだけで
麻薬じゃないんですから
いきなり毎日が楽しくなるわけないと思いますが。

何か悪徳商法なのか調べてみようと思って
機関名を探すと名前も所在地も書いてない
機関の責任者の名前もわからない
たぶんこの辺でそろそろ法的な問題が出てくるんじゃないかと思います

メルマガの方に文責の名前が出てるのでそれで調べてみたのですが
ヒットしないのですよ
数万人の患者を治療した専門家(自称)が
世に名前が全く出ないのも普通では考えにくいです

ただ、ひとつ行きあたった情報は
過食症治療の専門家と名乗って
ネット上で治療者を集めて高額の治療費を取る人物、
組織名を頻繁に変えて、所在地を明らかにしない人物というのは
どうやら実在するようです
(この情報自体も関係者の内輪モメ的様相を呈してましたが)

メルマガの発行部数はかなりのものですし
サイト、メルマガとも過食というキーワードで上位ヒットします。
影響力は小さくないはずです。

インターネット協会に通報はしたのですが
どのような対応になるのかはよくわかりません。

何が言いたいかっていうと
「皆さん気をつけてください」ということよりはむしろ
不安に付け込んでほっとくと死ぬだの何だの好きなことを言って
人の心を操作しようとするさもしい目論見がまかり通っていることに
もの凄く激怒しました私
ということだったりします。

以上、怒りに任せて書いてみた。

-----後日追記----------
通報後はどのような状況になったんだろうと思って追跡してみました。

「この度の通報情報はセンター運用ガイドライン対応外の内容でしたが、有害な情報と判断し、フィルタリングのために関係団体へ情報提供しました。 」

とのことです。
サイトはまだありましたし、ブログを作ったり、リニューアルしたり、
パワーアップを果たしていたのが残念でした。

2007年03月20日

過食症をやって良かったな、と思うのは
無意識というものが自分にどうやって語りかけてくるのか
ということを感覚として学べた、ということが大きいです

心の中にマグマがあって
それが熱くなって限界まで高温に達したときに
ふつ、ふつと泡になって
実際の生活の上にでてくる
過食症のときはそれが
ダイエットや食行動としてでてくるわけですが
やっぱりこれを単なる「食べすぎ」だと思ってるうちは出口がないわけで
自分の中で何か起こってるな、と考えて
「えーっと、どうしました?」
と自分に聞かなきゃいけないわけです
この「無意識のマグマが沸点に達する」っていう状況を
キャッチできるようになったのは
過食症のトレーニングによるものだったなあ、と
思うことが結構あります。

過食をしなくなっても
人は基本的に苦しみからは目をそらすもので
「食べる」ということ以外にも色々代替行動って
とっかえひっかえ出てきます。
一日中ずーっとパソコンをつけたり消したりして何かを待ってる、とか
何年も前に好きだった人とすごした「黄金の時」をいつまでたっても執拗に繰り返し思い出している、とか。

行動の表面だけ見てるとやっぱり出口はないわけで
「何時から何時まではパソコンに向かわない」とか
「あの人のことなんかもう忘れようっ」とか言って
本質と関係ないものと闘っているうちは解決から遠のく一方なのですよね。

やっぱり大切なのは
「それをすることによって自分には何のメリットがあるんだろう」
っていうのを探ることなんだと思います。
パソコンをつなげてさえいれば何かしてる気になって
「こんな仕事はうまくいかなくて永遠に収入を得られないだろう」
という不安をとりあえず回避できるとか、
過ぎた黄金時代を思い出していれば、今の生活に絶望していても
「あの時のあの瞬間の私が唯一真実の私だ」
と思ってファンタジーに逃げ込めるとか
何かメリットあっての行動なわけで

「自分がどうしてそれをするのか」
ということさえ分かってしまえば
あとは無意識と意識で結託して相談しながら
強迫行動以外の方法で
その問題を受け止められるように慣れていけばいいわけで

無意識と結託する方法として私がいいなあ、と思うのが手帳です。
色とか質感とかが凄く気に入って
(「なんとなく気に入った」という感覚は無意識にとって大事です。)
しかも持ち運べるサイズの手帳を選んで
ずーっと身辺に持っていて、何かが起こるたびに書くわけです。
何かって事件じゃなくて
いきなり寂しくなったり、いきなり罪悪感に襲われたりした時に
とりあえず開いてペンを持つ

何を書くかっていうと
私の場合だと好きな人に向けて話しかけるわけです
好きな人、ってのはこの人が世界で一番私を理解してくれるだろう
と思ってる人なわけですから
その人に語りかけるのって、やっぱり一番言いたいことを言うんですよね。
で、雑談みたいな感じで
今日これしたの、あれしたの、これからあれするの、
最近こういう強迫行動が出てきてる
とか、思いついたまま書いていく。

そしたら、それだけです
別に分析もしないで、そのまま
また大事に手帳を持ち歩いて、寂しくなったら何か書く
それをずーっと続ける
それだけ
その出来損ないの雑談ラブレターだけで
出したいのに抑圧してたものって
ちゃんと全部出てきてるんですよね

強迫行動の方は
特に危険なものじゃない限り放っておきます。
そういう感じでやっていくと
私は結構うまい具合に暮らせます。

今年は少しミーハーですけど
糸井さんのほぼ日手帳を買いました
あの、開いたときに手にくたっと収まる感じがとても気に入ったんです。
大事に持ち歩いてます
ちなみに手帳に書き込むインクの色は
黒より断然青がいいですね。
なんか、ずっと幸せです。

なぜそんなに痩せたいの?―「美人」になりたい女の社会心理学
なぜそんなに痩せたいの?―「美人」になりたい女の社会心理学

「第二章 美人の社会心理学」の概要です。

著者の現代的なフェミニズムのカラーがかなり出ています。
マスコミ全般、中でも女性誌と美容産業に厳しい批判が向かっています。
日本とドイツでは文化的な土壌が違いますし
全部信じる必要はもちろんないですが、
非常に良く調べてあり
巻末には参照した参考文献の長いリストもきちんと記載されているし
かなりしっかりした論の展開だなあと思います。

アイティンティティの不確実性が愛と美を取り違えさせる・・・・
「うーむ」とうなりました。
美しければ愛されて何もかもうまくいくと、
確かに思いました、私も。

女性は母親のもとで、自分の身体は自分のためにあるのではなく、
他人のため--とりわけ男性にまなざしのため--にあることを学ぶ。
愛されること、そしていつかはきっと全てが報われることを期待して
彼女たちは全てを我慢する。
美しいボディはより多くの自意識、満足、能力をもたらしてくれるはずだ。

内的葛藤の場はボディに移される。
現実の骨の折れる色々な問題に着手する代わりに、
不満はボディに投影される。
女性たちは「私は孤独で寂しい」と言わずに「私は太りすぎている」と口にする。
世界を変えてはならない、ボディを変えるのだ。
そこでは与えられたものを受け入れることが全てであり
本当に自分の欲するものを敢えて要求することはない。

マスメディアは現実離れした理想を広める。
人生で成功するには美しくスリムでなければならないと宣伝し
女性誌は理想のボディをいかにして獲得するかをアドバイスする。
「全てはまったく簡単、ここに説明するとおりの食べ方をして、
ちょっと腹筋をすれば全てはあっという間にうまくいく」
女性誌の広告の三分の二は化粧品とモードの広告である。
女性誌は自らに示された信頼を悪用してでも、もちろん利益を追求する。

現代の社会が女性に期待するのは
伝統的な女らしい役割を果たし、
なおかつ職業に野心的という対立する二つの役割だ。
野心的になればなるほど、女らしくないように見える。
知性や独立心は女性としてのアイディンティティと相容れない。
この不確実性の中でボディの演出がこのジレンマの出口になる。
美しければ、とにかくそれは女なのだ。
美しくあることはそれ自体アイティンティティの根源となる。
美しくさえあれば、男勝りな女性でもとにかく女でいられる。
女性は美を獲得するため--自身を社会的に受け入れられる存在にするために苦闘する。
特に女性が欲するのは、女性としてのアイティンティティを生み出し、
維持し、証明することである。

美の領域においては女性は競争を是認される。
他人との競争や比較から自身の価値を読み取ることができれば美しいボディの意義は高くなる。
他人が自分をどう見るかということが自己評価の尺度になる。

美は男性に受け入れられる役割も果たす。
男性は妻の美貌や魅力によってステータスを得る。
男性が女性の美を評価するのは、それによって男性はより男らしく見えるからだ。
美人は男性を飾るデコレーションなのだ。

だが、実際のところ美は愛にとっては何の役にも立たない。
美は遠くから見るものであり、愛は近さを必要とする
美は抽象的な概念だし、愛は個性的で具体的なものだ。
しかしながら美をめぐる神話はこの二つを結びつけ、
マスメディアがそれを宣伝する
「嘲笑されていた太っちょが50キロ落として美しい幸せな妻になった」
ここに愛は他人に気に入られることにまで矮小化される。
アイディンティティの不安を感じる女性がこの単純な仕組みの処方箋に引っかかる。

恋人にボディの「欠陥」を見せないために暗闇でセックスをし
彼が目覚めないうちに急いで化粧をするためにベッドから抜け出す女性は
愛されるためには美のマスクが必要だと考えている。
ありのままの彼女が愛され、かつ性的に魅力があるとは思っていない
そして一方でこの考えは深く彼女を傷つける。
なぜなら彼女はセルライトのない太もものゆえに愛されたくはないからだ。


「なぜそんなに痩せたいの?」関連記事一覧
1 美人の文化史
2 美人の社会心理学
3 美しいボディの創造
4 美人をめぐる神話
5 私の感想

2007年03月19日

なぜそんなに痩せたいの?―「美人」になりたい女の社会心理学
なぜそんなに痩せたいの?―「美人」になりたい女の社会心理学

あまりにも興味深かったので
やや学術的にはなりますが、この本の紹介をします。
多分四回のシリーズものになるでしょう。

語彙はだんだん社会心理学チックになっていくので
受け付けない人もいるかな、などと思いつつ
凄く面白いんですよ。


今回は「第一章 美人の文化史」の概要です。

美の基準はもちろん普遍なものではない。
男性が華美には装わなくなり
「美しい性」が女性に限定されたのは18世紀以降だし、
その後美の理想は様々な政治的側面によって変遷してきた。
母性が強調されたり、
豊満が理想であったり、
顔色悪く弱々しいことがはやったり、
時とともに次々に流行は変わる。
そして女性解放が進めば進むほど
女性はより痩せていることが要請されている。

大きな鏡、写真、映画、体重計の普及という技術革新を経て
これら美の理想は達成可能なものと理解されるようになり、
ボディは単なる理想以上のもの、
つまりアイディンティティに係わる問題になった。

かつて衣服を規定したモードは今はボディを規定する。
今や女性の脂肪は公の場で議論され
女性の肉体は彼女自身のものではなく、社会のものとなる。
現代の美の理想は栄養失調ぎりぎりの状態を賞賛する。
そして何事もなりゆきまかせにせず、永遠に若くなければならない。

現代の美の理想の化身はファッションモデルである。
職業としての美人であるモデルたちのプロポーションはかつてないほど平均的な女性たちから離れ、
不合理でとんでもないものになってきている。
メディアを通してこれらの偶像は偏在し、美は規格化される。
雑誌や美容専門家たちは女性たち全員に向けて、
これらの規格化された美を努力によって誰でも得られるのだと呼びかけ、
私たちはそれに基づいて自身の方針を決める。
すなわちボディは粘土のように任意に形成できると信じこむ。
この美の理想を成し遂げることができなければ
それは個人的に断念したということになり
意志の弱さと能力の低さと関連づけられる。

女性の身体は自然のままでは恥ずかしいもので、
美しくあるためには必ず手を加えなければならないという
この見解には女性のボディそのものに関する侮蔑が含まれている。
現代の美は、「金次第で獲得できるもの」であり、
「それに合致しない女性はそのために恥ずかしい思いをしなければならないもの」となったのである


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2 美人の社会心理学
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2007年03月18日

今日お風呂に入っていて
凄いことを思いついたんです

過食症を治す方法
強迫的なダイエットから開放される方法
要するに歪んだボディイメージと仲直りする
新しい方法

多分誰も言ってない大発見
それは・・・

銭湯へいく!

