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2007年04月30日

ジェニーン・ロスのHPからピックアップした記事の翻訳です
→元記事:In Geneen's Own Words
日本ではジェニーンの本は二冊しか読めないのですが
もっと知りたい人と共有できれば思い、できる範囲で読んでいきます。

この翻訳はなによりさよのご協力のおかげでできたものです。
翻訳作業を楽しいものにしてくださったこと、心から感謝します。

他にも協力をしてくださるとおっしゃってくださる方もいて、
今回の記事はちょっと都合があわず縁がありませんでしたが、声をかけていただいて嬉しく思いました。
また機会があったらぜひお願いします。

なお一文だけ、どうしても文脈のつながらないところがありました
わけのわからない日本語にするよりは、と訳さずに抜かしてしまいました。
記事の中の(※)となっている部分に一文入ります。
本サイトを読んで、意味の分かる方いらっしゃいましたら、ぜひ教えてくださいませ。

読者様のご協力により、解決しました^^。ありがとうございます。


次は→インタビュー記事を読もうと思っています。
一緒に読んでくださる方、いらっしゃいましたらご一報ください。
今回の記事よりは易しいようです。

掲載した訳はまだ完成ではありません。
いつでも修正してできるだけ正しいものに近づけますのでお気づきのところありましたら教えてください。

ジェニーンロスの言葉

私がダイエットをやめたのは、今まで自分がやってきたことのなかで、
過食こそが最もまともな行為なのではないかとふと感じたからでした。
もし仮に過食を否定しなくていいとすれば、
もしくは、きちんとしようとか、適切な食事や適切なボディサイズ等の外部基準に合わせようとしなくていいとすれば、
または、仮に(食べているものとか、食べている時の気分とか、1ホールすべて口に詰め込んでやろうとアイスケーキにがっついていたあの10分前の行為の直前に、自分に何が起きたのかといった)
過食行為の色んな側面に関心を抱き、それをオープンにすれば、
食べるという行為自体を通じて、その依存行動を引き起こした感情や考え方や不安に
立ち返ることができるかもしれないと思ったのです。
いったん食べ物を何のために利用していたかを理解すると、
私は過食と言う方法で自分を傷つけることなく、
自分の望みをかなえるもっといい方法があるのじゃないかと自分に問いかけてみるようになりました。


ある晩、ピザを丸ごと1枚とチーズケーキ3個、ポテトチップス1袋と特大サイズのかぼちゃアイスを食べた後、いつものように
「こんなことするなんて、まるでブタじゃないの、自分をコントロールできなくて、救いようがないわ」
とうだうだ考えるかわりに、私はペンを持って腰を下ろしました。
30分ほどたって感情の中心部に差しかかると
(ちなみに用いていたのは「記述式追求」と呼んでいる方法です)、
「スリム」が「対人関係」を意味するものだと自分で思い込んでいるのに気がつきました。
今まで私が人間
(磨きをかけてやるのに何年もかかるくせに、私の費やした努力の成果をいつも私以外の誰かに向けるという、まるで壊れた車みたいな男たち)選びではなく
「計画」選びにばかり目を向けてきたのだとすると、私は人と関わりたくなかったのではないでしょうか。自分の中で「スリム」とストレスフルな「対人関係」が同義になってしまっていたからこそ、
私は私自身を守るために食べ続けていたのです。
こう思っていました--太っていればつまらない人間に見えるから誰も近寄ってこないですむ、
ショボいフォルクスワーゲンのビートルみたいな男すら近づいてこないですむ、と。

「デブ」と「一人になれること」の間に作り上げていた関連性を理解するようになると、
無理して食べる量を減らすこともなくなりました。
自覚と冷静な観察がそうさせたのです。
ピザを丸ごと食べ、一度に一万カロリーも詰め込むことはもはや魅力的に感じられなくなりました。
意志の力は使いませんでした。
自分を恥じることもしませんでした。
クッキーを食器棚に入れ、鍵を近所の人に預けることもありませんでした。
ピザをゴミ箱に放り込み、カビの生えたカッテージチーズで覆い隠したりもしませんでした。
ひとたび、食行動の中に、混乱しているとはいえ、とにかく知恵が存在することに気づくと、それはどんどんはっきりしたものになっていきました。
ダイエットも強制も必要なかったのです。
それはまるで、30年間暗くてかびくさい部屋に住んでいて、誰かが突然明かりをつけたような感じでした。
光が存在しないと信じていた過去には戻れないのです。


