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2007年04月30日

ジェニーン・ロスのHPからピックアップした記事の翻訳です
→元記事:In Geneen's Own Words
日本ではジェニーンの本は二冊しか読めないのですが
もっと知りたい人と共有できれば思い、できる範囲で読んでいきます。

この翻訳はなによりさよのご協力のおかげでできたものです。
翻訳作業を楽しいものにしてくださったこと、心から感謝します。

他にも協力をしてくださるとおっしゃってくださる方もいて、
今回の記事はちょっと都合があわず縁がありませんでしたが、声をかけていただいて嬉しく思いました。
また機会があったらぜひお願いします。

なお一文だけ、どうしても文脈のつながらないところがありました
わけのわからない日本語にするよりは、と訳さずに抜かしてしまいました。
記事の中の(※)となっている部分に一文入ります。
本サイトを読んで、意味の分かる方いらっしゃいましたら、ぜひ教えてくださいませ。

読者様のご協力により、解決しました^^。ありがとうございます。


次は→インタビュー記事を読もうと思っています。
一緒に読んでくださる方、いらっしゃいましたらご一報ください。
今回の記事よりは易しいようです。

掲載した訳はまだ完成ではありません。
いつでも修正してできるだけ正しいものに近づけますのでお気づきのところありましたら教えてください。

ジェニーンロスの言葉

私がダイエットをやめたのは、今まで自分がやってきたことのなかで、
過食こそが最もまともな行為なのではないかとふと感じたからでした。
もし仮に過食を否定しなくていいとすれば、
もしくは、きちんとしようとか、適切な食事や適切なボディサイズ等の外部基準に合わせようとしなくていいとすれば、
または、仮に(食べているものとか、食べている時の気分とか、1ホールすべて口に詰め込んでやろうとアイスケーキにがっついていたあの10分前の行為の直前に、自分に何が起きたのかといった)
過食行為の色んな側面に関心を抱き、それをオープンにすれば、
食べるという行為自体を通じて、その依存行動を引き起こした感情や考え方や不安に
立ち返ることができるかもしれないと思ったのです。
いったん食べ物を何のために利用していたかを理解すると、
私は過食と言う方法で自分を傷つけることなく、
自分の望みをかなえるもっといい方法があるのじゃないかと自分に問いかけてみるようになりました。


ある晩、ピザを丸ごと1枚とチーズケーキ3個、ポテトチップス1袋と特大サイズのかぼちゃアイスを食べた後、いつものように
「こんなことするなんて、まるでブタじゃないの、自分をコントロールできなくて、救いようがないわ」
とうだうだ考えるかわりに、私はペンを持って腰を下ろしました。
30分ほどたって感情の中心部に差しかかると
(ちなみに用いていたのは「記述式追求」と呼んでいる方法です)、
「スリム」が「対人関係」を意味するものだと自分で思い込んでいるのに気がつきました。
今まで私が人間
(磨きをかけてやるのに何年もかかるくせに、私の費やした努力の成果をいつも私以外の誰かに向けるという、まるで壊れた車みたいな男たち)選びではなく
「計画」選びにばかり目を向けてきたのだとすると、私は人と関わりたくなかったのではないでしょうか。自分の中で「スリム」とストレスフルな「対人関係」が同義になってしまっていたからこそ、
私は私自身を守るために食べ続けていたのです。
こう思っていました--太っていればつまらない人間に見えるから誰も近寄ってこないですむ、
ショボいフォルクスワーゲンのビートルみたいな男すら近づいてこないですむ、と。

「デブ」と「一人になれること」の間に作り上げていた関連性を理解するようになると、
無理して食べる量を減らすこともなくなりました。
自覚と冷静な観察がそうさせたのです。
ピザを丸ごと食べ、一度に一万カロリーも詰め込むことはもはや魅力的に感じられなくなりました。
意志の力は使いませんでした。
自分を恥じることもしませんでした。
クッキーを食器棚に入れ、鍵を近所の人に預けることもありませんでした。
ピザをゴミ箱に放り込み、カビの生えたカッテージチーズで覆い隠したりもしませんでした。
ひとたび、食行動の中に、混乱しているとはいえ、とにかく知恵が存在することに気づくと、それはどんどんはっきりしたものになっていきました。
ダイエットも強制も必要なかったのです。
それはまるで、30年間暗くてかびくさい部屋に住んでいて、誰かが突然明かりをつけたような感じでした。
光が存在しないと信じていた過去には戻れないのです。


一番驚いたのはこの私でした。
それまで太い足とコントロールの効かない食欲を抱えて人生をとぼとぼと歩いていくしかないと信じ込んでいたほかならぬこの私です。
本当の奇跡は私が体重を減らしたことでも、人生最大の問題がなくなってしまったことでもない、奇跡的なのは摂食障害という形で表現された私の切実な願いはいつも正しく目的にかなったことだったのに、それに耳を傾け、注意深くなる術を知らなかったということなのです。
強迫的な食行動は、見当違いなところはあったとは言え、人生を精一杯生きる上での勇気ある試みだったのです。

光に向かって伸びていく植物のように、私は自分の心の中の光に向かっていく部分も信じることができました。
いちばん望んでいたのは、人生を丸ごと生きることだったのです。
自分に強制したり、操作しようとしたり、ダメだと決め付けたり、嫌ったりを繰り返したのは、自分はどう変わるべきか知っていて、どうすれば変われるか知っていると信じこんでいたからなのです。

私は蝶になる日が来るかもしれないなんてことを考えもせずに、美しくも強くもやせてもいない自分を恥じながら17年間を過ごしたいも虫みたいなものでした。

結局、摂食障害から解放されるというのは、苦しみ、悲しみ、憎しみ、苦悩の向こうに何か別のものが存在していると信じること、そして私たちの中に光の方へむかっていく自然の力が秘められているということを信じるということなのです。

先日書いたマリ・クレールダイエットスペシャルに関する記事について
「ダイエットやめたらヤセちゃった」の夏目祭子さんがブログで取り上げてくださいました。
「マリ・クレール」特集に見えた女性誌の限界の部分

夏目祭子さんはマリ・クレールのこの特集にコラムを寄せていらっしゃるので
「編集部さんとしがらみとかあったりしないんですか?」
と、出版業界を全然知らない私は世間知らずな感じでご心配申し上げるのですが、
私の書いた批判的意見も大筋を受け入れてくださってます。
私には大変心強いこと。

さて、先日も書いたとおりおよそ女性誌というものをじっくり読んだのは久しぶりで
モードファッションはそれなりに楽しんで見たのですが、
やっぱりモデルの女性たちは無機質なほど痩せているし、しみもしわもないのが目につくなあ、と改めて感じました。
こういう写真と自分を比べるとなんだか変な不安を呼び覚まされます。