おお、なんてインパクトのない発言。
あんまり普通だから誰もやらないんじゃないかと思って怖いですけど
私の読みではこれは効きます(笑)

私銭湯って好きなんです
色々な女性がいるんですよね
ぴかぴか肌の光るような子どもも
腰が曲がったおばあちゃんもいるし
垂れ下がった胸もあるし
三段腹もあるし
妊娠線もあるし
セルライトもあるし
外科手術の大きな傷跡もあるし
で、そういうのがむき出しなんだけど
とにかく全然醜くないんです

醜くないんですよ
贅肉とか
セルライトとか
皺とか
本当に全然醜くない

失礼なのかもしれないけど私はじーっと見ちゃうほうで
美しいって何なのかなあ、みたいなことを結構考えるんですが
おばあちゃんの削げた胸に垂れ下がっているおっぱいに
思わずはっと目を留めてじっと見てしまう
その気持ちは何、って言われれば
やっぱり”美しい”からじゃないかなぁ
って思うんですよね
建前じゃなくてね、自分で行ってもらえばわかります
多分、見とれます

それから、雑誌とかテレビとかショーとかに出てるような女性は
実際の世界には居ないということもよく分かります
180センチを超えていて体重が55キロ以下で
スリーサイズが90-60-90という人
(「ヴォーグ」のモデルのプロポーション)
は断じて一人もいない上に
ばかばかしいほど非現実的だってことが分かるし
だからといってそれは何かの欠陥でもないし
意志と努力の欠如でもないし
劣った人間性をあらわしてるわけじゃないってことも
肌で感じ取れる

もう一つ面白いのはたいていの人が人目を気にしてない中で
まれに裸体を隠す人がいるのだけど
それは太ってる人でも皺のある人でもでもなく
ほぼ思春期の女の子だけなんです
思春期の、自分の肉体を新しく発見しなおしたばかりで
それをどう扱っていいのかまだ決めあぐねている年齢の子だけが
タオルで自分の身体を隠している

だから
身体を恥じるっていう感情は
脂肪の量に左右されてるんじゃなくて
自分のアイデンティティがはっきりしてるかどうかってことに
どうやら左右されてるらしいのですね
この世界でどういうポジションに身を置いたら良いのかよくわからない、
という不安が自分の身体を人目から隠す意識になるんじゃないかなって
そういうことも銭湯にいるとなんとなく分かる

なので
恥ずかしいなんて言わないで
誰も見てないから
(女性の身体に凄い興味持ってじろじろ見るのなんて私ぐらいだから)
だから銭湯行ってみてください
(私がいたらごめんなさい)
それで自分の身体も
じっと見てきてください
多分、綺麗だなーと思いますよ
私よく銭湯で自分に見とれてます(笑)
銭湯で見ると本当身体って綺麗ですよ、人も自分も。

2007年03月17日

「スージー・オーバチの『肥満は女性問題』を読んだ後、私の体重との格闘は、食べ物を通して表面に現れているけれども、本当はそれとほとんど関係のない、精神的問題を示しているのかもしれないという考えがうかんできたのです。」(ジェニーン・ロス「食べ過ぎることの意味」)

引用はジェニーン・ロス「食べ過ぎることの意味」の中の一説です。
ここで挙げられている本の翻訳がこの「ダイエットの本はもういらない」です。
(原題Fat is a Feminist Issue )
上の引用文が示すとおり「食べ過ぎることの意味」の母体と言っていいものです。
女性のダイエットと性の政治学について結びつける考え方のさきがけであり
この分野での古典的名著、かつ最高傑作とされています。
(もっとも、これは宣伝文句の受け売りですが)

実は過去、過食症時代にもこの本を探し当てて一度読んだのですが、
そのころはフェミニズムに関心を持つほどの精神的な余裕はなく
読み飛ばしながら
「フェミニズムはいいけども、それで、この目の前の食べ物はどうしてくれるんだい」
と思っていたわけです(←読解力ゼロ)。

今改めて読み直すと、随分と革新的なことが書いてあるものだなあ、
と思っておどろきましたし、
もっというと、この本が10年経っても社会の価値観を変ええなかったことが不思議で仕方ないような気さえしてきます。

「どうしてみんな自由になろうと思わないのだろう?」

フェミニズム論については賛否両論あるでしょうし
私もフェミニストじゃありませんが
それにしてもこれはじっくり面白い本です。

本自体もハンドバックに入る大きさだし、
イラストも入ってるし、字も大きいし、
文章量自体がそれほど多くないので
気軽に読めて良いです。

「第五章セルフヘルプダイエットへの道」では、自分を受け入れる練習のための
具体的なワークの方法が載っています。
もし気になったら試してみてください。


ダイエットをしないことと、自分を受け入れることが体重を減らす鍵
なんですってよ。

ダイエットの本はもういらない
ダイエットの本はもういらない

「ダイエットの本はもういらない」関連記事一覧
1概要
2私の感想

スージー・オーバック著「ダイエットの本はもういらない 」の概要です。
ダイエットの本はもういらない

女であるが故に社会から要求される様々な困難
--見られること、セクシーであること、
常に与える側であり、期待に応え、要求せず、怒らず、主張しない存在であること、
母であること、娘であること--
などをフェミニズムの立場から分析する。
そしてこれらの押し付けられた過剰な期待に対するノーの思いが、
実は女性たちを食べ物に対する強迫観念へと駆り立てている正体である、
とする論である。

つまり女性たちは痩せたいのではなく、本当は(無意識に)太りたいのだ。
強迫的に食べて太ることは
「理想的な女の市場」に出されることを拒否する女たちの声なき声なのである。

セックスにノーを言うために太り、
人から一定の距離を置くために太り、
怒りを表現せずに隠し通すために食べ、
主張せずに黙っているために食べ、
常に見返りなく与える立場であり続けることへの満たされなさのために食べる、

しかしながら、太った女として得られるそれら「社会のステレオタイプにノーを言う」というメリットは
脂肪のうちに備わっている性質ではない。
女性たちのうちに本来あるものを脂肪に結び付けて考えているだけだ。
このことを直視し、太っていることと痩せていることの意味を明かにして、
脂肪を使って「ノー」を言うのをやめ、自分の口でイエス・ノーを言うようになれば、
食べ物との強迫的な依存関係はなくなり、快適な体重を維持できるようになる。

女性たちは自分の性質を脂肪の量で規定するのを止め、
ありのままの身体で、自分のありたいと思う新しいセルフイメージを持つことを初めなければならない。

まずは今の身体を受け入れること。
目をそらさずに今の身体を眺め、好きな服を着る
そして外面的な価値判断やものさしを無視して、自分自身の身体を信用することを決める
お皿に食べ物を残してみる(これは食べ物に対してイエス/ノーをいう訓練になる)
家に好きな食べ物をいっぱい常備しておく
他人の意向を気にせず食べたいものを食べる

これらを実行することで次第に自分の身体を受け入れられるようになる
初めは体重は変わらないか、少し太るだろう。
食べ物を押し込むためにではなく、言葉で感情を表現するために口を使うことに慣れるにしたがって、
食べ物との関係はリラックスできるものになっていき
快適な体重を維持できるようになる

「ダイエットの本はもういらない」関連記事一覧
1概要
2私の感想

※この記事はジェニーン・ロス著「食べ過ぎることの意味―過食症からの解放 」より
「第十六章 強迫衝動」を参照しています。※

病気になるほど食べ続けることの意味は
内なる心の声が姿を現し、自らの声を届けようと必死になっているということです。
心の声は生活を紛れもない核心部分へと導いてくれます
しかし、その声を正しく聞き取れるようになるためには時間と意志が必要であり、
自分の内的世界を尊重することが前提となります。
しかもこの声は私たちが聞きたいと思うことは語ってくれません。
この声は多くの場合苦痛を伴います。

ダイエットで45キロ落とした後で、そのうちの27キロ戻ってしまった女性は
過食からの開放のワークショップで著者に対してこう言いました。

「痩せていることなんて、ほんの冗談でしかありませんでした。
新しいセクシーな服を買いに出かけているときや、
その服を結婚式で着ているとき以外、依然として自分自身を相手に格闘していなければなりませんでした。
誰かが、誰もが、嘘をついていたのです。
雑誌では、痩せていることは本当に本当にすばらしいことであるかのように言っていました。
だから、痩せれば人生も当然変わるものと期待していたんです。

確かにある意味では変わりました。
以前よりも小柄になって、洋服のサイズも小さくなりました。
それに前よりも男性が関心を寄せてくれるようにもなりました。
でも、別の意味では私の人生は変わりませんでした。
相変わらず自分と向き合わなくてはなりませんでした。
どのようにして自分を好きになったらいいのか、
どのようにしてありのままの自分自身でいたらいいのか、
太っていた時期にもまして、痩せた時期の方がさらに一層分からなくなってしまったんです。」

彼女は自分の手ではどうにもコントロールできない状況や人間関係、感情についてのこの苦痛を、
自分だけの手でコントロールできる苦痛、
つまり自分の体重についての苦痛に置き換えようと決心したのです。
こうして彼女は体重という言葉ですべてを片付け、状況を解釈していくことができるようになりました。


私たちは誰もが皆傷ついています。
苦痛は私たちのプライベートな顔です。
自分を突き動かす力はその苦痛を認識することから生まれてきます。
自分自身の影の面に直面することを拒むとき、
自分の力をも自覚しないままで生きていくことになります。

私たちは苦痛を感じる時には食べ、
食べるというその苦痛を取り除くために、また食べてきました。
しかし私たちがどれほど打ちひしがれ、精神的にボロボロになっていようとも
私たち中にはその強迫衝動よりも強い光のゆらめき、力があります。
それは生命へと腕を伸ばし、希望を包み込む力です。
私たちはこれほど長い年月を過食とダイエットに費やした後でも、
自分の人生に意義と愛を求めているのです。

人は変わります。
私たちは信じるから、強くなることができるのです。
自分の中で着実に燃え続ける希望の炎を信じ、精一杯の拍手を送り続けるとき、
その炎は強さを増していくのです。

「食べ過ぎることの意味」関連記事一覧
空腹感を知るためのガイドライン
自分の食べたいものを知るためのガイドライン
食べることに関心を集中させるためのガイドライン
充分という感覚を知るためのガイドライン
過食をするときのガイドライン
家庭で食事をする際のガイドライン
社交的な食事を楽しむためのガイドライン
運動を楽しむためのガイドライン
死ぬほど痩せたいという気持ちに注目するためのガイドライン
今手にしているものを知るためのガイドライン
批判に対処するためのガイドライン
自分を信じるためのガイドライン
苦痛を受け入れるためのガイドライン
性的な生活を大切にするためのガイドライン
強迫行動の意味
食べ過ぎることの意味(1 チョコレートに抱き締めてもらいたい気持ち)

食べ過ぎることの意味 (2 二週間のチョコチップクッキー欲求)

2007年03月16日

※この記事はジェニーン・ロス著「食べ過ぎることの意味―過食症からの解放 」より
「第十五章 性」を参照しています。※


女性たちの中には少女のころ、セックスとは汚いもの、セックスはくだらないもの、と教えられ、セクシュアルになったら男性に利用され、捨てられてしまう、と教えられた人が多く居ます。
そのため自分自身の身体に疑いの目をむけ、多すぎるかあるいは少なすぎる肉の中に本当の自分を隠すことを覚えました。
自分の飢えを否定し、自分自身の代わりに他人を喜ばせるようになったのです。

しかしすで成人女性となった今、少女のころにはなかった選択の自由を手にしています。
私たちはノーということもできますし、反撃することもできます。
自分自身のめに自然で、挑発的であふれんばかりのパワーをみなぎらせることができるのです。

○自分の身体の価値の承認
たとえ自分に喜びを許すことに慣れていなくても、ゆっくりはじめていけばそれは恐ろしいものではなくなります。

お風呂の後、オイルやローションを肌に塗ってみましょう
・身体の中で、こんなところ消えてしまえばいいのに、と思う部分、あなたの愛情をこめた関心を最も必要としている部分に、念入りに時間をかけて触れてみましょう。

昔の巨匠の画集をめくり、彼らが描いた女性像を見てください
・ルーベンス、ルノアール、マティスなどの本に目を通してください。
ぺちゃんこのお腹に小さなヒップをしていますか。肉感、情愛、成熟さを感じますか。
(管理人の余談ですが、私はこの本→西洋絵画の主題物話〈2〉神話編が好きだったりします。)

非常に痩せた雑誌モデルの写真をみつけてください
・あなたが感じるのは心地よさですか、圧迫感ですか。
なぜあなたは痩せたいと思うのでしょうか、それは誰のためなのでしょうか。

一晩一人で過ごし、あなたがセクシュアルな喜びを感じる環境をあなた自身のために用意してください
・気分良く感じられる色、感触、音で自分を取り囲んでみましょう。
たっぷりと時間をかけていることにあなたは罪悪感を覚えるでしょうか。
馬鹿らしい、無駄、悪い、そう言っている声に気づいたら、それが誰の声か確かめてみましょう。

ダンスの教室を受けてみてはどうでしょう。
・あなたとあなたの身体以外、そこにはもう何も存在しないというほど肉体的な限界を超えて、動き、呼吸し、汗を吹きださせている自分を実感してください。

あなたの理想の恋人のイメージにあなたの幻想を自由に思い描いてみてください
・どのようにあなたに触れてきますか。どこに触れますか。触れている間に話をしますか。
・マスターベーションは他の人を喜ばせるのではなく、自分の性的エネルギーを発散し、満喫する有効な方法です。