一番驚いたのはこの私でした。
それまで太い足とコントロールの効かない食欲を抱えて人生をとぼとぼと歩いていくしかないと信じ込んでいたほかならぬこの私です。
本当の奇跡は私が体重を減らしたことでも、人生最大の問題がなくなってしまったことでもない、奇跡的なのは摂食障害という形で表現された私の切実な願いはいつも正しく目的にかなったことだったのに、それに耳を傾け、注意深くなる術を知らなかったということなのです。
強迫的な食行動は、見当違いなところはあったとは言え、人生を精一杯生きる上での勇気ある試みだったのです。

光に向かって伸びていく植物のように、私は自分の心の中の光に向かっていく部分も信じることができました。
いちばん望んでいたのは、人生を丸ごと生きることだったのです。
自分に強制したり、操作しようとしたり、ダメだと決め付けたり、嫌ったりを繰り返したのは、自分はどう変わるべきか知っていて、どうすれば変われるか知っていると信じこんでいたからなのです。

私は蝶になる日が来るかもしれないなんてことを考えもせずに、美しくも強くもやせてもいない自分を恥じながら17年間を過ごしたいも虫みたいなものでした。

結局、摂食障害から解放されるというのは、苦しみ、悲しみ、憎しみ、苦悩の向こうに何か別のものが存在していると信じること、そして私たちの中に光の方へむかっていく自然の力が秘められているということを信じるということなのです。

先日書いたマリ・クレールダイエットスペシャルに関する記事について
「ダイエットやめたらヤセちゃった」の夏目祭子さんがブログで取り上げてくださいました。
「マリ・クレール」特集に見えた女性誌の限界の部分

夏目祭子さんはマリ・クレールのこの特集にコラムを寄せていらっしゃるので
「編集部さんとしがらみとかあったりしないんですか?」
と、出版業界を全然知らない私は世間知らずな感じでご心配申し上げるのですが、
私の書いた批判的意見も大筋を受け入れてくださってます。
私には大変心強いこと。

さて、先日も書いたとおりおよそ女性誌というものをじっくり読んだのは久しぶりで
モードファッションはそれなりに楽しんで見たのですが、
やっぱりモデルの女性たちは無機質なほど痩せているし、しみもしわもないのが目につくなあ、と改めて感じました。
こういう写真と自分を比べるとなんだか変な不安を呼び覚まされます。

だけど私がちょっと思ったのは、
あれって女性誌の方も引っ込みつかなくなっちゃってるんじゃないでしょうかね。
女性たちがいつダイエットをやめたらよいのか分からなくなってしまってるのと呼応して、
女性誌もモデルを痩せさせていくことに、もうブレーキを掛けられなくなってるんじゃないか、っていう気もします。
「だって痩せたモデルはウケるんだもん」という、にわとりたまご状態になってしまってるところってきっとあるわけですよね。

本当に色々な身体を持った女性たちが、モデルに似ていないことを恥じることなく
堂々と魅力的に街を闊歩して、劣等感を持っていない女性が巷に溢れていけば
女性誌もそれについてこないわけにはいかなくなるだろうし。
みんな女性誌の後をついていくのを止めて、女性誌の先行っちゃえばいいんですよね。

流行にはかならずゆり戻しがあって、
ロングヘアが流行った後は必ずショートカットの時代が来るとか、
暗い色が流行ったあとは、明るい色がくるとか、
スカートが長くなったあとは、また短くなるとか、
そういうのは必ずあるわけで、
限界まで痩せた理想は、あとはどう考えたって太っていくしか選択肢はないわけですが、
女性誌についていかなきゃ行けない限り、どっちみち永遠に不安です。