だけど私がちょっと思ったのは、
あれって女性誌の方も引っ込みつかなくなっちゃってるんじゃないでしょうかね。
女性たちがいつダイエットをやめたらよいのか分からなくなってしまってるのと呼応して、
女性誌もモデルを痩せさせていくことに、もうブレーキを掛けられなくなってるんじゃないか、っていう気もします。
「だって痩せたモデルはウケるんだもん」という、にわとりたまご状態になってしまってるところってきっとあるわけですよね。

本当に色々な身体を持った女性たちが、モデルに似ていないことを恥じることなく
堂々と魅力的に街を闊歩して、劣等感を持っていない女性が巷に溢れていけば
女性誌もそれについてこないわけにはいかなくなるだろうし。
みんな女性誌の後をついていくのを止めて、女性誌の先行っちゃえばいいんですよね。

流行にはかならずゆり戻しがあって、
ロングヘアが流行った後は必ずショートカットの時代が来るとか、
暗い色が流行ったあとは、明るい色がくるとか、
スカートが長くなったあとは、また短くなるとか、
そういうのは必ずあるわけで、
限界まで痩せた理想は、あとはどう考えたって太っていくしか選択肢はないわけですが、
女性誌についていかなきゃ行けない限り、どっちみち永遠に不安です。

もう女性誌にドナドナされるのはやめた方がいいだろうなあ、と
マネキンによく似た質感の肌の美女たちを見ながら思ったことです。

そんなわけで、ここ「ダイエットをやめて自由になる」が提唱するトレンドは
”モードの先行く美女”でございます。

2007年04月29日

実は・・・
ここだけの話なんですが・・・

自分が痩せていると感じるときって
「太ってたっていいじゃん、個性的に生きようぜ!」
って言うのは凄くたやすいんだけど
太っていると感じる時には
「太ってたっていいじゃん、個性的に生きようぜ!」
って言うのは格段に難しい

面白いと思いませんか?
この海より深い矛盾は何(笑)

何をしているか、何を考えているか、ということとは別に
太っているというのはそれだけで痩せているよりも傷つきやすくなる
なにを成し遂げたって「だってあいつはデブだ」と言われれば
それだけで自分が積み上げた「意味」というものが
全部ガラガラと崩れてしまうという漠然とした不安を抱えながら私たちは生きていて
とにかく、「デブ」といわれないようにしてからでないと
何をしても、いかなる努力を積んでも無駄なのだ、という思いがついてまわる。

「ダイエットをやめよう!」と叫ぶために
ダイエットが必要になるなんて
そんな馬鹿なことあるかい?

女性たちがますます多くダイエットに傷ついて疲れても
ダイエットは流行るばかりで廃れないのは
おそらくこの理由ではないだろうか
「痩せてからでないと、痩せる必要がないなんて言えやしない!」

だからそうなのだ
「ダイエットにだけとらわれているばかばかしい人生なんて真っ平御免」
と思っても
痩せて受け入れられるようになってからでないと、
今居る場所から出てこられないと感じる
ダイエットなんてやめるべき、と思っても
「とりあえず痩せてからじゃないとダイエットはやめられない」
「全てはあと五キロ痩せたら取り組もう」と思う

摂食障害は社会の風潮だけの問題ではないと私は思っている
同じ社会の中に居ても、ある人は摂食障害になり、ある人はならない
そして社会は変わってないのに、治った人は沢山いる
社会は直接の原因ではないと私は考えるし
「生きていくうえで、悩みをどう悩むか」
ということの一つの形が摂食障害で
だから摂食障害から解放されるというのは
つまり「悩みを正面から悩む勇気にいたる」ということじゃないか
と私は思っているのだけど

そうは言っても
このばかばかしいルールはどうしてばかばかしいにも関わらず君臨し続けるのか、
という疑問は残る
たとえば
太っている人を蔑視することが恥ずかしいという意識が殆どない社会
たとえば
誰も望んでいないにも関わらず「美の理想」が勝手にどんどん細くなっていってしまう社会
それはなぜ、ばかばかしいとすら言われないのか?

それは
女性自身が加担してしまっているから、ではないか
私のように、「痩せる必要がないと言うにもダイエットが必要」と
ひるむような女性たち自身が、苦しみをを跳ね返さずに
むしろすり寄ってしまうのだ

ジェニーン・ロスが自分のワークショップの中で自著を朗読するとき
かならずリクエストの出る文章があるという
それは「君はあまりにも太りすぎて魅力にかけていると思うよ」と語るボーイフレンドのミカエルに対して
ジェニーンが、「これはあなたの問題であって、私の問題ではない」と言い放ったという体験を書いた部分
(注:「あなたの問題」という言葉の意味は、文章全体から推測するに、批難というものはその人が自分自身を受け入れらないでいることの反映である、という意味だと思われます。)

彼女たちは、私がミカエルに、穏やかでありながら決して曖昧な物言いではなく、「消えてちょうだい」と告げたことが嬉しいのです。君は太りすぎだね、といわれることがどのようなことであるのか、彼女たちにはわかっているからです(「食べ過ぎることの意味」より引用)

まったくそうなんです。
君は太りすぎだね、といわれることがどのようなことであるか
私たちにはよくわかってるんです。
(極端に標準体重をオーバーしたことなどない人でも、これはわかっている)
だからおびえて閉じこもるし
おびえなかったジェニーンの武勇伝が嬉しいのです

さて、もう一度、問い
どうしてばかばかしい痩身崇拝社会は廃れないか

「太ってる」と馬鹿にする人に対して、
ジェニーンのようにきちんと不快感を表す勇気が私たちにはないから。
「太っている」という人に毅然とした態度で応酬することを考えるよりも
「太っている」といわれないように自分を変えるほうがたやすいと感じるから。

さて
あと五キロ痩せるのを辛抱強く待つように
私たちは社会が変わるのを待つのだろうか
太っている、といって馬鹿にされないですむという保障がとれたら
ダイエットの暗い淵から出てくることができるのか

「社会が変わる」というのはどういうことなんだろうかということを
実はヤマンバギャルの話(過去記事:不美人論レビュー2)や
シャネルの話(過去記事:シャネル革命)を書きながら考えていた
この痩身崇拝社会が変わるというのは
肥満を蔑視していた人が悔い改めて差別をやめるということではなく
私たちが不快なことを言われたときに、公平で適切な態度を取れるようになる

という、私たち自身のことではないだろうか
自由は与えられるものではなく手に入れるものだと私は思う
そして自由はただではないかもしれない

私たちがダイエットしながら待っていたら社会が変わるわけではない
もっと安全にうけいれられるために、もっともっともっと細くなることを望むのをやめて
自分を傷つける人とは戦う権利があるのだと認識しなければならないのではないだろうか

ダイエットでは何も変わらない
ダイエットでは痩身崇拝は終わらないし
ダイエットでは私たちは幸せにならない

(b^∇゚)

ではみなさん、練習しましょう。
もしも体型に拘る差別主義者に出会ってしまった時の対処法です
パターン1 「身体のこと言われるのは傷つくから、もう止めて」
パターン2 「人の脂肪しか見えないのはあんたの理解能力がその程度のものだからよっ!」

