柔らかな母子像
このサイトを見て下さっている方と
「太っていることの意味」について
詳しくお話しさせて頂く機会がありました。
とても文章の上手な方だったので
文字だけのやりとりだったんですが
「柔らかな身体を持った女性像」が伝わってきました。
それがまた魅力的なのですよね。
私の頭の中に勝手に出てきたのが、この「小椅子の聖母」だったんです
ラファエロは沢山の聖母を描いてますが
これが一番「ボリューム」を訴えてくるような気がします
まず、幼子イエスが「バランスの間違い?」というほど
大きくてふっくらしてますよね
聖母も着衣で肌の露出が殆どないながらも、
ふっくらとした頬やたっぷりした肩や腕のあたりがとても印象深いです
でも、その重さで人を縛るものではなく
軽く空気のように身にまとえるもの、という感じ
たぶん、この絵の中で豊かな肉体そのものが
非常に大きな印象をもたらすということと
それからお話させていただいたのがお子さんがいらっしゃる方だったので
それらの連想がこの絵を思い出しのだと思うのです
この絵の中での女性は
幼子がこれほどふくよかになるまで与えてきっても
それでもまだ自分自身もこれだけの豊かさを失ってない
ずっと与え続けることのできる存在、
与えることを喜びとする存在、として見えます。
それは間違いなく「聖母」として描かれたからこそなのだと思うのです
同時に聖像画にしては随分「普通の人」っぽくもみえるのは
あんまり可愛らしいので
聖母として若すぎるのじゃないか、という感じとか
頭に巻いた布や衣装がエキゾチックで流行の衣装風であること、
椅子に腰掛けているのだけど、肩と膝の高さがかなり近い、
聖母にしてはお行儀悪い姿勢でこちらにリラックスを呼びかけいるということ、
そして、見る人と直接係わろうとするかのようなカメラ目線、
など、スナップショットみたいなところもあるためだと思われます。
実際これはラファエロが愛人を描いたのだとか
たまたま通りかかった母子があまりにも美しかったので
思わず酒樽の蓋に描いたんだとか
(これ、私が切り取ったのじゃなくて、もともと丸い板に書かれた絵なのですよ)
色々言われてますが、
どちらにせよ、目の前にとても魅力的な女性がいて
それをありのままではなく「聖母」という
理想にまで推し進めて絵を描いたみたいなのですね。
そしてその聖と俗の境目がかなり揺れている感じがします。
豊かで、与え続けるのを目的とし、
和をもたらし、でしゃばらず、
常に幸せで、美しく、守り、育て・・・
という、それは実際のところ理想であって
本当の日常ではどんな人でも時々一人になって
「女なんてやってらんないわ、あーあ疲れた疲れた」
って言いながらバランスを取ってるわけで
やっぱり「理想」は聖母様に持っていてもらいたい
私たちは同じ土俵で聖母様と競いたくはない、
ってのは感じますよね
もうひとつラファエロの聖母子で有名なものの中の一つが
システィナのマドンナだと思いますが
これ、聖母子の姿にピンとこない人が居ても
画面下の二人の天使を知らない人はいない、っていう作品です
この絵以降、天使は可愛らしい子どもの姿で描かれるのが一般的になったそうです
これ以前の絵は青年の姿の天使が多く描かれています。
こうなると画面全体の構成からしても紛れもなく聖母子に見えます。
もうひとつ、同じルネサンスの巨匠ミケランジェロの描いた聖家族。
これは場面の仕立ては間違いなく聖像画なのですが
単純に私のイメージで言うとこれはこれで聖母に見えないんですよね。
おそらく「筋肉がつきすぎている」という理由から。
聖母が筋肉ついていているはずがないという理由は特にないはずなんですが、
どうもラファエロのイメージの、果てしなく柔らかそうな身体の方が聖母に見えます。
何でだろうなあ、と考えてみたんですが
できるだけ柔らかそうな方が赤ちゃんを抱いたときに
まるで一体であるかのようにしっくりした感じに見える、
というようなことなんでしょうかね。
ミケランジェロは彫刻家だから、筋肉の動き方そのものに凄く興味があって
それを二次元で緻密に表現したくてやってみたのかな、
と思わないでもないのですが、
それにしてもどうしてこんなに筋肉質のマリアをあえて描いたのか知りたい気がします。
肩越しに赤子を受け取る姿も、キリストの高位をあらわしているのだろう、と考えても
なんとなく男性的に見えたりしますよね。
完全な聖の世界の中に描かれた聖母が男性的とも見える強さを備えている意味、
ってちょっと興味を感じます。
イメージはMarkHarden's Artchive.さんよりお借りしました