もう女性誌にドナドナされるのはやめた方がいいだろうなあ、と
マネキンによく似た質感の肌の美女たちを見ながら思ったことです。

そんなわけで、ここ「ダイエットをやめて自由になる」が提唱するトレンドは
”モードの先行く美女”でございます。

2007年04月29日

実は・・・
ここだけの話なんですが・・・

自分が痩せていると感じるときって
「太ってたっていいじゃん、個性的に生きようぜ!」
って言うのは凄くたやすいんだけど
太っていると感じる時には
「太ってたっていいじゃん、個性的に生きようぜ!」
って言うのは格段に難しい

面白いと思いませんか?
この海より深い矛盾は何(笑)

何をしているか、何を考えているか、ということとは別に
太っているというのはそれだけで痩せているよりも傷つきやすくなる
なにを成し遂げたって「だってあいつはデブだ」と言われれば
それだけで自分が積み上げた「意味」というものが
全部ガラガラと崩れてしまうという漠然とした不安を抱えながら私たちは生きていて
とにかく、「デブ」といわれないようにしてからでないと
何をしても、いかなる努力を積んでも無駄なのだ、という思いがついてまわる。

「ダイエットをやめよう!」と叫ぶために
ダイエットが必要になるなんて
そんな馬鹿なことあるかい?

女性たちがますます多くダイエットに傷ついて疲れても
ダイエットは流行るばかりで廃れないのは
おそらくこの理由ではないだろうか
「痩せてからでないと、痩せる必要がないなんて言えやしない!」

だからそうなのだ
「ダイエットにだけとらわれているばかばかしい人生なんて真っ平御免」
と思っても
痩せて受け入れられるようになってからでないと、
今居る場所から出てこられないと感じる
ダイエットなんてやめるべき、と思っても
「とりあえず痩せてからじゃないとダイエットはやめられない」
「全てはあと五キロ痩せたら取り組もう」と思う

摂食障害は社会の風潮だけの問題ではないと私は思っている
同じ社会の中に居ても、ある人は摂食障害になり、ある人はならない
そして社会は変わってないのに、治った人は沢山いる
社会は直接の原因ではないと私は考えるし
「生きていくうえで、悩みをどう悩むか」
ということの一つの形が摂食障害で
だから摂食障害から解放されるというのは
つまり「悩みを正面から悩む勇気にいたる」ということじゃないか
と私は思っているのだけど

そうは言っても
このばかばかしいルールはどうしてばかばかしいにも関わらず君臨し続けるのか、
という疑問は残る
たとえば
太っている人を蔑視することが恥ずかしいという意識が殆どない社会
たとえば
誰も望んでいないにも関わらず「美の理想」が勝手にどんどん細くなっていってしまう社会
それはなぜ、ばかばかしいとすら言われないのか?

それは
女性自身が加担してしまっているから、ではないか
私のように、「痩せる必要がないと言うにもダイエットが必要」と
ひるむような女性たち自身が、苦しみをを跳ね返さずに
むしろすり寄ってしまうのだ

ジェニーン・ロスが自分のワークショップの中で自著を朗読するとき
かならずリクエストの出る文章があるという
それは「君はあまりにも太りすぎて魅力にかけていると思うよ」と語るボーイフレンドのミカエルに対して
ジェニーンが、「これはあなたの問題であって、私の問題ではない」と言い放ったという体験を書いた部分
(注:「あなたの問題」という言葉の意味は、文章全体から推測するに、批難というものはその人が自分自身を受け入れらないでいることの反映である、という意味だと思われます。)

彼女たちは、私がミカエルに、穏やかでありながら決して曖昧な物言いではなく、「消えてちょうだい」と告げたことが嬉しいのです。君は太りすぎだね、といわれることがどのようなことであるのか、彼女たちにはわかっているからです(「食べ過ぎることの意味」より引用)

まったくそうなんです。
君は太りすぎだね、といわれることがどのようなことであるか
私たちにはよくわかってるんです。
(極端に標準体重をオーバーしたことなどない人でも、これはわかっている)
だからおびえて閉じこもるし
おびえなかったジェニーンの武勇伝が嬉しいのです