もう少し気の効いたのが思いついたらお知らせください
みんなで使いましょう。

愛の寓意


ブロンズィーノというイタリアの作家の作品
「マニエリスム」という分類になる画家なんですけども
どういう意味かというと「理屈っぽい」っていうことみたいですね。

この絵はとんでもない絵だよなあ、と思うけども
一度見るとどうしてもじーっと長時間凝視してしまう
絵の中に謎かけ的に色々描きこまれている仕掛けが面白い、
というのも勿論あるけれども
それより、もう、単純に衝撃的なのです

ちょっとここで紹介するのが恥ずかしいのは
これ私にとっては本当にエロチカに見えて
あの、見るとわりと素直にどきどきします(笑)
だって、なんかもう凄いでしょ、色々。
たぶんリアクションとしてはそれで正解で
「愛と時のアレゴリーAn Allegory (Venus, Cupid, Time and Folly)」
というややこしいタイトルがついていて
謎の多い神話的小道具がたくさん書き込まれているのは
おそらくその辺の興奮を緩和して
これを神話をめぐる芸術にとどめておくための措置だと思われます

(余談ですが昔渡辺淳一さんの「失楽園」が売れに売れたときに
どこかの評論家さんが「あれはポルノ小説は恥ずかしくて買えないサラリーマンたちが喜んで買ったんだ」と書いていたのが妙に合点がいっておかしかったのを覚えてるんですけど、古今東西そういうカラクリって芸術の世界ではいっぱい起こってますよね。
とくにヌードに注目して絵画を見てると本当にそう思います)

真実の顔.jpg

この一見わかりにくい絵の一般的な解釈とされているのは
美術史家エルヴァン・パノフスキーという人の分析です
中央の女性がウェヌス(美の神ビーナス)
それに絡む少年がクピド(キューピッド)
不気味な微笑みで薔薇の花びらを投げつけようとしている子どもは快楽をあらわし、
右上の青いベールを剥ごうとしている老人は「時」の意味、
左上の人は時の娘である「真実」を表すんですが、
この真実さん、実はよく見ると仮面で目と頭骨がないんです。
少年の影で頭抱えてる老婆が嫉妬
子どもの後ろの無表情な少女は、
左右の手がそれぞれ逆についていて、下半身は尻尾という化け物ですが
「欺瞞」を現しているそうです。

ぜんぜんわけがわかりませんが
主題としては、時がヴェールを脱いで
愛の中の色々なものをあらわにしている、
という絵であるらしいです。

bronzino_amore4.jpg

ちなみに今まで知らなかったのですが
ビーナスとキューピットは親子だそうですね
その時代官邸ではやっていた貴婦人と小姓との恋愛遊戯を
暗示するようです

これは色々変なところがある絵なので
どの部分から目が離せなくなってしまうのか、
というのが、一種の心理テストみたいにもなりうるくらい
じゃないかって思いますけど
私はやっぱり少年のクピドが気になって仕方ないんですよ
なんでこんなに身体がねじれて歪んでるんだろう
二人の人間を切ってつなぎ合わせてるんじゃないかってほど
背骨と首のあたりが不自然ですよね。
このデッサン間違えたんじゃないか、という落ち着かないラインに対して
澁澤龍彦が衝撃的なことを書いています

「この姿勢を見てごらん。尻をうしろに突き出して、あられもない格好をしているじゃないか。あえていえば射精寸前、もうたまらないと腰を引いた感じだ」
bronzino_amore3.jpg

ひえーっ、と思ったんですけど
そう思ってみると、また絵が全然違うものに見えてくるから
やっぱり作家は凄いこと考えますね。
あとは澁澤は右手が乳首をはさむように包んでいることも
エロティックなディティールとして注目してますけど
むしろ私は左手がそっと頭を抱くように髪に添えられていることの方が
エロスを感じます。
この辺は男性が見るポイントと女性の見るポイントなのかもしれないなあ
と思うと、面白いですよね、すれ違いっぷりが。

bronzino_amore2.jpg

あと私は後ろで頭かかえている嫉妬さんにも非常に共感を持ちますね。
私も愛の後ろの暗いところでよく頭抱えたなあ、とか思って(笑)

どうでしょうか、どのあたりが気になってしまうか、凝視してみてくださいませ。

さて、最後にあわてて女性のボディサイズの問題にだけちょっと戻っておきますと
この絵が描かれたのが 1503-1572、盛期ルネサンスとバロックの合間くらいです。
理想は痩せて胸が小さく腹の出た女性のボディが理想とされた時代から
肥満が官能と奢侈の象徴としてもてはやされていくその境くらいの感じでしょうか。
何か非常に人を惑わされるものとして描かれている女性の身体です


※参考図書
澁澤龍彦著裸婦の中の裸婦


愛の寓意

2007年04月28日

「痩せ方はあなたの”脳”にきめさせる」

この文句は、マリ・クレール六月号のダイエットスペシャルの見出しです。

marie claire (マリ・クレール) 2007年 06月号 [雑誌]
marie claire (マリ・クレール) 2007年 06月号 [雑誌]

実は私、痩身崇拝は自分を不幸にすると思ったあたりから
女性誌という情報からは意識的に遠ざかっていたし、
もともと読むほうでもなかったので、今まで買ったことなかったのですが、
今回はこの記事を読むために初めて買いました。
マリ・クレール・デビュー。

脳がハッピーになると女は美しくなる。だからダイエットに必要なのは
カロリー計算ではなく幸せ感なのだ、とこの記事は言います。
似非科学チックな聞き捨てならない言葉が沢山出てはくるものの、
まあ、ここまでの大筋はわかります。

「輝く体には理由がある!あのセレブに倣う、プラネット・ボディの作り方とは?」

という見出しつきで全身写真入りで掲載されているの七人の女性たちは、
土屋アンナ、SHIHO、神田うの、山田優、篠原涼子、知花くらら、道端ジェシカ。
(実は私このうち二人しか知らなかったんですけど、えへ)

彼女たちは皆日常的に気持ちよく体を動かす習慣があって、
それによって幸福感を感じるため、脳が良いバランスに保たれている。
その結果美しいボディが作り上げられているのだ!という解説が入っています。

さて倣うべき模範として挙げられている女性たちは
何を犠牲にしても、まず要求される美を自在に体現できる存在であることが最優先される世界に生きる人たちであり、おそらくその世界のトップ七人ですよね。
今痩せていることが流行しているから彼女たちは痩せているのであって、
もし流行のボディサイズがもっと大きくなったら
彼女たちはそれにあわせて太らなければならないでしょう。
流行という舞台で美を売る彼女たちが、
ただ脳のバランスが良いからというだけで
偶然痩せている、なんてことがあるんでしょうか。

そもそも私たちに必要なのは「生きるための美」であって
ショービジネスの世界の「見せるための美」、
いわば「お伽話としての美」とは
まったく違うのじゃないかと思うんですが、
なぜ私たちが彼女たちに倣うのでしょうか。
あの、大胆なドレスを着るための身体、
強烈なライトに照らされるための身体、
遠くから大勢の人に見られるための身体、
人を魅了するために動くための身体、
あの観賞用の身体を手にして、私たちが一体何をするんでしょうか。

女性の身体というのは通常お尻と腰まわりに脂肪がつきます。
だからマリ・クレールが推奨する「セレブたち」は
標準的な女性の身体とはいえないでしょう。
脳がハッピーになったからといって、
そういう遺伝子的に決まっている身体つきまでが果たして変わるでしょうか?