女性友達とサウナに行ってみてはどうでしょう
・緩んだ胸、幅の広いヒップ、皺、一面に広がる肌のしみは、誰にでもありますし、中にはこれら全部を一人で抱え込んでいる人さえいます。それでもやはり彼女たちには彼女たち固有の美しさがあるのです。

○ノーと言えるようになる
女性の為の護身術の講習会に参加してみましょう
・自分の身体の力を使いこなす方法を学んでください
・誰かがあなたを煩わせるときには、あなたには何としても食い止める権利があります。

イエス/ノー練習
・友達と向かい合って、イエスと言う側、ノーと言う側をそれぞれ決めてください。
一方の人がもう一方の人の目をまっすぐに見つめ決められた通り順番に「イエス」「ノー」を言います。
・ノーというよりもイエスと言うほうが簡単、快適、違和感なく感じますか。
・食べることを自分に許すことによって食べないことも許されるのとまさに同様で、
ノーということで、あなたはイエスと言うこともできるようになるのだということを心に留めてください。

○パートナーとの性的な関係

パートナー同士のメイクラブでは、彼があまりに先を急いでいる場合にはそう伝えてください
・あなたに彼を受け入れる準備が整うまでは許してはいけないのです。
・あなたのパートナーに自分の要求を伝えることが大切ですし、
そうすれば自分の上をなおざりにしたまま交際が終りを迎えることもありません。

もしあなたが触れられたくないのならそう言いましょう。
触れられたいけれども自分のほうから触れていきたくはないなら、そう言いましょう。

・自分が感じたままに感じていいのですし、感じたことを口に出して言ってもいいのです。
・相手が自分の愛する人の場合でも、その気がないときは身を任せてはいけません。
それは自分の中の憤りに身を晒し、利用されるがままに身を任せることになるだけで、満たされなさや、自分の何が悪いんだろう、自分は貪欲なのではないかしら、という疑いを抱いたままになってしまいます。
・あなたがノーと言ったときにパートナーが腹を立てたとしたら、問題はノーと言う言葉に対処しきれない相手の能力にあるのであり、あなたの性的欲求にあるのではありません。
・ノーという言葉を耳にしたとたん、相手は拒絶感や愛されていないという感覚を抱く可能性もありますし、コミュニケーションが問題となることもありますが、
お互い揺るぎない絆を保ちつつ、かつ一線を引き、同時に相手を思いやることは可能なのです。
・食べ物に対しても、セックスに対しても、自分自身の欲求を尊重してください

西洋絵画の主題物話〈2〉神話編
西洋絵画の主題物話〈2〉神話編
女性の美の理想が今ほど細かった試しはない、ということが非常によくわかる一冊。色々なタイプの美しさに出会うことは、なぜ痩せたいのか、ということをちょっと考え直してみる冷静さをくれるかもしれません。


「食べ過ぎることの意味」関連記事一覧
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食べ過ぎることの意味(1 チョコレートに抱き締めてもらいたい気持ち)

食べ過ぎることの意味 (2 二週間のチョコチップクッキー欲求)

2007年03月14日

こどものころ
家の近くに美味しいパン屋さんがあり
いつもそこで食パンを買っていました
一斤買うと、はじっこの耳の部分が二枚でます
それはいつも母が真っ先に食べていました
だから私は耳の部分を食べたことがありませんでした

一人立ちしたばかりの学生の頃
私はいつもお金がありませんでしたので
近くのパン屋さんで買い物袋一杯につまった
パンの耳を買ってきてよく食べました
カリカリに焼いて食べるとふわふわした真ん中の部分よりも
香ばしくて美味しいものだと知りました

しょっちゅう歯を悪くしていた母は
たいていは堅いものが苦手でした
パンの耳も好んで食べていたものではなかったでしょう
ただ、家族で囲んだ食卓の中で
率先して「端っこは母さんが食べるから」というのは
家族に対する自分のポジションの主張だったように思います
家族には何も言わずに
「いいところ」をとっておく母
「自分を後回し」にする母
いつもそういう人でした

母はおそらく家族のために自分を後回しにしていると
なんとなく安心を感じたのだと思います
自分があまり幸せでなかったとしても
「家族のため」であれば
それは納得のいくもののように感じます
自分の幸福についてあれこれ考えることを放棄してしまっても
「家族のため」と言えば
それは他にどうしようもないものであるように感じます

私はいつも
歯が悪いのに頑なにパンのはしっこばかり食べ続ける母を見て
ぼんやりと罪の意識を感じていました
「家族のために幸せになれなかった母」

私は随分と幼い頃から
自分が居ないほうが世の中はスムーズにいくものだと思っていました
私が居なければ
母は自分のために物を考え
自分のために物を選び
自分が喜ぶために生きたでしょう

「私がいなければ」

土曜の午後に紅茶とトーストで昼食をとった
その時私は小学生でした
母は私のせいであまり幸せでないのだと感じました

母はただ土曜日の昼食にパンの耳のトーストを食べただけでした
しかし私がその食卓で受け取ったメッセージは
「私さえいなければ」というものだったのです

2007年03月13日

※この記事はジェニーン・ロス著「食べ過ぎることの意味―過食症からの解放 」より
「第十四章 苦痛」を参照しています。※

多くの人は自分のつらさの底に決して触れようとしません。
その代わり強迫に駆られ、生きることのつらさを、
強迫行為にとらわれるつらさにすり替えるのです。

苦痛が生じたとき、とっさにそれから逃げ出してしまいたいという思いに駆られますから、
それに耐えてじっと座っているためには、逃げ出す前に、まさにその瞬間を自覚することが必要です。
苦痛を感じることと、それを避けることを区別できるようにするには練習が必要です。

苦痛の殆どは苦痛への抵抗です。
苦痛への抵抗は私たちを暴力的にし、絶望させ、狂わせ、それによって苦痛を増します。
感じるべきものを感じないようにしているうちに何かが起こります。
危険を冒さなくなり、自らを閉じ、生き残るために鎧に閉じこもります。
そして感情鈍麻の霧に包まれ、人生を見失い、孤独と狂気を感じるようになるのです。

強迫行為に根本的レベルから真剣に取り組み、
不快さを経験することを受け入れ始めたとき、
あなたはもうそれを押しのけるために食べる必要はなくなるでしょう。


○あなたの苦痛はどのような形をしていますか

苦痛に関する二つのリストを作ってみてください
・「苦痛とは・・・・です」から初め、即興的にこのリストを完成させてください。
・「私が苦痛を感じるとき・・・・」という文を完成させてください。
あなたが苦痛を恐れるのは、そのせいで感情的になってしまうからですか。
苦痛は二度と終わらないのではないかと心配しているからですか。
どのように助けを求めていいか分からないからですか。

子供のころ、苦痛を感じたときにあなたが受け取ったメッセージを振り返ってください
・あなたが泣いたとき、どうなりましたか。
自分の部屋へ行かされましたか、泣き止むように言われましたか。
罰を与えられたり、なだめられたり、物を与えて言うことを聞くように言われましたか。
・それらのメッセージは苦痛を受け入れようとするうえでのあなたの気持ちにどのように影響しましたか。

一日に三十分間、みじめな自分を受け入れてみましょう
・一日のなかであなたが最も惨めになる時間にそうしてみてください。
それが毎日同じ時間帯で、それをあなたの惨め時間と呼んだなら、
自分の普段の日課の一部として組み入れることができます。
・まずは自分が不幸に感じるあらゆることについて、その不幸の数々に名前を付け続けてください。
・その惨めさ全てについて何か試みてみましょう。
泣いたり、床に寝転んだり、落ち込んだ気分で歩き回ったり、
毒々しい言葉の手紙を書いたり、どくろの絵を描いたり、何かやってみましょう。
・その三十分が終わったら、そのまま一日を進めていってください。

あなたの苦痛を絵に描いてみましょう
・苦痛のイメージを描いてみましょう。
紙に描きだし、よく見つめてください。
つらさには始まりと終りがありうること、限界があることを確認してください。

身体的な苦痛の場合は、どこにでもいいですから腰をおろしてください
・目を閉じて次のことを考えてください
「身体のどの箇所に苦痛を感じますか」
「その色は?形は?」
「あちこち移動しますか?固定してますか?」
「何か感触はありますか」

腰を下ろして最近過食したときのことを思い返してください
・目を閉じてそのときの引き金となった感情をもう一度思い返してみましょう。
・食べている自分の姿を思い浮かべてください。
もう一度空想の中で繰り返してみましょう。
まず座る場所を決めます。
それから身体の中の感情に集中して、それに名前をつけてみましょう。
数分間そこに座ったまま、その感情を見つめてください。
そしてあなたは立ち上がります。
その日あなたがしたことを、空想の中でもう一度繰り返します。
まだ食べたいですか。
・この練習を繰り返し行うことで、普段食べることで避けているつらさの中に踏み入っていくことができるようになるでしょう

誰かあなたの愛する人が苦痛な状態に置かれている場合を考えます。
・その人の苦痛をあなたが取り省こうとしおてはいけません。
相手を幸せにしてあげようとするのではなく、その人といっしょにいてあげるのです。
すぐに慰め、大丈夫だからね、などと話しかけようとするあなた自身の癖を自覚してください。



------管理人注---------
このガイドラインを順番に読んで下さっている方へ
実はここに13章「自分に寄り添い、自分の力になり、自分を受け入れる」
という章が入るはずなんですが、数日奮闘した結果、
どうしても要約できなかったので諦めて抜かしてしまいました。
後日また取り組んでみますが
とりあえず内容を知りたい方は実際の本の方を読んでください。すいません。
(私自身が人と自分を許すプロセスについて著しい無理解でもあるんだろうか・・・
と思った数日間の実らなかった奮闘努力でした)
---------------

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2007年03月12日

十代から二十代の初めごろ
私はテレフォンクラブに電話をかけては知らない人と良く会っていました。
私自身は自分が何をしたいのか良く分からないままに
漠然と何かを期待する気持ちだったのですが、
男性の方はたいていもっと明確に自分の希望をよく承知していて
殆どの場合はホテルへ行くことになりました。
もちろん私もそうなることに対しては驚きはしませんでした。

その頃私にはとても好きだった人がいて
知らない人と知らない場所でセックスをしていると決まって
猛烈に彼のことが思い出されました。
電話をかけて、こんなにも悲惨な状況に居る私を救い出して欲しい
といいたくなりました。
実際にホテルからメールをしたこともよくありました。

自分が何をしているのかが良く分かりませんでした。
ただ大きな感情の振幅の中で彼を思い出すためだけに自分を追い詰めているようにも思え
ホテルの部屋の隅から切実な最後の望みをかけてメールを送るという
その切羽詰った場違いなお芝居が好きであるような気すらしました

私にとって彼はとても好きな人でしたが
彼は結局私を愛しませんでした。
私は彼に愛されないという大きな悲しみがあり
それは過去のあらゆる時点にさかのぼって私は愛されないんだという無力感を呼び起こし、
未来のあらゆる時点に渡って私は永遠に愛される価値はないんだという絶望を呼び起こしました。
私は愛されないために生まれてきたのだろうと思いました。

私は電話をかけ、会いたいと言ってくれる人を探しました。
どこか知らないところに愛される私がいるかもしれないと思いました。

実際にホテルに着いた時にはたいていもう手遅れであるように感じられるのでした。
自分の身体に知らない男の柔らかい腹の肉が乗る感触がいやだとは
もう言える状況ではないと思ったのです。
私は嫌だという代わりに好きな人のことを激しい情熱を持って思い起こすことにしました。
そうすれば現在という時から現実感が薄れました。
私はぼんやりして我を忘れ、しくしく泣きました。

私がそのとき正しく理解していなかったのは
好きな人の愛が得られないというのは
ただ彼が私を愛していないというだけのことで
私に愛される価値がないという意味ではないということ、
「愛に少しでも似たものならば例えそれが望んでいないものであったとしても
全てかき集めておかなければ人生はとてもむなしくてやっていられない」という気持ちは
単に悲しみが呼び起こした恐怖に過ぎないということ
そして自分のために何を望むかということは
常に自分の責任で決定しなければならないことであり、
どんな状況にいようとも自分のための最良の選択は自分自身がしなければならないということ、
自分が求めたものが見当違いなものであると気づいたらその方向修正も自分がするべきなんだということ、
急場を救う王子が現れるのを待つのは自分自身に対する諦めでしかないということ
などです。

「彼さえ居てくれたらこんな嫌なことは全てなくなるのに」
そう考えて私は故意に自分の状況を理解しようとはしませんでした


過食症のとき
私は自分の口に入れるものを自分が本当に望んでいるかどうかということは考えませんでした。
たとえ望んでいないものであろうとも、せめてそれを手にいれなければ人生は空虚すぎてとてもやっていられないと感じていました
そして窮地に陥ったと感じれば感じるほど
痩せた体があればこんな嫌なことは全てなくなるのにと信じ込みました