そしてさらにこの記事の中の小見出しの中の文言はこうあります。

「美ボディとハッピー脳は比例する!」

・・・大いに意義があります。
なぜなら、「ボディの見た目」と「ハッピー」を結びつける発想には
ハッピーなら痩せているはずだという暗示、
痩せているならハッピーなはずだという暗示、
痩せればハッピーになるという暗示、
が感じられるからです。
そして、これはマリ・クレールの推奨するようなモデルや女優に近いボディを持っていない人(この世に生きる女性の大部分)に、
不安感、自己嫌悪、罪悪感を押し付けるようにも思えるからです。

私が神田うのみたいじゃないからといって「脳がハッピーじゃない」なんて
言われる筋合いは全然ありません。

実は今回のダイエット特集の中には
前にこのサイトで紹介した「ダイエットやめたらヤセちゃった―アンチダイエット・スリミングの魔法 」の紹介があり、
そのご縁でこの記事について知ったのです。
私は「ダイエットをやめたらヤセちゃった」は興味深い本だと思います。
でもマリ・クレールには賛成できません。

女性は痩せるために幸せになるんじゃありません。
見られるために生きるんじゃありません。
他の誰かみたいになるために自分を変えるんじゃありません。

生き生きと生きるために身体と心があるんだと、私は思います。

2007年04月27日

摂食障害とは何の関係もないエッセイの中で
ちょっと興味深い文章をみつけました

もと拒食症だったという二十代の女性に会った。スタイルもセンスも抜群の現代的な女性に思われるが、「まだ精神的には不安定なんです。」発病の原因は、いじめでも失恋でもない。「阪神大震災をテレビ画面で観て以来、崩壊する恐ろしさ、戦争への恐怖などがどんどん膨らんで、気づいたら、食べられなくなっていた」と。にもかかわらず病院へいくと、「親に愛情をかけてもらえなかったのですね」と医師。「そんなことはない」といくら否定しても、「自分が気づいていないだけで、そうなんだ」と決めつけられた。

話としては、大いにありそうなことだ、と苦笑するようなエピソードだけれど、
この医師にかかった人にとっては、ただでさえ心労激しいところに、
「自分の言うこと」は「摂食障害者の定義」より信頼性が薄いと
面と向かって決め付けられてしまったことはさぞ辛いだろう、と思う。

なぜ「摂食障害者である」ということだけで、
「その人が言うこと」は価値が落ちなければならないのだろうか。
なんとなく怖いのは「摂食障害になんかなった人」に対する否定的な解釈というのが入り込んでしまっているような感じがすることだ。

摂食障害の原因が親子関係にあると考える人が居ることはいいことだろう。
摂食障害の原因が親子関係にある人も実際たくさん居るだろうから。
ただ、実際に摂食障害に悩む人と接していこうとするとき、
そういう分析、解釈がまったく何の役にも立たないと感じる摂食障害者もいるというのは無視していいほどの些事といえるのだろうか?
その人が持ってきた「生きにくさ」というものを
「ああ、それ、親子関係です」と断定して一巻の終わりにしてしまうことが
はたして治療なのだろうか。

このサイトの中で悩みを共有する人の話を聞かせてもらうことができるようになり
それから自分でも意識して資料を調べたりまとめたりするようになって
「確かに摂食障害というのはなにやら不思議な現象である」という思いは深くなった
原因もいろいろだし、治り方もいろいろなのだ
でも不思議なことに症状のバリエーションはそんなに多くない

別の原因で同じ症状が発生するってのは考えていくと結構混乱する
自分が治ったから「よっしゃ、誰にでも効果的なアドバイスできる」なんて思ったら
それこそとんでもないことで、
私は自分で治ったけれども、それでもなお摂食障害のことは本当に何もわからない
自分で治ったからこそ「絶対あなたも治る」という信頼が持てるというだけで
それ以上のこと、その人がどういう治り方をするかということとか
その人の摂食障害の原因が何かということとかは、情けないほど分からない

分からないと人は混乱するし、参ったなあ、と思う
それでも目の前に居る人の苦しみに対してなにかしたい、
と思ったら、たとえ間違っていても何かしてみるしかない
本当に見当違いで情けなくって頭を抱えることもある。
なんとかして摂食障害という現象を全体として捕らえようと思えば
仮説みたいなものを立ててそれを検証していったり、
というアプローチしかしようがないのも事実だと思う
真剣に関わろうと思えば
「見当違いかもしれない」というリスクは避けられないだろう

でも、そういったリスクとは別に私が身構えてしまうのは
「分からない」ということの居心地悪さや不安だけに反応して
「つまりこの人たちは劣っているからこういう異常なことをするんだろう」
と、摂食障害者の存在を自分より下位に置くことで
それを理解できないということから自分のアイディンティティを守る
という試みを、見る側の態度の裏に感じることがあるのだ

理解の壁は、意見が合わないことのうちにあるのではなく
ありのままの相手の存在を軽視してかかることの中にあると思う

ところで冒頭の、阪神大震災をテレビで見てから
「崩壊」とか「戦争」とかが怖くなって食べられなくなった、という話。
ダーっと家やら道路やら、普段自分がそれにたよって生きているものが
一瞬で崩れていくのをありありと見せ付けられて
それで物が食べられなくなる、というのは
それ自体はなんかとっても繊細な反応で、
常軌を逸したところはとくにないんじゃないかと思うし
(ああいう映像って、平気なほうがちょっと危ないくらいじゃないか、
って心のどこかで思わない?)
なんか、そのイメージに対する敏感さ、って
私は本当に単純に、凄い感受性、って思う。


冒頭の文章は阿川佐和子さんのエッセイ集
オドオドの頃を過ぎてもからの引用。
この文中で拒食症がでてくるのは勿論ここだけです。図書館にあったので試しに読んでみた。
阿川さんのエッセイの中でベストとまでは思いませんが普通に楽しめたエッセイです。

2007年04月26日

私は人の哀しみに凄く心惹かれてしまうところがあって
哀しみってというのは本当にユニークで多彩で繊細でオリジナルで
そして、そのうちに明るい方へ向かって伸びていくための種子をすでに含んでいるという点において
感動的で美しいものだなあ、
みたいな、そういう感傷的なことをよく考えている

自分自身の哀しみの出し方のひとつとして
かつて過食、というものがあったわけで
それからもうひとつ、私の意識の中で過食とセットなんだけども
リストカット、というのもやっていた

それらは、今となってはもう終わったものという認識があって
いつ終わったのかというと、自分の身体に対して
「君のことはもう君に任せるから大きくなるなり小さくなるなり好きにしたまえ」
という引導を渡した時点で、身体と食行動は哀しみの表現という役割を終えたと思う

で、過食症を卒業してから考え始めたことのひとつとして
「哀しみっていうのはとても個性的なものだと思うけど
それに対して過食とかリストカットってあんまり個性的じゃなかったなあ」
という疑問が出てきたわけだ

時代はすでに過食もリストカットもごく普通のものになっている
経験者ならちょっと街をあるけば「あ、あの人」と分かる人に出会う。
「若い女の子たちの哀しみの表現としてリストカットや強迫的摂食というものがある」
ということを知らなければ、もしかしたら私は過食もリストカットもしなかったかもしれない

「過食」「リストカット」という定義があることを知って
哀しみを抱えた私が引き寄せられるようにその定義の中にすっと入っていて
そこにぴったり適合してしまった、
つまり哀しみの形の方を世間一般に知られている言葉に合わせてしまったところもあるのかな、
というような意識を、ちょっと持ち始めたのだ

もちろん「過食」「リストカット」などの言葉が受け皿となって
私が哀しみを引き受けるまでのゆりかごの役割をしてくれていたなら
それは大変ありがたいことだ
でもそこにはまり込んでいくことで何か本当の自分の哀しみ以外のものを演じ初めてしまう危険があるなら、それは話をややこしくしてしまうかもしれない

私が摂食障害をやめたあと、その後はどうやって哀しみを表現したのかというと、
実は、片思い、にハマりました
「痩せれば何もかもがうまくいくのに」というのと同じレベルで今度は
「この人に愛されれば何もかもうまくいくのに」という呪文が始まったわけで
ただ、それもさすがに途中で自分としてのオリジナリティが凄く少ない、
ということに気づいて、やめる方向にいくんですけども

結局、その人からわが身を引き離すことも含めて、
生活の中のいくつかの局面を変えようと思っていたので、
えいやっと全部投げ出して再び放浪の旅へ飛び込んでいくわけですが
そのとき、引き止めるならいつでもどうぞ、という未練をありったけこめて彼に言ったのが
「摂食障害者のなれの果てとしてどういう可能性があるか、ちょっと見てくるよ」
ってことであって
それに対して彼がはなむけに言ってくれたの(?)が
「ほんとにあんたの人生ってリセット多いよね」って言葉で^^;

だから私のアイディンティティは「摂食障害」というところをかなり大事にしている
そしてその一方で、摂食障害ってもっと広がりがあって、もっと多彩でオリジナルで
もっと生き生きしていていいんじゃないか、みたいなことも考えていて

なんだか人が作った「摂食障害」という鋳型の中では
収まりきらない凄く元気で手の付けられない摂食障害者とか
そういうのがいたら素敵だな、というか
そういう人たちになろうよ、っていうことを結構思います

2007年04月25日

数十年前の写真を見ると
流行というものが恥ずかしくて笑ってしまうことがある
女の子がアメフトの選手みたいな肩パットを使っていたり
眉がげじげじ唇くっきり、という誇張した七五三みたいなメイクをしていたり
あるいは危うく不潔すれすれなまでにテロンと長い髪を見せびらかしていたり
流行に含まれる成分のうちの大部分のものは
それが去ってしまえば滑稽さと悲哀しか残さないもので
恥ずかしい写真だなとちょっと苦笑いして視界に入らないように遠ざけたりする

もっと視野を広げると苦笑いくらいですまないものも沢山あって
幼女の頃にきつく巻きつけた布で足の成長を止めてしまう中国の纏足は
つま先が壊死したようなその足が恐ろしくてちょっと直視できないし、
今は医療用具にしか使われていないコルセットだって
かつては女性たちが卒倒したり、肋骨を折るほど過激な使い方をしていた、
と聞くとやっぱり怖い
医学的には栄養失調の範疇にはいるほどに痩せたボディの大流行も
いつかは眉をひそめて思い出すほど恐ろしい過去のものになるんだろう

ところで、女性をコルセットから解放したのは
ココ・シャネルだと一般に言われているそうで。
短いスカートやパンタロンなどを作って女性が快適に動けるようにし
コルセットをつけなくても美しく見えるシンプルなデザインを考え出した

・・・というのは実はあわててつけたかなり生半可な知識で
私はシャネルその人にも詳しくないし、
スーツもバックも香水もコスメも全部縁がない。
だから本当にシャネルがコルセットから女性を解放したのかどうかというところは
ちょっと自信を持って言えないところなんだけど、
それでも「シャネルが女性をコルセットから解放した!」って考えるのは
なんとなく希望がある感じで好きだ

道の汚れた雨の日にこんなに長いスカートを引きずって歩くなんてうっとうしいし、
毎朝装着に時間がかかる上に健康に悪いコルセットをしていなくちゃいけないなんて
「あー、女なんて損だ損だ、でもしょうがないっか」
と、誰もが声にも出さず運命と思って諦めていたことを
どこぞのお転婆な帽子屋さんが突然やってきて
黙々とみんなの欲しかったものを作って行き
それが大ウケする、なんて考えると希望いっぱいで楽しい気がする
誰かが目からうろこをパッパッと落とすだけで
「実はあんなこと黙って耐えている必要なかったんじゃーん!」
となる、その展開がとっても嬉しいのだ。
本当はそんなに単純なものでもないのだろうけども。

私が思うのは
「実は痩せてなきゃいけないなんて思う込む必要なかったんじゃーん!」
みたいな目からうろこ革命がぜひ必要だなということで
それももちろん「美しさを諦める」という形で成されるのでなく
ただ「自分にあった美しさを作る」という楽しげな形がいい

「女なんだから痩せたいと思って当たり前」みたいな思い込みの吹き溜まりから
出てくることとか
「美しくなるには努力はつきもの」みたいな文脈の背後にある微妙に自己懲罰的な暗示にバカバカしいっ!と言うとか
うろこは落ちてしまえば、なんでそんなものが目の中に入っていたのか
皆目分からないようなものに違いないと思う

体重計に乗ることも吐くことも病むことも、
どれだけ努力したって「だって彼女デブじゃん」と一言いわれるだけで自分は軽蔑されて当然の人間になりさがるんだとおびえて人生やっていくことも、
どこかの誰かが流行をしかけたピチピチのジーンズに体をあわせるために生活することも、
「楽しいわけないじゃん」と私は思う
「「楽しいわけない」ことがあっても女なんだからしょうがない」っていうのも
何か違うような気がする