「痩せた体さえあればこんな嫌なことは全てなくなるのに」
そう考えて私は故意に自分の状況を理解しようとはしませんでした

2007年03月10日

食品をライトにする原理はまったく単純だ。
「おいしいところ、つまり脂肪と糖を抜き出して、
その代わりに安価なもの、すなわち主に空気と水を加える。」
科学的に手の加えられたほんの2.3グラムの澱粉糊やセルロースによって、
水が100グラムの脂肪に類似したものに膨れ上がる。

低カロリーの、あるいは人工甘味料が使われた食品は身体に食べ物のエネルギー含有量に関する情報を提供しないから、そのために満腹を感じるプロセスが障害を受ける。
その結果、満腹になっているのかそうでないのか、もはやわからなくなる。

通常の食事の場合には体内の熱生産は上昇するし、
それはまた身体にとっては重要な満腹のシグナルである。
低カロリー食品の場合にはこの満腹シグナルが働かない。
胃は、ほんの短時間はこれで満足するが、その後供給された栄養は利用できるカロリーではなく、単なる代替物にすぎないことを確認する。
その結果は、空腹である。
ライトな詰め物に対して胃は新たな空腹感で応答するから、
ライト製品の利用者はますますたくさん食べるようになる。

甘味料も舌を欺くことはできるが、胃を騙すことはできない。
舌によって甘味が感知された後、栄養のある糖分が胃に入ってこないと、
胃は--パブロフの条件反射同様に--激しい食欲で反応する。

甘い食品は血糖値を上げ、それによって元気がでる。
糖分の豊富な食物によって体内には、いわゆる上機嫌ホルモンであるセロトニンが増える。
特にチョコレートは、ほんの短時間ではあるが気分を高揚させる。
チョコレートには数多くのアロマ成分と、
マリファナに良く似た作用があるとされるいくつかの物質が含まれている。
甘味に対する欲求が強くなるのを防止するためには、身体の発する合図にきちんと耳を傾けて、身体が本当に甘味を必要とするときにそれを与えることが肝要なのだ。
しかしライト製品のみせかけの甘味はその感覚を損なう。

ライト製品によってより多く食べることになる。
というのは、栄養量の点でカロリー供給がじゅうぶんではないからだ。
つまり身体は必要とするカロリーを獲得するために、もっと多く食べることを要求する。
これはまたライト食品産業を繁栄させる。
トータルすれば、消費者は伝統的な食品を摂取するようも明らかに余分に支出をすることになる。

※文章は全てヴァルトラウト・ポッシュ著
なぜそんなに痩せたいの?―「美人」になりたい女の社会心理学 」より引用※


「低カロリー食品を食べていても痩せない」
というのはおそらく誰でも意見の一致するところだとは思うのだけど
それに対して「それっておかしくない?」という
大っぴらな意見を聞いたことがなかったので
この文章を見つけたのは新鮮だった。

過食症で体重の増えてしまった患者さんを治療するのに
「腹を膨らませるためにキャベツを食べられるだけたべなさい」
とアドバイスしたというお医者様の話を読んだことがあり
「それじゃあ何も改善しないだろうなあ」と私は漠然と思ったのだけど
なぜ「改善しない」と思ったのかといえば
私自身が馬に食わせるほど大量のキャベツを食べていたことがあったからだ。

結果はこの文章に書かれているように
「満腹なのかどうかさっぱり分からなくなる」
自分の身体の中の繊細なメカニズムのが狂ったような感覚というのが確かにあった。
それは、腹だけ膨れているけど何か食べたい
というような矛盾した感覚で、
「腹が減ってるわけでもないのに何か食べたいなんて、意地汚い」
と必要のない自己批判を誘発してしまいそうな、本当に混乱した感覚だった。
たぶんライト食品にまつわる理屈もそれと変わらないだろう


ダイエット効果はないということに
いい加減気づいていても
それでも通常の食品と低カロリー食品が並んでいれば
殆ど無意識に低カロリーの方に手を伸ばしてしまう
そうしていれば漠然と自分は何か努力しているかのような気持ちになれる
だからからくりに薄々気づいていても
誰も「それっておかしくない?」とは言わない

禁煙をしなければならいと感じているヘビースモーカーが
ニコチンの少ないライトタバコに銘柄を変えて
状況は何も変わっていないことに気づきながら
なんとなく自分をごまかしているのとまったく同じこと
むしろ、おかしいことには気づかないままでいたいと感じてしまう。
効果があるなしに係わらず、何か努力しているような感覚がなければ酷く不安なのだ。

「なぜそんなに痩せたいの?」関連記事一覧
1 美人の文化史
2 美人の社会心理学
3 美しいボディの創造
4 美人をめぐる神話
5 私の感想
美の理想
低カロリー食品では痩せない理由

「全ての少女や女性が、モード雑誌のカバー写真のなかで幸福そうに美しく輝いていて、おおいに羨ましがられている美女たちの素顔を個人的に知ることができれば良いのだが。化粧もせず、着飾ることもなく、痩せて、青白く、フラストレーションのたまった、摂食障害に悩み、飢えて、吐き、惨めで孤独なモデルの姿を。
(--中略--)
若い女性の『美の理想』を知らしめるのに、これはきっと役に立つだろう」

「達成し得ない美を眺めていれば、現実のボディは無価値になる。現実のボディに触れれば、欠陥はあらわになり、それに触れるのはますます嫌になる」

VOGUE NIPPON (ヴォーグ ニッポン) 2007年 04月号 [雑誌]

「モード写真を見て、あらゆる細部に手が加えられているかもしれないと考える人はまれである。
それらの写真が実際の人物のほんとうの姿だと思い込まない限りは、美しい写真を眺めるのはひどくわくわくすることかもしれない。
モデルが私たちよりもずっと美しく完璧に見えるのは、職業柄当然である。
最終的に私たちがモデルを目にするまでには、彼女たちはメイクアップ係、スタイリスト、美容師らによってしたごしらえされ、プロのモードのカメラマンがプロフェッショナルに照明の施されたスタジオで完璧に調整された背景のもとでとても数え切れないほどシャッターを切り、修正係がそれらの写真に手を加えるからである。
私たちがそこまで自覚していれば、騙されることはない」

marie claire (マリ・クレール) 2007年 04月号 [雑誌]

「子供のようにつるつるで無駄毛がなく、少年のように脂肪がなく、まっすぐ、
男のように大きく、若い少女の小さくて堅い乳房と引き締まった男性的な臀部をもつ女性。
この矛盾を一身に体現するような女性は、そもそもありえない。」

「美をめぐる神話は、私たちが理想と現実がいかに遠くかけ離れているかに気づかないことで、その命を養っているのだ」

CanCam (キャンキャン) 2007年 04月号 [雑誌]

「女性誌の大部分から判断するならば、女性のボディはつねに惨めで、修復が必要とされる。
何ひとつ適切なものはない。
雑誌のどの号においても、あなたのボディはひどい、対策が必要だといわれる。」
「ボディは最終的には女性の敵となり、美しいボディという理想は固定観念となり、強迫観念となる」

JJ (ジェィジェィ) 2007年 04月号 [雑誌]

「たしかに『私は太りすぎている』と言うのは、『間違った男性と結婚してしまった』とか『私は不幸だ』とか『仕事でいい待遇を受けていない』あるいは『私は孤独でさびしい』と言うよりは簡単である。」
「自分自身のボディに満足していない女性は、それによって世界とのかかわりにおいて絶望していることを表現しているのだ」

※ヴァルトラウト・ポッシュ著「なぜそんなに痩せたいの?―「美人」になりたい女の社会心理学 」より要約

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※この記事はジェニーン・ロス著「食べ過ぎることの意味―過食症からの解放 」より
「第十二章 信頼」を参照しています。※

「もし今、自分の食べたいものを何でも食べていいと自分に許したとしたら、
いったいどうなるでしょう?」

「私にはできません」彼女たちは応えます。
「どうしてなのですか」私は彼女たちにたずねます。

だって、私たちの飢えは根深く、古いものだから。
私たちの飢えは狂暴だから。
だから、もし私たちがそれに足枷をし、檻にいれ、口を封じなかったら、
それは私たちを貪り食ってしまうかもしれない。
そしたら今度は私たちが世界を貪り食ってしまうかもしれないから。

飢えは、ただ食べ物に対してだけではありません。
親密さ、快適さ、セックス、満足の行く仕事、
限界の設定、自己表現、これらに対する飢えでもあります。
私たちは皆同じ、自分を恐れている女性たち、
飢えに絡め取られている女たちです。

自分を信頼するとは、飢えを快く認めることです。
食べ物、親密さ、快適さ、自己表現に対する飢えを、です。

「こんな私なんか、好きになってくれる人はいないわ、
こんなにも激しく求めてしまう、
私の飢えの深さを知ったら、誰だって逃げ出してしまう。」


求めるということはたやすいことではありません。
求めた相手がノーと言って断ったら、
がっかりしますし、傷つくこともあります。
しかし、孤独やきりのない欲求への恐怖という最悪の感情は、
求めるという行為によって消えるのです。

食べたいものを食べるということも、勇気のいることです。
空腹がいつかは治まることを信じ、
自分は食べたいものを食べてもいい人間なんだと信じる必要があるからです。
食べたいものを食べるということは
あなたのことを信じている、怖がることないのよ、
と自分自身に伝える一つの方法です。


静かに腰を下ろしてできるだけ正直に次の質問に答えてみてください
・あなたは何に飢えているのですか
・求めるということについて、あなたはどのように感じていますか
・他の人があなたに何か求めたときには、どのように感じていますか
・あなたが何かに酷く飢え、それを手に入れた時のことを思い出してください。
満足するにはどれほど必要でしたか。
・あなたは切りのない飢えを体験したことがありますか。
・満足するために必要と思われる量と実際に必要な量との違いに気づいたことがありますか。

あなたが自分自身について信じられることを全て書き出してみてください
・人を信じるに値する人間にしてくれるものとは何なのでしょうか

毎日誰かに何かを求めてみましょう
・恥ずかしがってはいけません。私たちは皆が何かに飢えているのですから。
・まずは小さなことを親しい友人や家族に対して求めてみてください。
恐れ、戸惑い、安堵感・・・求める過程の心の動きに注意を注ぎます。
自分自身についてどのように感じますか。

求める練習をしてみましょう。
・親しい友人と、お互い相手に何でも自由に求めていいと同時に、自由にノーと断ることもできるという約束をしてください。
一週間、何も求めるものがなかったとしても、とにかく求めてみましょう。
相手の友人が電話好きでないことを承知の上で五分間電話で話す、
というようなささやかなことで構いません。
・求めた際に起こるかもしれない最悪のことは、相手からのノーです。
確かにこれはつらいことですが、
求めることによって、つらさよりもずっと長く残るものが確認できます。
それは自分を大切にするという感覚です。
欲求を表現したとき、すでにあなたは自分は求めるに足る存在であるということを決めたのです。

飢えは、その真っ只中にいるときは、まるで切りがないかのように見えます。
しかしそれが本当に切りのないものへと変わってしまうのは
私たちが飢えを認めようとしない時なのです。

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2007年03月09日

どうやって治ったのか具体的に知りたい、
と何度か言われていて
もちろん、それを知りたいという気持ちは良く分かるし
私も読むほうの立場だったら
「それであんたはどうやって治ったの?」
と真っ先に言うと思うのだけど


だけど
さて、と考えてみても
「こうしたんだよ」とはっきり言えるようなものは
無いと言えば無い
多分過食症というのは
「こうやったらこうなって
次にこうやったらこうなって
最後にこうしたら治った」
というものじゃないのだ

私は実は学生の頃人よりちょっと成績がよくって
「どうやったら勉強ができるようになるの」って
時々聴かれて困ってたのだけど
「過食症はどうやって治ったんだっけか」と考えることにも
ちょうどそういう感じの困惑がある

どうもこうもなくって
ただ目の前にあるものに淡々と取り組むことを決めて
それを毎日続けて
分かる日もあって、わかんない日もあったけど
とにかく毎日続けて積み上げたら
人と比べて割とできるようになっていたので
「効果的にびしっと一発で勉強ができるようになる魔法のスイッチ」
というのはどこにもない

過食症の時も
毎日の過食の中に
「私は諦めない、私は信じる、私は成長していく」
みたな意識が入り込んできて
それは生まれたての弱い意識だから
くじけることもあったし、うまく機能することもあったし
物凄く不安でじれったいものだったのだけど
とにかく毎日続けて積み上げたら
いつの間にかあんまり過食には興味がなくなっていただけだ
何で治ったのか、誰かに伝えようとしても
「効果的にびしっと一発で過食が直る魔法のスイッチ」は
私も発見できなかったのだから
目からうろこが落ちるようなすごいことは言いたくても言えない
ただ過食症が治るってのは
全然ドラマチックじゃなくて凄く地味なことだったてわけだ


過食をすることを諦めて
それが今の自分に必要なら
嫌だし怖いし不安だし恥ずかしいし情けないし理想の自分像と随分違うし、
でももう仕方ないから勇気を出して「やろう」と決めて
居直って食べて
食べて食べ続けて
食べても一向に悲しみは減ら無いのに気づいたら
自分の本当に欲しいものは食べ物じゃないんだな
とわかり初めて
なんとなく
いつの間にか
しなくなってた