誰だって今手にしている条件の中でできるだけ楽しく生きていいわけだし
誰も幸せにならないどころか不幸ばかり作ってしまう「うろこ」ならやっぱりさっさと落ちて腐るべきだし
苦しみってのは大きな声で語られて良いし
欲求も大きな声で語られて良い

痩身の流行が頭の中にはめられてしまったコルセットだと考えると
もうひとりのシャネルが出てきたら何かが起こる。
それも勿論「痩せすぎモデルの体重規制」なんていうような、
そんなつまらない方法じゃなくって
もっともっと楽しく暮らしたい、楽しくたっていいんだ!というような
やっぱり心わくわくするのがいいなって、そういうことを思うのだ

というわけで、今日はのびのびと大風呂敷を広げてみた(笑)
すっきりしました^^

2007年04月24日

嗜癖問題の著名な研究者であり精神科医の斉藤学氏のブログの中に
過食症を抱えるクライアントとのオープンカウンセリングの様子があります

暴力トラウマがあって、今、暴力的な恋人との関係から離れられない、そして過食も治らない。
どこから手をつけたらよいか分からなくなってしまった、という相談内容です
斉藤学とのQ&A

この記事そのものがかなりダイジェスト版で書かれてはいるけれども
これを読んで見事だなあ、と思うのは斉藤学さんは殆ど何も言っていないわけで。
「過食なんてしとけばいいじゃん」
「私もそう思ってました」
「彼とも付き合っとけばいいじゃん」
「いや、別れるって決めました」
「じゃあ、辛いけど頑張りな」
「ありがとうございました」
という、流れとしては殆どこれだけの会話なんです。
目の前にいる人が辛いことを充分にわかった上で
「吐くな、別れろ」と言わずにいられる胆力って
経験に裏付けられて相手の判断力を完全に信頼できているからであって、
凄い平凡なことを言っているけれど、
この方でないといえないんだろうな、というところに迫力を感じます。

「このままじゃいけない」と考えると、混乱しちゃうと思いますよ。物事には、回復が必要な時期とか、そのための手順というものがあるのです。

これを読んで思い出だしたのは
ちょうどこの相談者と似た感じで
私自身にも自分を傷つける男性からも離れられず、
自分に必要な量を超えても食べ物からも離れられない、
という時期がありました。
(→過去記事:大学卒業後のこと

その時にこの「回復に必要な時期と手順」があるということになんとなく気づきはじめて、
それこそ「今必要ならば仕方ない、食べよう」というオーラを背中に背負いながら
開き直って鬼気迫る感じで相当真剣に食べていました。

食べながらかなり深いところにまで降りていったような気がするのは
後で思い出して自分で凄いと思う夢をよく見ていたからで

暗い寒い階段を上っていって(そのとき実際暮らしていた家の階段なのだけど現実よりずっと長かった)途中の踊り場でそこから上れなくなって寒い中でうずくまって泣いている夢とか
これは治るためだ、仕方ない、と思いながらそのとき一番食べたかったパン屋の甘いパンを物凄い数食べている夢とか、
それから、これが一番凄かったのだけど、現実か夢かと、あとで混乱するくらいリアルな近親相姦の夢も見た(その家の中で性的関係を持つことへの生理的レベルでの嫌悪感だったんじゃないかと思う。本当に凄い夢だった)

自分では「仕方ない」と思って心の欲するまま闇雲に食べていただけなのだけど
かなり問題が理路整然としてきていて凄いなあ、と
今となっては感心する夢を沢山見ていた時期でもあります。

回復するってことは、苦しくなることですね。治療に入ってくると、楽になるものではなくて、今までやってた生活に疑問を持ち始めるものだから、混乱するし当惑するし、逃げ場を自分から壊して苦しくなります。逆に言えば、「そういう苦しさを何とかするために、アディクションなどが必要になる」とも言えると思います。

人生の中に何かの症状の必要な時期って確かにあるんじゃないかな、と思います
それがうつなのか過食なのか拒食なのかリストカットなのかアルコール依存になるか、
どういう症状を選ぶかということについては、
それぞれ人となりとの間に何かの必然性はあるんじゃないかなとは思うけれど
それはそんなに単純な話じゃないだろうし、
それについては分からなくてもいいんじゃないかな、という風に思っていて。

ただ必要なのはどういう症状を背負っていても
必要なとき必要なものを取捨選択する知恵が自分には絶対あるのだ、
ということを信じきることで、、
そういう自信がくらっと揺れたときに、この斉藤学さんみたいな
しんどい人を前にして「必要ならやってればいいじゃない」と平然と言う胆力のある人に出会えると、
勇気は出しやすいだろうなあ、というようなことを、
カウンセリングの様子を読んで考えました

2007年04月23日

「食べ過ぎることの意味」の著者ジェニーン・ロスのHPがあります
Geneen Roth
当然英語なんですけども。

読んで役に立ちそうなところは、訳してここに掲載してみようかな、と
思いまして比較的短い記事に取り組んでみたんですが
ジェニーンの言葉から
私、英語が苦手なんですね、どうやら。
今頃気づいてしまいました。
受験英語に散々青春をささげたんですけども、
どうやら片思いだったようです。
散々な訳になってしまいました。
むしろ訳の形をなしていません。

そんなわけで
ここを見て下さっている方で英語がお得意で
ジェニーン・ロスにちょっと興味があって
私の下手な訳を添削してやってもいいよ、
という奇特な方がもしいらっしゃいましたら
お力を貸していただけないでしょうか。

メールにてご一報いただけると嬉しいです

自転車で一人旅をしていたころ
時々知らないお宅で食事に呼んでいただくことがあった
「泊まっていけ」とか「食事をしていけ」とか
初めて会う人に方々で随分親切にしてもらった

食卓の風景として一番印象に残っているのは
ある田舎で酷く腰の曲がったおばあちゃんに朝食によんでもらった時のことだ

太陽と風に長年晒された真っ黒でしわしわの顔をしたおばあちゃんが
朝食を食べていけ、と自転車に乗っていた私を誘ってくれた
たしかおばあちゃんは軽く畑仕事か何かをした後で
少し遅い時間の朝食だったのだ
なんだか心惹かれる楽しげなおばあちゃんで
私は自分で朝食を食べたあとだったのだけど
それでもお邪魔しておばあちゃんの食事にお付き合いした

おばあちゃんの朝食はそれまで見た食卓の中で一番驚くものだった
小さな飯椀によそった白いご飯と
茶色く煮しめたちくわが数きれ
それで全部だった
ちくわはまとめて煮て何日も煮返しながら少しずつ食べているのだろう、
黒く光って見えるほどに色が染みていた
おばあちゃんはにこにことして私に勧めてくれ
自分も同じものを食べ始めた

一人暮らしのおばあちゃんのその家には
どこからともなくもうひとり、お友達のおばあちゃんがやってきて
家の主が食事中なのも気にせずに
勝手にお茶を飲んで芋けんぴをつまみながらおしゃべりを始めた
どちらがその家のおばあちゃんなのか分からなくなるくらい
ふたりとも同じ色に同じ皺の顔をして同じ腰の曲がり具合だった