過食してる時ってのは
「何とかして食べなくなりたい」と思って
何年も何年も本当に長い間、
それこそ血のにじむような努力をしてきているから
だから
「それが必要なら仕方ないじゃないか、過食をしよう」
って決めることは物凄く勇気が必要だ
血のにじむような努力をしてきてしまったからこそ
その努力を全部ひっくり返すようなことを決めるのは
物凄く不安なことだ

過食をすることは
「嫌だし怖いし不安だし恥ずかしいし情けない」と思っているから
だから「嫌だし怖いし不安だし恥ずかしいし情けない自分」
を認めるのは物凄く勇気がいる

だけど本当のところ自分がそれを必要としてるんであれば
そこから目をそらしたって仕方ないし
必要なものを「必要ない」って言いくるめることって不可能だと思う
認めたかろうが認めたくなかろうが
必要なものは必要なんだ
格好悪いと思うかどうかなんて単なる見栄で
人生の中で一番大切なのは見栄を張ることじゃない

どんなに頑なに目をそらしても
必要なものは必要なんだ

過食症って
人目に付かないところで一人で溺れているような感じだと思うのだけど
皆自分が溺れているのを知っていて
頑なに手の平に藁を握り締めている
そんなもの握っていたって実際今溺れてるんだから
それは助けになってないってことは明白なんだけど
でもとにかく溺れているときに、手に掴んでいるものから手を離すのって
とても勇気がいるものだ
役に立たなくても何もないよりはいいんじゃないかと思ってしまう
まさにそれこそが状況を良くできない原因だとしても
それでも手を離したら何が起こるかを予測できないから
ますます強く握り締めていまう

その藁から手を離すときの感覚って
「自分にとってこうすることが必要ならしょうがないじゃいか」
っていう諦めだと思う
ぱっと手を離したら、すっと水の底に沈んで
沈みきったらぽんと底を蹴って浮上してくればいいだけの話だ

※この記事はジェニーン・ロス著「食べ過ぎることの意味―過食症からの解放 」より
「第十一章 ジャッジメント(宣告・批判)とアウェアネス(自覚)」を参照しています。※

○ジャッジメント(自己批判、否定的判断、宣告)

ジャッジメントは物音ひとつ立てずに頭の中をハイピッチで吹き抜けていく嵐です。
これに耳を傾けるのは辛いことです。
そして一刻も早く自分の頭の中の金切り声をとめようと何でもしてしまいます。
食べることはそれを止めてくれるのです。
食べてしまったこと自体で自己批判をし始めるまでは
他の否定的判断からあなたを解放してくれます。
強迫的に食べることはあなたを攻撃するジャッジメントへの反撃です

自己批判は感情、印象、思い込みを引き起こします。
自分自身に「ちょっと太ったんじゃないの」とでも言おうものなら
太っているということから連想される感情の猛反撃を招くことになります。
「あなたは太っているわ。醜いし、価値なんてないのよ」
そう叫んでいる声です。
それはあまりにもつらく、これを打ち負かして仕返しをしてやりたいと思います。
批判が存在する限り過食は続いていくでしょう。

○アウェアネス(自覚)
自分が強迫行為にとらわれていることに気づくと、強迫行為は止まります。
強迫行動というのは自動的で思考欠如の行動を意味します。
自分の感覚を麻痺させてしまいたい、自分を打ちのめしてしまいたいと思うとき
また自分自身から離れたいと思うとき、強迫行動に走るのです。

ここにこそ強迫行為の価値、不快を取り除くという意味があり、
そしてこれは強迫行動の悲惨さでもあります。
不快さを取り除くためには、自分の人生の大半をそれに費やし続けなければならないからです。

自分の人生を手放してしまいたいのか、
それとも自分の人生に自ら進んでかかわっていきたいのかの決断、
それこそが私たちに必要なことです。

自覚とは、自分自身と関係を結び、
生きている限りその関係を保ち続けていくプロセスです。

食べ続けていても、
そうすることで自分の望みどおりの満足を得られているかと
自分に尋ねてみることができれば、それはもう強迫行動ではありません。
自覚的であれば思考欠如ではありえません。
光を当てれば闇ではなくなるのです。


一日に何回批判をしているか、数えてみてください
・目を開けた瞬間からです。
人々やあなた自身の歩き方、服装、表情、についてどれほど多くのジャッジメントを下しているかに注意してみてください。
・あなたはあらゆることに対してなんらかの意見を抱いているでしょう。
しかしこれはあくまで意見であって、確かな真実ではないのです。
それらの意見が浮かんでは消えていくことを自覚してください

何かを批判するたびに「空は青い」という文句をつけてみてください
・「私の太ももはなんて太いのかしら、でも空は青いんだわ。彼女はビキニなんて着るべきじゃないのに。でも空は青いんだもんね。私は決して食べるのをやめられないんじゃないかしら、でもやっぱり空は青いんだわ」という具合です。
・この調子はずれの文句をジャッジメントの最後に付け加える目的はその深刻さが中和されるからです。
あなたは批判をしているけれどもそれの虜になる必要はないということが自覚できます。

批判されることで、身体的にどのように感じますか

批判されることで精神的にどのように感じますか

この人から受け入れられていると感じる友人のことを思い浮かべてください。
相手に気に障ることをあなたがしてしまったとき、どうなるでしょうか

・その友人はあなたがそれを改めない限りもうあなたのことを愛さないと言い、
最後通牒を突きつけるでしょうか。

自分自身または、誰か他の人に批判された結果、あなたが変化した場合をリストアップしてみましょう

あなたが長期にわたって変化し続けたときのことを思い浮かべてください
・その変化はあなたがいたわりや安心を感じているときに生じましたか
・それとも何かに脅かされている気がし、そのために変化が生じたのでしょうか
・長期にわたる変化というのは自分が良くない人間であるという恐怖心から生じるのでしょうか。
それとも自分の可能性を実現したいという願望から生じるものでしょうか。

一枚の紙を二つの部分にわけ、左側に「批判」、右側には「反批判」と書いてください
・あなたが自分自身について度々行う批判をひとつ取り上げ、
それを批判と書いた見出しの下に書きます。
今度はそれに対応する形で反対の評価をしてみましょう。
・「批判」「反批判」を繰り返して書いていきます。
反批判か、それとも「中立的」になるまでこれを繰り返して見ましょう
・批判というものは相対的、主観的で一時的な産物に過ぎないことに気づくでしょう。
そしてもう自己批判にいちいち反応しないで済む方法を見つけてください。

批判の声に名前をつけてください
・その声は何を求めているのか、恐れているのか、
どのようにあなたの役に立とうとしているのか、名前を呼び話しかけてください。
「あらこんにちは、あなたったら、また戻ってきたのね、どうしたの」というように。
・友好的なコミュニケーションを築いてください。
批判の声とあなた自身の声、そのどちらもが、あなたを幸せにすることを願っているのです。

誰かがあなたを批判している場合には、やめてくれるように相手に言ってみましょう。
・ほかの人々からの批判は、彼らが彼ら自身を受け入れられないでいることの反映です。
あなたの欠点を表しているわけではないのです。
自分自身を批判している点について、他人にも批判の目を向けるものです。

自分を批判しているときには、今何がおきつつあるのか自分自身に尋ねてみましょう
・自分を太っていると感じるとき、それは
そのような感覚よりも捕らえがたいこと、より馴染みが薄いことについて
私の気持ちが混乱している
ことを明確に示しています。
新しい苦しみの本当の姿から逃れ、古いなじみの問題の陰に身を潜めているのです。
・「私は太っている」という自分の声が聞こえたら、
あなたの何について、そう感じるのか自分に尋ねてみましょう。
何か本当に不快なことを表現するための比喩として、自分の体重をそのように感じているんだと考えてみてください。

批判が生じてきたらナンバーをつけましょう
・「批判ナンバー3456」という具合です。
そのまま一日を続けていきます。
ナンバーが100万まで達したら、もう一度はじめからやります。

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食べ過ぎることの意味(1 チョコレートに抱き締めてもらいたい気持ち)

食べ過ぎることの意味 (2 二週間のチョコチップクッキー欲求)

2007年03月08日

※この記事はジェニーン・ロス著「食べ過ぎることの意味―過食症からの解放 」より
「第十章 手にしているということ」を参照しています。※


体重を大幅に減らした著者ジェニーンは
人の評価は体重によって左右されるのではなく
その人がどのように生きているか、ということが
魅力を感じるかどうかの基礎になるのだということを実感します。
しかしそれはジェニーンにとっては痛烈な苦しみももたらしました。

誰かが自分に魅力を感じない時には、
それは身体以上の、自分の力ではどうにもできない何かに
問題があるということだと感じたのです。
自分のうちに「どうしてあなたは私を求めてくれないの」という声が聞こえ
その声は「いったい私のどこがいけないの」という叫びに変わります。
それは誰かに自分を愛させようとする狂気じみた試みであり
自分自身を申し分ないと感じる許しを求めて挑んだ辛い戦いでした。

太っていたときは自分をコントロールできました。
人に拒絶されても、拒絶されたのは自分の肉であり自分自身ではないのだ
と感じることができました。
すでに自分が自分を拒絶していたので
人からそれ以上に拒絶されることは無かったのです。

今まで太っていたのは
「意志の弱さの現われ」だったのではなく
「自分を守るための方法」であったということにジェニーンは気づきました。
肥満は自分の友人でもあり、立ち去ってもらいたくないように感じられました。
その葛藤は、もう一度自分を守るために残りの人生を太った状態で暮らすか
それとも勇気を持って痩せていることを選ぶかという選択なのではなく、
自分を苦しみひび割れていると考えることから、
太っていても健康で分別もあると信じることへと自己イメージをかえるか
それともこのまま自己嫌悪と疑惑に我を忘れているかの選択でした。

ノイローゼで自虐的とも言える行動をとってしまうとき、
それは「ノイローゼで自虐的である」と信じるのか
「一見ノイローゼで自虐的なようだけれど、
良く考えてみればその状況ではもっとも適切な行動だった」
と信じるかの選択です。
「自分を痛めつけている」という考えから
「自分を助けているんだ」という考えへの移行です。
自分が今していることは自分の役に立っているんだという仮定からはじめるとき、
それは自分の本能や願望を信頼するときです。


○痩せたあなたと太ったあなた--どちらが本当のあなたですか

太ったあなたとはどのような人ですか。「太った私は・・・」というリストを作ってみてください。
・何をしますか。どのように感じますか。何を求めていますか。
・服装、歩き方、姿勢、表情について具体的に説明してください。
・自分の時間を使って何をしますか、周囲の人々についてどのように感じていますか。
親密な関係を築いていますか、遊び好きですか、
真面目ですか、セクシーですか強情っぱりですか。

痩せたあなたとはどのような人ですか
・人はどのような反応をしますか。どのような服を着ていますか。
どのように振る舞いますか。
何を求め、何に価値をおきますか。

二つのイメージを完成させたあとで双方を比較してみてください。
・どのように違っていますか。要求は矛盾していませんか。
・どちらの要求があなた自身が望む自分、あなた自身が自覚している自己イメージですか。

これはある女性が書いたリストです
・太った私は・・・

世捨て人
人目を忍んでいる
腹を立てている
飢えている
苦しんでいる
一生懸命働いている
社交的でない

・痩せた私は・・・・

疲れをしらない
男性に依存している
自己否定的
浮気性
性的に興奮しやすい

太っているイメージは常に一人ぼっちで社交的になる必要もありません。
でも自分の嫌なことにはノーと言って拒絶することも許されるという連想を持っていました。
一方痩せているということは、常にエネルギーがあり、
セクシャルで注目のもとであることを連想させます。
もしもっと痩せてしまったら性的に言い寄られたり、
相手のために時間を割くことを求められたときに
ノーといって拒絶することができなくなると感じているのであれば
体重を減らすということは、恐ろしいことになってしまうでしょう。

このイメージには二つの落とし穴があります
ひとつには、あなたが自分の身体には人格を与えていながら、
自分自身には充分な力を与えていないということです。
恥ずかしがりやなのはあなたであり、あなたの身体ではないのです。
体重が大幅に減量したからといって人格が突如大きく変化すると考えるのは非現実的です。

第二の落とし穴は
「痩せていること」と「太っていること」を
特定の性格にぴったり固定させてしまっているという危険です。
痩せても窮地に陥ることもあります。
太っていてもいちゃいちゃとして浮気性でいることもありえます。
あなたがこうなりたいと思うような自分になるために、
今よりも痩せる必要はないのです。


太りすぎの利点を定義するリストを挙げてみましょう
・「太っていることで私は・・・・することができるようになります」
・「痩せているということは、私には・・・・することができないということなのです。」

先に書いた太った自分と痩せた自分のイメージを組み合わせたものを作ってみましょう
・先にあげた「太った私」と「痩せた私」のリストを書いた女性は次のように書きました

私は今よりも痩せても、なおかつ一生懸命に働くこともできるのです。それに傍目にどう見えようとも、心の中ではつらいと思うこともありますし、人目を避けたいと思うこともあります。そんな時はいつでも自分の望むときに世捨て人のようになって人目を避けてもいいんですね。別に太っていなくても、性的に無関心だったり、恋人がいなくてもいいんですね。私はいつでも、自分がそうしたいと思うときにはこのように、どのような状態にでもなれる自分でありたいと思います。

自分が痩せたらそのときにやろうと思っているリストを作りましょう
・ベルトを締める、シャツをウエストに入れる、人前でチョコチップクッキーを食べる、
好きな服を買う、昔の友人を訪ねるなど。
・リストができたら、その中から一日に二つずつ実行し始めてください
・自分の身体を快適に感じている人はどのように行動するでしょうか。
あなたもその一人になったつもりで行動して見ましょう。

太った自分に名前をつけ、あなた自身との間に交わされる対話を書き出してみましょう
・これを完成させるには少なくても二時間は必要です。
なぜならあなた自身の声を、太ったあなたの声から区別できるようになるには長い時間がかかりますから。
・太ったあなたに語りかけ、何を望み、何を必要としているのか、
あなた自身をどのようにいたわってくれるのか、たずねてみてください。
・あなた自身は太ったあなたをどう感じているのか教えてあげてください。
・この対話は以前はお互いに敵同士だったあなたの中のふたつの部分がコミュニケーションを図れるようにするうえで役になってくれることでしょう。
あなたの中のこの部分には未来の友人がいます。
おそらくあなた方は一緒に強力なチームを組んでいくことになるでしょう。

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食べ過ぎることの意味 (2 二週間のチョコチップクッキー欲求)

2007年03月07日

「食べ物の好き嫌いある?」と聴かれると
「子供のころからなかった」と
ずっと答えてきました

そのことに
「あれ?」
と思ったのは
本当にごく最近のことでした

子供のころを振り返ってみると
できるだけ味がしないようにするために
噛まずに急いで飲み込むことにしていたものがあるのです
ねぎの味噌汁だったり
ほうれん草のおひたしだったり
苦くて固いししゃもの干物だったり

もしかしてああいう気持ちを
「嫌い」
というのじゃないだろうか、と
実はつい最近、初めて気づいたのです

好き嫌いがなかったのではなく
好き嫌いを無視していた
自分に好き嫌いがあることを認めていなかったのでした
なぜなら
良い子でいるためには好き嫌いがあってはいけないと思っていたから

自分が良い子でないかもしれないというリスクをおかして
それを「嫌い」と認めるくらいなら
とにかく無理に飲み込んでしまって
そんな食べ物など最初からなかったことにしまう方が楽でした

そしてそのまま十年たっても二十年たっても
私は自分が良い子でないかもしれないというリスクをおかすくらいなら
その感情には名前をつけないままに
口の中に放り込んでごくんと飲み込んでしまうことの方を選び続けたのです

私は
目をつぶって15分我慢してしまえばコトはすぐ終わるのだから
ここで騒いでことを荒立てたくないと思うことがよくあります
例えば会社で理不尽な場面に立たされたとき、
例えば簡単に違いないと思われる物事を自分で解決できなかったとき
例えば望まないセックスのとき、
私はいつも
自分がことを荒立てなければ世の中は円滑に進むに違いないと思っていました
15分我慢すれば済むようなことについて
わざわざ自分を守ったりしませんでした
感情などあたまから無視して
自分などこの世に存在していないかのようなフリをするのは
とても得意だったのです

家庭の食卓で
ほうれん草のおひたしを丸呑みしていた
あの頃から微塵も変わらず

※この記事はジェニーン・ロス著「食べ過ぎることの意味―過食症からの解放 」より
「第九章 欲求」を参照しています。※

自分にないものを何でも全て求める心の叫びについて述べます。
夢を持ち、その夢に向かって進んでいこうとすることと
現実から一歩距離をおいた空想の世界で生きることの間のにある
微妙なバランスは崩れやすいものです。
私たちは何かを欲するとき、それを手にした時の自分を思い描きます。
そのとき、その空想をコントロールする力は自分自身が握っています。
空想の世界では失望することも、危険や弱さに直面することも、
傷つけれられる恐れもありません。

人生を、今自分が手にしているものの中で過ごすと、
私たちはコントロールを失います。
愛する者を失うかもしれません、閉ざされてしまうかもしれません、
置き去りにされるかもしれません。
自分が今手にしているものの大切に気づくや否や、
私たちはそれを失うかもしれないということ悟るのです。

痩せたいという欲求について
「現実に今よりももっと体重が軽い」ということと、
「今より軽かったらいいのに、と思うこと」は
全然別のことです。

もっと痩せていたらいいのに、と思うとき
空想の中のあなたは完璧な存在であり、
求める側ではなく、常に求められる存在でしょう。
あなたは傷ついたり迷ったりしない存在として空想の世界で暮らします。

しかし実際に痩せた体を手に入れるとどうなるでしょうか。
あなたはコントロールを失います。
痩せたあなたはすでに夢ではなく、現実です。
どのように話し、働き、感じたらいいのかは自分で判断しなければなりません。
痩せた体はあなたの変わりに人生に取り組んではくれません。
あなたがそれをしなければならないのです。

著者ジェニーンはそうして何度も痩せては、
痩せた生活に失望して再び体重を増やし、
自分の生活のありとあらゆる欠点を増えてしまった体重のせいにしながら
痩せることこそが全てを薔薇色にかえてくれる最終ゴールなんだ
という思い込みをもう一度築き上げ
痩せたら手にできる成功を再び夢見つづけていました。
手に入れることを求めているのではなく
求めることを求めていたのです。

痩せたいという欲求は現実を隅へ押しやり、
現実の自分を頭から締め出してしまいます。
あなたはずっと自分自身の人生は蔵の中に押し込め、
コントロールできない人生の諸側面と自分の間に
クッションを置いてきたのです。


「死ぬほど痩せたい」と思う一方で、
本当は痩せることを求めてはいないかもしれない可能性
を認めるには相当な勇気が必要です。
しかし痩せた身体を単に概念的な小柄な身体ではなく、
ひとつの生命として、現実の中で生きる生命として捕らえることができたとき
その欲求は静まっていくでしょう。

欲求のリストを作りましょう
あなた自身の経験から欲求というものについて何か発見してみましょう
下の5つのリストを完成させてみてください。

1、欲しいけれど、実際には今、手にしていないものとは何ですか
・新しい車?痩せた体?別の仕事?新しい関係?赤ちゃん?

2、今まで欲しいと思ってきて実際に手に入れたものは何ですか

3、求めることで可能になることは?
・それはあなたをファンタジーの世界に招きいれ、失望から守ってくれますか

4、もしそれらのものを手にいれたら、あなたの人生はどのように変わるでしょうか
・それによっては自分は完成される、そう感じるならそう記入してください。
ロマンチックでば馬鹿げているように感じても、
心の内側に押さえ込んでしまうよりも
書き出して実際に目で確認してみるほうがいいのです。

5、自分が欲しかったものを手にしている今、人生はどう変わったでしょうか
特に、長期にわたる幸せをもたらしてくれたものに着目してください

欲求の姿勢をとってみましょう
・あなたが欲しいもの、きっと幸せにしてくれると確信しているものを思い浮かべてください。
それを取ろうとするように両手をまっすぐ伸ばして、そのまま伸ばし続けていてください。
その姿勢は快適でしょうか。
・あなたの心は現在、この姿勢、このように激しく物を求める姿勢をしているのです。
これは辛い姿勢です。

朝、目を覚ましたとき、自分の身体は絶対に今快適なんだと想像してみてください
・自分は欲しいものをすでに手にしている、一日中自分にそう思い起こさせてください。
あなたの関心はどこにいくのでしょう。
欲求にとって変わるのは何でしょう。
欲求の存在しない一日、あなたはいつ最高の瞬間を迎えるでしょうか。


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食べ過ぎることの意味 (2 二週間のチョコチップクッキー欲求)

2007年03月06日

私が、中学生くらいの時だったでしょうか
母と私と二人きりの週末のお昼でした
二人だけなので食事の準備をする気にはなれず
たまたまふたつあったインスタントラーメンを作って食べました
味噌味と醤油味がひとつずつ、でした


できたラーメンを母は
自分の前に味噌味、私の前に醤油味を置きました
私は味噌を食べたいな、と思っていたのですが
母も味噌を食べたいならそれで構わないと思って何も言いませんでした
それでも「醤油でいいかい?」とも聴かれないのが
少し不思議な気はしたものです

二人とも食べ終わってから
少しお味見で母のどんぶりに残ったスープを舐めてみたりしました
美味しいね、といったら
母は「味噌は嫌いだ」と言ったのです
ではなぜ味噌を選んだのかたずねたら
私が味噌を嫌いに違いないと思ったそうです

母は
母自身が嫌いなものは私も嫌いに違いないと決め、
自分が娘のために犠牲になるために
嫌いな方をあえて選んで取ったのです

そんな必要ははじめから少しもなかったのに

母はどうしても
娘である私が自分と別の人格の一人の人間だということを理解できない人でした
自分の好きなものは娘の好きなもの
自分の嫌いなものは娘の嫌いなものだと決め
それが思い込みだということに
とうとう気づくことができませんでした
私には食べ物の選択という単純なレベルでのプライバシーすらありませんでした

そして
母は家族が側に居る限り
いつも率先して嫌いなものを取り続けました
母は家族がいるがために自分の幸福のための選択はしようとしませんでした
母が母であるということの意味は
果てしなく「自己犠牲」であり
それが「犠牲」である限り
私が母の娘であることの意味は「罪」でした

私が母の側に居る限り
自分の好きなもの嫌いなものについて選ぶ余地がないということ
私が母の側に居る限り
母は嫌いなものを取り続けなければならないと信じ込んでいるということ
そのどちらものが
私にはとても辛いことに思われたのでした

※この記事はジェニーン・ロス著「食べ過ぎることの意味―過食症からの解放 」より
「第八章 運動と体重計」を参照しています。※

○運動強迫

運動が「やりたいこと」から「やらなければならないこと」に変わるとき
運動の喜びは排除され、我慢比べへと変わります。
自分は今日運動しなければならない、という思いに駆られているのであれば
それは強迫観念です。

もし痩せるために運動をするとしたら、そこには
今の自分の状態では充分ではないという意味が込められています

ダイエットを止めその代わりに運動をはじめたとしても、それは
一つの檻から別の檻へ移ったに過ぎないのです。

運動強迫を示す危険信号はいくつかあります
・運動を自分の生活に合わせるのではなく、運動に生活をあわせるようになる
・何を食べるか食べないかが、運動をするかしないかに左右されている
・運動をしないと「正しさ」「完全さ」「良さ」を感じることができない。
・気分がすぐれなかったり、疲れを感じているときでさえ、運動を休まない
・苦痛を感じながら無理に運動をして、その間じゅうイライラしている

それでは運動が強迫行動になっていると感じたとき
どのように対処したらよいでしょうか。

数日、運動をやめてください
・数時間ぶらぶら過ごしてみてはどうでしょうか

運動を休んだ翌朝も一気に体重が増えてはいないことに注目kしてください

あなたという存在は身体だけではないこと、身体以外の全ての面を思い出してください
・「私は・・・・です。」というリストを作ってみてください
表面的な否定的な評価はいかなるものも許してはいけません。

空腹のときに自分の食べたいものを食べてください
・身体と精神というふたつのあなたは、同じ目的、すなわち健康、幸せ、安らぎを目指して進んでいることを信頼してください、

○体重計
体重が重いよりも軽いほうがいい、正しい、という社会的な確信を受け入れ、
来る日も来る日も体重を量り続けることによって
体重計を権威と価値と真実のシンボルにしてきたのは私たち自身です。
その日一日どのような気分でおくったらよいのかということを
体重計に任せるのはやめ、自分で決めることにしましょう。
体重計は捨ててしまうか、表示のところ理想体重を貼り付けてしまってください。

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食べ過ぎることの意味 (2 二週間のチョコチップクッキー欲求)

2007年03月05日

※この記事はジェニーン・ロス著「食べ過ぎることの意味―過食症からの解放 」より
「第七章 レストラン、パーティー、休日の社交的な食事」を参照しています。※

著者は女性にとって食べているときというのは、
日常のほっとしたひと時、彼女たちが唯一、ひとりで過ごせる時間であり
食べるということは誰に見られることも無い自分の顔をもちたいという
欲求のシンボルではないか、といいます。

では、他の人と一緒に快適に食事をするにはどうしたらよいか
という方法について考えてみます

○孤独の重要性
社交的な食事から喜びを得るためには
一人の食事、一人でいること、一人でいたい欲求などをも自覚しておく必要があります。

孤独のための時間というのは文化的には必要不可欠なものとみなされていません。
だからこそ孤独を必要不可欠なもの、つまり食べ物と結びつけてしまい、
衝動的に食べるということと自分一人になりたいという欲求が混同してしまいがちなのです。
まず、自分のための一人の時間をよく観察し、一人で食べられるようになりましょう。