「私は本当に朝ごはんが美味しくてねえ」と飯椀を抱えたばあちゃんはしみじみと言い、
「それがいい、一番いい」と芋けんぴをつまむばあちゃんは自信ありげにうなづいた。
私は圧倒されたまま小さくまとまった食卓を真剣に見つめ、
ちくわをつまみ、ご飯を食べ、ちくわをつまみ、ご飯を食べした
一膳の白い飯はあっという間になくなった

食後、ふたりは楽しげに茶飲み話に花をさかせており
私はできるだけ丁寧に礼を言って辞し旅の続きに戻った
おばあちゃんは二人とも本当に楽しそうでとても親切だった

煮付けたちくわだけで食べる朝食を「本当に美味しくてねえ」と慈しみ、
その食卓に胸を張って招き入れてくれたあの楽しそうなおばあちゃんを
私は旅から帰っても折々に思い出す
自分のために品数の少ない膳をしつらえることがなんとなく好きになった
あのおばあちゃんに会えてよかったなあ、と
とっても単純に今でも私は思う

2007年04月22日


数日留守にしていたので、ネタ切れ、といいますか
ちょっと頭がボケている状態なので
たまには好きな歌人のご紹介などを。

妻が眼を盗みて飲める酒なればあわて飲み噎(む)せ鼻ゆこぼしつ
足音を忍ばせていけば台所にわが酒の壜は立ちて待ちをる


自分が過食という依存癖を持っていたことに思いをめぐらせると
しみじみと悲しく思われるこのアルコール依存の歌は
旅と酒を愛し酒仙と言われた歌人若山牧水の「合掌」と題されたものです
私は中学生のとき教科書で初めて出会ったころから牧水が好きでした

幾山河(いくやまかわ)越えさり行かば寂しさの果てなむ国ぞ今日も旅ゆく

という歌のぱりっとした青空のような美しい旅と孤独に憧れて
私も寂しさの果てを求めて幾山河越えていきたいと思ったものですが
実際、牧水がこれを詠んだのと同じ歳、齢23の頃には
私も寂しさに突き動かされて闇雲に幾山河越える生活をしていました
どこか遠くの土地に行けば寂しさから開放される理想郷がある気がして
やたらと旅ばかり繰り返してしまう私の癖は
考えてみればこの歌あたりがルーツだったのかもしれません

妻が眼を盗みて飲める酒なればあわて飲み噎せ鼻ゆこぼしつ
足音を忍ばせていけば台所にわが酒の壜は立ちて待ちをる

そしてうって変わってただ暗いこの二つの歌は
42歳、すでに著名な歌人となった牧水が命を落とす前年に
末期のアルコール依存の生活の中で歌ったものです。

酒を飲む機会を狙って家の中で聞き耳を立て
人気のない台所に忍び込んで、おそらくは立ったまま、壜ごと大急ぎで飲む酒
震える手からこぼれた酒が鼻からこぼれていきむせ返る
味も分からず、楽しみもなく、憎んでも離れることができない酒
どうやって絶ったらよいのか、すでに検討もつかなくなってしまった無限の循環。

私がひときわ辛く感じられるのは
「眼を盗みて」「足音を忍ばせて」というところに
いつも人に見つからないように詰め込むようにして食べ
誰かと過ごす時間にも一人になってものを食べることしか頭に浮かばなかった
自分自身の過食症という依存症が思い出されるからで

そういう辛さを思い出すほどに、
この歌人はせめてもう少し楽に、
せめてもう少し救われて亡くなることはできなかったのかと悲しんでしまう
共感というのは不思議な心の動きで
半世紀以上も前になくなったアル中の歌人の死のまぎわの呟きがなんとも言えず悲しい

共感は本当に不思議な心の動きだなあと思う
明らかに、自分には何もできない、とわかっている事柄に対して
とにかく悲しい思いをもち、せめてもう少し楽に、と願う
そういう心の動きが人間には実際にあって
そういう心の機能が人間に備わっている以上は
何もできない、何の役に立たないとしても
それでもやっぱり共感にはなにがしかの意味はあるんじゃないか
なんてことを思っていたいわけで

最近はただそれだけで
このサイトをやっていたりするんです
自分のやってることに、
本当に、まったく自信がないんだけど。

2007年04月18日

長くなったので分けました
大学卒業後のこと1

自分には何の関係もない借金を
長い年月かけて払うというのはとても魅力的な考えだった
自分の人生を犠牲にする、
自分の全てを諦める
全ての点において男を優先し耐え忍ぶ
この男もいつかは気づいて私を真の理解者だと悟るだろう
私は自分のせいではない不幸のために自分の人生を投げ出した功労者になる、
なんという魅力的な考え

結局のところ、私は自分の人生を丸ごと放り出したかったのだ
もういちいち手をつけて改善したり取り組んだりするには
事態はこんがらかりすぎて手に負えないと思った
決して話の通じない男、
根拠の無い悪意、
間に合わせのアルバイト暮らし、
売春婦扱いされること、
好きでもない男と暮らしているという謎の生活、
ここから逃げたっていくところもない、
どのひとつを見ても、まともに取り組むよりは
自分は犠牲になってるんだと思い込んで
丸ごと放り出すほうがずっと楽だった

借金を返すためにもっと働こう、と思ったところで
何の力だったのか、奇跡的に我に返った

この男に仮に感情があって、誰かに罪滅ぼしをしようと思ったら
当然向かう先は別れた奥さんと子どもたちであるべきで
一緒に暮らした家族、育てた子どもに愛情をもてない人間が
たかが借金を払ってもらったくらいでどうして私に愛情をもつ道理があるだろう
せいぜい、いつもどおり「ラッキー」と軽薄に笑うくらいがオチだろう

その壊滅的な生活は
私という人格に価値がないからではなく
男の性格に由来しているのだということに
多分そのとき初めて気づいた
そして気づいてから、それを事実として認めるまではますます苦しい思いをした

この同棲エピソードがどうやって幕を閉じるかといえば
涙ながらに口に食べ物を押し込みながら、なんとかして力を振り絞って、
「この男と今の生活は非常にろくでもなく、完璧に何の価値もない」ということを
数ヶ月の時間をかけてやっと認め、
そうしてただただ過食と失望を抱えてその家から逃げ出したのだ

この男からはまったく何の愛情も同情も憐憫も引き出せないという事実を
完全に受け入れられるようになるまで
別れてから後もさらに数ヶ月、非常におぞましいメールのやりとりがある
愛情のかけらでもせびり取れるなら、この人生を無駄にしたい、と
やっと逃げ出したあとも、失望の中でまだ思っていたのだ

それが自分のためにならないものでも
たとえ不幸しかもたらさないものでも
とにかく今手にしているものを手放すというのは
物凄く勇気とエネルギーがいることだ
まったく害しかない物でさえも
何もないよりはずっとましだと思って
今が辛ければ辛いほどますます強くそれを握り締めてしまう

過食、というのはいつも私にとって
自分のためになるものとためにならないものを
きちんと分けられなくなる心の状態だった
何もないよりはずっとマシじゃないかと思って
自分を傷つけるものを必死に握り締めてしまう
過食、というのはいつも私にとって
そういう心の状態のことだったのだ

症状が出たり、消えたりした私の過食症は
その時々の愛情関係とも密接に関係してきた
愛が満たされるときに過食の症状は収まることがあるし
何かが違う、と思いながら関係を手放す勇気が無いときには、
欲しくもない食べ物を手放す勇気もまたもてないようになる

20代の初めに長野の田舎の古民家を借りて住んでいたことがある
20歳ほど歳の離れた男と一緒だった
借金のある人で、借金から逃げて
長野の山奥に隠れてたところで私と会ったのだ。漫画みたいだけど。
借金が原因で離婚、三人の子どもは実家に置いてきて、
当然養育費も払ってないし、連絡もまったくしていないという
みごとな逃げっぷりだった。

風俗店で店長をしていたのだけど
お店の女の子に手を出してクビになった、とか、
いっぺんに五人の女の子と付き合っていて
そのほかにも奥さんがいたから一週間をどう使っていいのか悩んだ、とか
そういう過去を自慢話だと思っている、
感心するほど人格の破綻した人で
とっても無邪気でありとあらゆることに罪悪感がなかった

ろくでもないなあ、と思うのだけど
世間知らずな私はうまい具合に騙されたのだろうな
言いくるめられて一緒に住んでいて
欲望の処理だけはさせられた
私がアルバイトして生活をみつつ
パチンコ代をあげて酒とタバコを買ってやって
なおかつまったく省みられなかった
まったくもってろくでもない事態だ

「人生で失恋したのは奥さんに振られた一回だけで、
今でも別れた奥さんのことが好き」なのだそうで、
そうなると、私がさせられている性欲の処理と
貢いでいる小遣いと今の生活というのはどう説明つくのか、
という疑問は当然出てくるはずなのだけど
この生活は何なのか、ということを聞くという発想が私には湧かなかったのだ
ただなんとか受け入れてもらわなければならないという
切迫した観念があっただけだ
その人を好きかどうかということも、一度も考えたことがない
ただそうなってたとしか言いようがなかった

そんなにも平気で人を傷つける人を見たことがなかったから
自分の生活に何が起こってるのかが全然わからなかった
理解不能な現状に対してなんとか出した回答は
「私は充分に美人じゃないからだろう」ということだった
自分が受け入れられるに値しないから、受け入れて貰えないのだろうと思った。

その男はパチンコ屋に入り浸りで私はいつも一人だったから
誰にも気づかれずにいつもひとりでもくもくと泣きながら食べた
自分に何が起こってるかわからないけれどとにかく手は食べ物に伸びた

過食に使うお金が惜しかった
いつも行くスーパーの中にはパン屋さんがあって
そこにはたっぷりと生クリームのついた
きらきら砂糖のまぶしてある甘そうな菓子パンがある。
ふわふわ美しく柔らかそうなそれは見るからに慰めを持っていて、
いつも食べたかったのだけど、これは高すぎると思って買えなかった
好きでもない男にやるパチンコ代は惜しくなかったのだ
一度に何万も機会に呑ませるための金をやるのは惜しくなかったのに
ただ、自分のために
欲しい菓子パンを一個買う金は惜しくて、使えなかった
見切り品以上のものを自分が食べる権利があるなんてさらさら思えなかった
受け入れてもらえるほど充分に美しくはない私

もっと努力したいと思った
借金を、私が全部返したら、
そのとき私の存在に気づいてもらえるかもしれない
もっと働こう、と思った

大学卒業後のこと 2へ続きます

2007年04月16日

不美人論
不美人論

実はこの本の中で私が一番感動した部分ってのが
ひところ話題になっていた「ヤマンバギャル」たちについて語られてる部分なのです。
とりあえず引用

ブスの苦悩とか、そこからくる必死さみたいなものが、遊びに昇華されてる感じがあるから、見てても痛くないんだよね。ほんとヤマンバって画期的だった。ブスの側から強引に、美の新しい基準を提唱したわけでしょ?”きれいを拒否”というより、”新しいきれいをつくった”のよね。ブスが自分にロマンをもつ方法を自分で考え出したってことよ。ブスって普通の美の基準じゃヒロインになんて決してなれないからさ。ヤマンバはブスが自分たちの手で自分を主人公にした素晴らしい事件だと思う。

「えーっ!そういうことだったの?」って私感動しちゃって(笑)

実際のところは、分からないんだけどね。
私はテレビで殆どキタナイモノ扱いで取り上げられてるのしか見たことなくて、
ついぞ生で見かけないまま、あまり話題にならなくなってしまったし、
語っている藤野さんもヤマンバやっていた年じゃないだろうから、
ヤマンバが本当のところ何を意図していたのかは、
やっていた人たちに聴かなければわからないのだろうけど、
でも引用文にあるとおり、殆どの女性が動かし難いものとして耐え忍んできた美の階級秩序を内側から陽気に破壊する試みだったとしたら、フェミニズムを超える快挙だよね。
なんか、摂食障害者たちもこういうパワフルでユーモラスで斬新なムーブメント起そうよ、
とか思って涙ぐんじゃった(笑)

この本の根底を流れている思想の一つして
自分に不利なゲームに翻弄されてはいけない
っていうのがある。

摂食障害について言えば、例えば社会の中には「痩せてれば痩せてるほど良い」というヒエラルキー( 階層制)も実際あるかもしれない
そして摂食障害の人はその階級社会の中で自分は不利な位置にいると認識してるかもしれない
「でも、そのヒエラルキーの中だけで戦わなきゃいけない、ってのは誰が決めたの?」
と聴かれると・・・・
うーん、フェミニズムの答えでは「社会から押し付けられたんです」とか「母親の教育です」とかになってしまうけど、
でも、もともと自由って「与えられるもの」じゃなくて「手に入れるもの」だしね。

「痩せてれば痩せてるほど良い」っていう美の秩序(自分の頭の中にだけある架空の秩序である可能性も結構高いと思うけど)がキツければ
その舞台のほかに別の舞台で生きることを考えてみるっていう選択肢もあっていいんじゃないだろうか。

あと、これは完全に本から離れてしまった私の見解なのだけど
何かが短所に思えるとき、ってその特性がそもそも劣ってるんじゃなくて
それを置く舞台が間違ってるんだよね。
くるっと舞台取り替えると今まで最悪の短所だったものが最高の長所になるわけじゃない。
私にとっては摂食障害も、あれだけ悩んだからこそ
今は一番の共感の力とか創造力の源とかになってるわ