一日に一回はひとりで食事をとりましょう。
・味わい、噛み、飲み込むという流れに関心を払ってください

レストランで一人で食事をしてみましょう
・周囲の人があなたが一人でいることについて不思議がっているような気がするでしょうか。
それは一人でいるということについてあなた自身が持っている先入観かもしれません。
一人ということについての自分の考えに注目してみましょう。

一人でいる時間を、毎日いくらかとってください
・あなたのなかの、あなた自身を大切にしてください。
プライバシーを求めるあなたの欲求を尊重してください。

○レストランでの食事

友人と一緒にレストランに行くときは、どこに行きたくて何が食べたいかをはっきり言いましょう
・自分が食べたいものをまず言い、それから妥協点を探るのです。
あなたの思い通りになることもあるし、そうならないこともあるでしょう。

レストランの雰囲気が気に入らなかったら遠慮せずに同行の人にそれを伝えてください。
・その場の印象を同行の人たちと共感し合えないまま、そこを快く感じていない人と夕食を一緒にしても楽しくありませんし、リラックスすることもできません。

感情的になったり、ストレスがかかるような話は避けましょう
・あなたの身体が、心にではなく、食べ物に対応できるようにしましょう

食事中にしばらく沈黙が訪れても気にしないでください
・その沈黙によりかえって食べ物を味わえることもあるのです

もう充分食べたというあなたの身体の信号に注意深く関心を傾けてください
・レストランの一人分の料理はあなたの胃のサイズに合わせてあるわけではありません
・料理が残った場合は、いつまでもつついていないで持ち帰ってもいいか聴いてみましょう。

食べ物は味わうためのもの、食べるためのもの、栄養を得るためのものです。
「食事をともにする」ということは「一緒にいる」ということの代わりにはなりません。
会うことの第一の目的が話をしたり、一緒に食事をすごしたり、
共通の利害に関する決断を下すことである場合には
もっと効果的な方法を探してみましょう。

他人と一緒に食事をするときは一人で食べるときとは当然勝手が違い、
一人で食べるときのように食べることそのものに注意を集中することはできません。
他人と一緒の食事でまず優先されることは、相手と「行動をわかちあっている」という点なのです。

人と分かち合うことが一人で食事をすることより重要という意味ではありませんが
分かち合う経験にはそれなりの多くの喜びもあるはずです。
他の人と一緒に食べることと、自分を見失わないことととの間の微妙なバランスを
自分なりの方法で見つけてみましょう。


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食べ過ぎることの意味 (2 二週間のチョコチップクッキー欲求)

2007年03月04日

チョコパイという、ひどく甘いお菓子があります
いくつかのメーカーから似たようなものが出てますが
私が子供の頃、森永のチョコパイが
盛んにTVのCMで流れていました
少し高い部類のお菓子だったのですよ
家はあまり裕福でもなかったので
食べさせてもらったことはなく
食べてみたいなあ、とCMを見るたびにいつも思っていました

あるとき、何の機会だったのかは忘れてしまったのですが
スーパーで母親から
「なんでも好きなものを買ってあげる」と
言われたことがありました。
嬉しくて、迷わずそこにあったチョコパイを指さしました

それを見た母親は即座にひとこと言ったのです
「嘘でしょ」

酷く悲しい思いでうなずいて、
私はいつもと変わらないような
「母親の望んでいそうなもの」を探して買ってもらいました
渦巻き型のかりんとうだったり
あんこの入った今川焼きだったり
母の好きなものはたいてい
私はあまり好きではなかったのです

私は子供でしたが、それでも
「自分は母親が望んでるものしか望む権利がないのだ」
という宣告を受けることは
とても辛いものでした

私は今でも人と食事に行くとき
これを食べたい、とうまく言うことができません
「何を望んだらその人が喜ぶのか」が気になって
自分が何を食べたいのかがわからないのです。
そしてそのような食事を人とした後で、一人になってから
何かたいしたことのないジャンクフードなどを
自分ひとりのために食べて、やっと開放されたような思いになります。

それでもできるだけ、
毎日が失敗だらけであってもひるまずに
自分の望むものを明確にしようと努力し続けるのは
ひどく集中力がいるものです
自分が本当に望んでいることを望もうとベストを尽くす習慣は
とても簡単に崩れてしまいます
周りの人の喜ぶように、自分の望みを後回しにすることの方が
ずっと楽だからです。

私は最近、ふと「チョコパイを食べたいな」と思いました
本当は、あの味は私の好みには甘すぎるのですが
それでも食べたいと思ったので買って食べました
そうして二十年も前に
「嘘でしょ」というひとことで
母親から自分の希望をなかったことにされて
とても悲しかったことを思い出しました。

あの時の私は、悲しくてもうなずいて
自分の希望を隠すことしかできませんでしたが、
私はもうあの悲しみは繰り返さないようにしようと決めました
私はいつもいつも
自分のしたいことをしたいと言うように
自分のために努力をしようと
例えば自分の望んでいるものが
こんな風に子供っぽい酷く甘くべたべたした栄養もないようなお菓子である場合でも
それでもやっぱり隠さないで自分の望みのために努力をしようと
私は久しぶりにチョコパイを食べながら思ったのでした

「今過食でとても辛いのです」っていう
手記の数に比べて
「これを実践したら直りました」の数が
少なすぎると思いませんか

もちろん治ったら過食症のことなんて忘れて
忙しく日常を暮らす、というパターンが大部分だとしても
それにしても
「現在過食症継続中」の人口と
「過食症を治しました」の人口が
あまりにも極端に違いすぎるような気がします

大体過食症の治し方を書いてるのは
医者が多くて
本人の体験記って殆ど見かけません

私が思うに
多分治った人は
なんで自分が治ったのか分かってない
んじゃないかなって思うんです
いつの間にか
「考えてみれば最近過食してないな」って
時々思い出すくらいなので
だから再現性ある方法で「これをやったら治ります」
っていう言い方ができないのじゃないかなという気がします

これこそが過食症の治し方なんだと思うんですよね

摂食障害って
食べることが病気なんじゃなくて
(食べることは健康の証です)
治そうとすることが病気なんですよね

治そうとする幾多の
あまりにも必死の試みを
「摂食障害」って呼ぶと思います

健康というのはありのままある状態のことですから
ありのまま生きているものを
治そうとすると
病気になります

*

あなたは
自分が理想とする体重より五キロほど多いですか?
じゃあ、その事実を、そろそろ直視しましょう。
たしかに、あなたの体重は体重計の宣言した通りなのでしょう。
目をそむけることで事実が変わるわけではありません。

*

それがありのままあるあなたです
今のあなたでスタートをしてください
痩せたらスタート地点ではないのです
今がスタート地点です。
どうしても痩せたいのであれば
痩せることを願うのも良いでしょう
でも今のあなたはありのままある今のあなたです
スタートするためには今の体重を愛する必要があります。

※この記事はジェニーン・ロス著「食べ過ぎることの意味―過食症からの解放 」より
「第六章 家庭での食事」を参照しています。※

親として、また子供として家族とともに食事をともにする際の
ぜひ注意して欲しい点について述べます。

○親としてどうしたらよいのか。

多くの人は子供時代食べ物に関して家族からなにか辛いメッセージを受け取っています
自分や自分自身について不安を、影響を受けやすい子供たちの心から引き離すように
ベストを尽くすのは必要なことです。

まずわが子を辛さから守ることは親にはできないということを心に留めてください
・守っているつもりでも、充分慎重になる必要があります。
それは親である自分自身を守りたいという思い、
過去の自分自身の、よく似たつらさをよみがえらせたくないという思いであることが多いからです。

食べ物に対する責任を子ども自身に任せましょう
・子供に週に2,3回の特別料理を選択する権利を与えます、
食べ物について考えたり行動したりするには、自分自身の判断や感情が大変重要である
という意識をゆっくりと子供たちに教えていくことができるでしょう。
・栄養について話したり一緒に本を読んだりし、それに基づいて食事プランを立ててみましょう。
自分自身をいたわる喜びを持てるように教えるのです
・週に一度自由な夜を設けてみましょう。
好きなときに好きなものを夕食に食べてもいいというようにするのです。
ケーキでもポップコーンでも何でもオーケー。
それについて批判的なことは一切言ってはいけません。

夕食時間を明らかな感情的な議論の場としてはいけません
・食べるために席についたのなら食べるようにしましょう。
・団欒のためには散歩や映画に行くなど食事以外の方法で時間を共有する方法は他にもあります。

○帰省の際(両親の子としてかつて過ごしていた環境の中に戻っていく時)

著者ジェニーン自身が大人になってからも、帰省は常に過食の舞台でありつづけた
という経験について語られています。
自分自身の動揺を観察し、自分が母親のつらさに吸収されていきつつあることに気がつき、
そうして友人に電話をして、自分が母親に依存していたあの頃の子供ではないということを
思い出させてもらってやっと過食がとまったといいます。

帰省中に自分がもう親に依存するこどもではないということを思い出すためのガイドラインは
次のようになります。

帰省前にあらかじめ心構えをしておきます
・両親の子供であるとともに、一人の人間でもあることを思い起こさせてくるようなものを何か持っていくのはどうでしょう

実家に到着したら日記をつけ始めましょう

自分のしたいことをするために、一日に一回は両親から離れるようにしましょう

実家から友人に電話をかけて現在の自分の現実と接触を図りましょう

自分の食べ物について好みをはっきりさせ、空腹の時に食べたいものを食べるようにしてください

自分が口にしたもののリストを作りましょう
・もう一度からだの欲求に応えて食べるようにし、一体何が不安なのかよく見つめなおしてください。
「私は帰省するのが不安です、なぜなら・・・」というリストも作ってみてはどうでしょう。

ここでしか食べられないものを食べる最後のチャンス、という焦燥感に注意してください
・いつともわからない将来、充分に食べられなくなってしまうのではないかという欠乏感と恐怖感は、
現在の満足感とは無関係のものです。
・どこに居ようとも美味しい食べ物があるのだということを思い出し、
空腹なのかどうかを自分に尋ねてみましょう。


○友人や家族に体重が増えてしまった自分の姿を見られたくないという時

次のことを考えてみてください。
・殆どの人はあなたがどのように見えるかということを本当に気にしていません。
自分がどのように見えるかという心配に忙しいものです。
・誰かがあなたを否定的にとらえたとしても、それはその人自身に自己評価、価値観の裏返しであり、
あなたには殆ど関係がありません。
批評の言葉は言われた人を表しているのではなく、言った人のことを表しているものです。

現在の自分のサイズにぴったりするお気に入りの服を着て出かけましょう。持っていないのであれば、手に入れてください

自分がもっと痩せていたらどのように振舞うかをイメージして、その通り振舞ってください。

出かける前に自分を豊かにする時間を持ってみましょう
・体重があなたの全てではありません。

家族の中に足を踏み入れたら話しかけたい相手を見つけてください
・自分がどれほど太っているか、惨めかという話題はしてはいけません。
・あなたに必要なのは自分がどのように見えるかという表面的なレベルを超えて、人と人との間に起こる現実なのです。

空腹ならば食べてください
・ただし、あなたの好きなものを、です。


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食べ過ぎることの意味(1 チョコレートに抱き締めてもらいたい気持ち)

食べ過ぎることの意味 (2 二週間のチョコチップクッキー欲求)

2007年03月03日

※この記事はジェニーン・ロス著「食べ過ぎることの意味―過食症からの解放 」より
「第五章 過食すること」を参照しています。※


・過食を未然に防ぐにはどうしたらよいか
・過食をしてしまったらその後どうしたらよいか
について述べています。

まずは原因を理解し、
その原因の大部分を解決しようという試みが必要です。

過食とは自分自身をなんとかしていたわろうとする切羽詰った行動です。
誰もが皆自分のことは一切忘れてしまいという瞬間があります。
生きていることが余りにも辛く、もう何もしたくないという瞬間、
心のアンテナを引っ込めたい、絶対に何もしたくない、という瞬間です。
それでも私たちの文化では「何もしない」という非生産的なことは
甘え、利己主義、無駄と定義されてしまいます。

食べていれば、それはとにかく何かをしていることになります。
食べるというのは生きるのに必要不可欠な行為ですので
食べることであれば、自分のために時間をとることも人々から許容されます。
「なにかしなくてはいられない」という回転木馬を降りられないがためだけに
他には何もしていない言い訳のために食べ物に手を伸ばしてしまうのです。

文化的に一般化されている過食についてのイメージです

1、過食は意志、決意、自制心が欠けているために起こるものである。
2、自分自身のために時間を割くことは甘えであり、利己的である。
3、過食をやめるためにはしっかり自分をコントロールし、
自分の中に、より強い意志、決意、自制心を養わなければならない。

これらを信じ込んだ私たちの行動には以下のような影響が出ています

1、過食をすると、自分を快く受け入れられなくなります。
過食は性格上の欠点を表していると考えてしまうのです。
2、自分に甘かったり、利己的になったりしないように、またはそう見えないようにするために、
他人のためにますます忙しく駆け回るようになります。
3、過食と増えつつある体重に気も狂わんばかりになり、ダイエットを決意します。
そして自分に喜びを与えてくれる食べ物を日々の生活の中からもっともっと切り捨て、
自分自身に優しくなくなります。

それではこれらの文化的な思い込みを踏まえて、
思い切って行動を変えてみましょう。
今まで信じていたものに意義を唱えてみるのです。


心からやりたいと思うことをリストアップしてみましょう。
・何の意味もなく、何の責任も負わなくていい、そんな事柄のリストアップです。
そしてこのリストの中から少なくても一つ、最低十五分間実行してみることにしましょう。

さらにその後で過食に対して抱いている思い込みもリストにしてみましょう
このリストは、あなたの行動のもとにある、言葉にされない考えに名前をつける
チャンスを与えてくれるでしょう。
このような考えにいったん名前をつけてしまえば
そのような考えに基づく自分の行動をこのまま続けるつもりなのか、
それとも新しく変えていくのか、
自分自身に聞いてみることができます。

あなたが自分のために使える時間は、どれほど賢いか、かわいいか、痩せているかによって
決まるわけではありませんし、
その日、どれほどの成果をあげたかによって決まるものでもありません。
自分のために使える時間は生きているあなたに本来備わっているのです。


これらの試みでベストを尽くしてみても
やはり食べ物で我を忘れることから抜け切れなかった場合は
次のようにしてみてはどうでしょう。

まず、腰を下ろしてください
・腰をおろして現実を受け入れてください。
その行為が食べること以外の何ものでもなくなれば、美味しく味わうことができるでしょう

食べてないというフリをしようとしてはいけません
・実際にあなたは食べているのですから正当化して認めましょう
・自分が過食をしていることに着目しない限りは、
”食べ物を自分自身に向かって乱暴に押し込むということ”を続けるしかないのです。

過食をしてもいいのよ、と自分に言ってあげましょう
自分に過食を許可しないかぎり、
関心は「食べ物」ではなく「あなた自身への非難」に向かってしまい
過食を長引かせていまいます。

・自分に過食を許せば食べ物を味わうことができます。
そして、自分がそれを好きなのか、もっと続けたいと思っているのかを判断できるようになります。

過食を許し、関心を食べ物に集中させたら食べ物の感触、味、温度に着目してください
・自分の身体と連絡を取り合い、どれほどの量を、
または何を食べたいのか判断することができるようになるでしょうから、
「過食を楽しむ」ことができるのです。

過食の真っ最中に鏡の前に行ってみてください
・顔、腕、足に触れてみましょう。
確かに存在している、生きている、ということを自分に思い出させてください。
あなたはもう口だけの存在ではありません。
それでももし、もう一度食べ物のところに戻りたいと思うなら、それならば、どうぞ。

ひとりで居るなら大声で食べ物に話しかけてください
・あなたがして欲しいことを直接言うのです。
「意識を麻痺させてほしい」
「打ちのめしてほしい」
「ある出来事を忘れてしまいたい」
「眠らせてほしい」など

もし過食の最中に誰かが入ってきても、隠そうとしないでください
・あなたは何も悪いことをしているわけではないのですから。
何をしているかたずねられたら「食べてるの」というか、
気の許せる人なら「過食をしてるの」というのもいいでしょう。

そして過食の後あなたが取ることのできるベストの行動は次のようになります

もっとも大事なことは自分自身に優しくなることです。
今はあなたがもっとも自分自身を必要としているときです。
何か素敵なことをしましょう。
お風呂に入る、外に出かけて取っておきのものを買う、散歩する、昼寝をする、雑誌を買う、
などもいいですね。

自分を許してあげてください
・あなたは最善をつくしたのですから。
過食をし、それ以外では得られなかった幸せを少しでも得られたなら、
そうする以外しかたなかったではありませんか

少し時間をかけて過食から学んでください
・過食へと駆り立てるきっかけとなったのは何ですか
それは以前にも感じたことのある感情ですか。
記憶によみがえってくる状況ですか。
それは次の機会に役立つはずです

過食の翌日に食べ物から遠ざかってしまうのはやめましょう
・過食の後には精神的にも肉体的にも自分自身に優しくなる必要があります。
過食の後にあなたにできる最善のことは、空腹のときにもう一度食べることです。
自分をいたわることもできるという自信を持ちましょう。


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食べ過ぎることの意味(1 チョコレートに抱き締めてもらいたい気持ち)

食べ過ぎることの意味 (2 二週間のチョコチップクッキー欲求)

2007年03月02日

食べてはいけないものを
何か言い訳しながらほんのひとくち口に入れ、
それが2口3口と加速しながら増えていく瞬間に
「さあ始まってしまった。
コトはもう私の手に負えない」と思ったとき
自分自身の厳しい束縛から逃げることができた喜びと
自分を手放してしまったような絶望感
その二つを感じていました

本心からではないにせよ
私は発狂してしまいたいと
しばしば願っていました
私に適切な判断力がないことをみなに認めてもらい
拘束され、責任のないところで生きたい、と

そしてその一方で
皆から認められ、決して後ろ指を差されることとの無い
完璧な人になりたいとも願っていました。

つまりどちらにせよ
私は間違えるのが怖かったのです
私は自分の責任において
この人生で間違いをおかす勇気が無かったのです
神になるか狂人になるか
どちらかの方法で間違えることから逃げたいと思っていました

食べ物をめぐる葛藤はは小さな舞台です
食べ物に対して私は
なぎ倒し、食いつくし、支配する暴君の役でした
そして自分自身に対しての私は
理性のコントロールの利かない単なる狂人の役割でした
過食のドラマは私の願いの再現だったのです

何度も繰り返したそのドラマの中で
私は満たされたことはありませんでした

本当は
私がなりたかったのは
支配者でも狂人でもなかったのです

私は自分を支配することも
自分を黙殺して閉じ込めることも
もう疲れていました

私は諦めることにしました
間違えることばかりの不完全な人間のままで
このまま人生を試してみたらどうだろうと思い、
そうしてやってみました

一瞬一瞬が
逃げるか向かいあうかの選択でした
私はできる限り注意深く向かい合うように
自分の心を聞くように心がけました
時には食べながら
自分の心に今現実の世界で何が起こっているのかを聴きました
私は悲しんでいたり
怒っていたり
間違いを恥じたりしていました
私は自分がそんなに不器用で不完全な人間であることをおおように諦め
それでもいいじゃないか、と自分自身と手を取り合いました

時間が掛かっても少しずつ
現実と向きあう選択をひとつするたび
支配者と狂人の舞台から
一段降りられるような気がしました

2007年03月01日

※この記事はジェニーン・ロス著「食べ過ぎることの意味―過食症からの解放 」より
第四章「いつ箸を置きますか」を参照しています。※

過食から開放されるためのステップは
・空腹の時に食べるということを自分自身に認める、
・自分が何を求めているのかを自覚し、それを食べるようにする
・充分という状態が本当にもう充分となるそのときを認識する
という段階を踏みます。
空腹というのはいつまでもしつこく騒ぎ立て、間違いようのないものですが
充分という状態は微妙で物静かで見逃しやすいものです。

過食者には「充分という感覚が分からない」と感じている人がよくいますが
これは食べてはいけないと感じながら食べているためです。
自分はものを食べることを許されていないと感じながら食べているとき、
それを食べる最後のチャンスともなりかねないその機会を手放したくないと感じるでしょうから
無理をしてでもできる限り多く食べなくては、という気持ちに駆られます。
これは満足感とは関係のないものであり、
このような時の充分とは、もう一口も飲み込むことができない状態のことを指します。


まず充分という状態を知るためには
食べ始める前に自分が空腹であることをしっかり認識する必要があります。

これは空腹でないときに食べたからといってそれが悪いことだという意味ではありません。
空腹でないけれど食べようとするときは、
本当にあなたが求めているものは何なのか自分自身に何度か問い直してみてください。
数回尋ねなおしたうえで「そうよ、食べ物を求めているの」という答えが返ってきたら
そのときは心を自由にし、自分が何か悪いことをしているという感情を持たずに食べてください。
ガイドラインのことは忘れ、
その食べ物のの温かさ、感触、新鮮さゆえに自分に食べることを許して、
食べ物を必要としたのがあなたの中の何であろうと
それが充分に満たされたならば、そのときにこそ食べるのをやめてください。
ほんの数口で満たされることもあるかもしれませんし、
あとはひたすら眠りたい、それ以外は何もしたくないというほどにならないと
満足した気持ちにならないこともあるでしょう。

私たちは痩せていることが自分を満足させてくれることだと信じるあまり
本当に重要なのは痩せていることではなく、満足である
ということを忘れてしまっています。
だからこそ、自分が求めているのは頭の中の「痩せているというイメージ」ではなく
満足感なのだと自覚することからスタートし
それにむかって一歩一歩近づけていってくれそうなものを
見つけていこうと努力してみてはどうかと思うのです。

では、あなたにとって充分というのはどのような状態なのか注意深く見守ってみましょう。

何か物を食べるときにはその都度、一から十までの段階で自分の空腹度を評価してみてください。
そして食べ終わったらもう一度自分の状態を評価してください

・あなたは満腹の感覚が好きですか。
それによって揺るぎなさやしっかりとした土台に根付いているという感覚を得られますか。
・一回だけで結構ですから段階四まで食べるということに挑戦してみたください。
あなたはどのように感じられますか。軽快で快適な感じがするでしょうか。

食事の真っ最中、しかもそれがあまりにも美味しくて食べるのをやめたくないというときには、
自分の好きなだけ全部食べてしまいましょう

・今どのように感じていますか。満足感を感じていますか。快適ですか。
自分の身体にくつろぎを感じていますか

食事の真っ最中、しかもそれがあまりにも美味しくて食べるのをやめたくないというとき、
・・・それでも今度はやはりやめてみましょう。

・手から口への動きをとめて、今どう感じているか自分に尋ねてみてください。
・自分に語りかけてみてください
「もし望むならば食べ続けてもいいわ、でもね、あなたは今、やめようとしつつあるのよ」

食べることを途中でやめるのが難しいのはいくつかの要因があります
例えば次のような仮説です
・「自分の皿のものを全部食べたら自分のしたいことをしてもいいわよ」
というこども時代に受け取ったメッセージ。
相変わらず子供のころに受け取ったメッセージに基づいて行動しているのであれば、
皿のものを全て平らげることをやめるためにはそのメッセージの正体を認識する必要があります。
あなたは誰かを喜ばせようとして皿のものを食べつくさなければならなかったのでしょうか?
あなたが皿に食べ物を残すことは家庭の中のあなたにとってはどのような意味を持っていたのでしょうか。
・「インドの子供たちは飢えているんですよ。だからあなたは出されたものを食べてしまいなさい」
飢餓が世界的な問題であることは事実ですし、それが少しでも改善するように努めるのは大切なことです。
しかし適量を超えてまで食べたとしてもこの問題は解決はしません。
・「食べ物を無駄にすることが我慢できない」
無駄とは何かということについては誰もが自分なりの定義をしています。
著者ジェニーンはこのように言います
「身体が必要としていない食べ物を口にして身体に負担をかけることは
食べ物をすててしまうこととなんら変わりがなく、まさに無駄と同じことに感じられます」

さて、食べている途中で自分はもう充分食べたことに気づいたとします。
無理して食べることは飢餓の問題の解決にならないことも明らかです。
しかしそれはまだ美味しそうに見えます。もう一口食べたい・・・。
次はあなたがこの瞬間に食べることをやめるためのいくつかの提案です。

・レストランにいるなら”持ち帰り袋”を求めてみましょう
・自宅にいるときはラップに包み、とにかく目の前から片付けます
・思い切って捨ててしまってはどうでしょうか。
・しばらくの間毎回食事の度に自分の皿の上に料理を残すことを事前に決めて試してみてください。
どのように感じるでしょうか。
・「これを食べられるのは最後のチャンスなのよ」と合理化してしまわないように注意してください。
それは自分が充分に満足できないのじゃないか、という恐怖に餌を与えようとしているだけです。

関心の的が食べ物の美味しさから
食べられるうちに食べられるだけ全て食べてしまわなくては、
という焦燥感や欲求へ変わっていく時点に着目してみてください。
このような変化はたいてい、充分食べたけれどもまだ食べ物が残っているときにおこります。
気持ちよく箸をおき、「気分良く感じていたい。自分を大切にいたわりたい。
食べ物を喉まで詰まらせて惨めでぼーっとした気分で席を離れたくない」
と言えるのはどの時点でしょうか。

自分をいたわるか、それとも不愉快にさせるか
毎回食事の度にそれを決めるのは、あなた自身なのです。

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