さて、もう一度、問い
どうしてばかばかしい痩身崇拝社会は廃れないか

「太ってる」と馬鹿にする人に対して、
ジェニーンのようにきちんと不快感を表す勇気が私たちにはないから。
「太っている」という人に毅然とした態度で応酬することを考えるよりも
「太っている」といわれないように自分を変えるほうがたやすいと感じるから。

さて
あと五キロ痩せるのを辛抱強く待つように
私たちは社会が変わるのを待つのだろうか
太っている、といって馬鹿にされないですむという保障がとれたら
ダイエットの暗い淵から出てくることができるのか

「社会が変わる」というのはどういうことなんだろうかということを
実はヤマンバギャルの話(過去記事:不美人論レビュー2)や
シャネルの話(過去記事:シャネル革命)を書きながら考えていた
この痩身崇拝社会が変わるというのは
肥満を蔑視していた人が悔い改めて差別をやめるということではなく
私たちが不快なことを言われたときに、公平で適切な態度を取れるようになる

という、私たち自身のことではないだろうか
自由は与えられるものではなく手に入れるものだと私は思う
そして自由はただではないかもしれない

私たちがダイエットしながら待っていたら社会が変わるわけではない
もっと安全にうけいれられるために、もっともっともっと細くなることを望むのをやめて
自分を傷つける人とは戦う権利があるのだと認識しなければならないのではないだろうか

ダイエットでは何も変わらない
ダイエットでは痩身崇拝は終わらないし
ダイエットでは私たちは幸せにならない

(b^∇゚)

ではみなさん、練習しましょう。
もしも体型に拘る差別主義者に出会ってしまった時の対処法です
パターン1 「身体のこと言われるのは傷つくから、もう止めて」
パターン2 「人の脂肪しか見えないのはあんたの理解能力がその程度のものだからよっ!」

もう少し気の効いたのが思いついたらお知らせください
みんなで使いましょう。

愛の寓意


ブロンズィーノというイタリアの作家の作品
「マニエリスム」という分類になる画家なんですけども
どういう意味かというと「理屈っぽい」っていうことみたいですね。

この絵はとんでもない絵だよなあ、と思うけども
一度見るとどうしてもじーっと長時間凝視してしまう
絵の中に謎かけ的に色々描きこまれている仕掛けが面白い、
というのも勿論あるけれども
それより、もう、単純に衝撃的なのです

ちょっとここで紹介するのが恥ずかしいのは
これ私にとっては本当にエロチカに見えて
あの、見るとわりと素直にどきどきします(笑)
だって、なんかもう凄いでしょ、色々。
たぶんリアクションとしてはそれで正解で
「愛と時のアレゴリーAn Allegory (Venus, Cupid, Time and Folly)」
というややこしいタイトルがついていて
謎の多い神話的小道具がたくさん書き込まれているのは
おそらくその辺の興奮を緩和して
これを神話をめぐる芸術にとどめておくための措置だと思われます

(余談ですが昔渡辺淳一さんの「失楽園」が売れに売れたときに
どこかの評論家さんが「あれはポルノ小説は恥ずかしくて買えないサラリーマンたちが喜んで買ったんだ」と書いていたのが妙に合点がいっておかしかったのを覚えてるんですけど、古今東西そういうカラクリって芸術の世界ではいっぱい起こってますよね。
とくにヌードに注目して絵画を見てると本当にそう思います)

真実の顔.jpg

この一見わかりにくい絵の一般的な解釈とされているのは
美術史家エルヴァン・パノフスキーという人の分析です
中央の女性がウェヌス(美の神ビーナス)
それに絡む少年がクピド(キューピッド)
不気味な微笑みで薔薇の花びらを投げつけようとしている子どもは快楽をあらわし、
右上の青いベールを剥ごうとしている老人は「時」の意味、
左上の人は時の娘である「真実」を表すんですが、
この真実さん、実はよく見ると仮面で目と頭骨がないんです。
少年の影で頭抱えてる老婆が嫉妬
子どもの後ろの無表情な少女は、
左右の手がそれぞれ逆についていて、下半身は尻尾という化け物ですが
「欺瞞」を現しているそうです。

ぜんぜんわけがわかりませんが
主題としては、時がヴェールを脱いで
愛の中の色々なものをあらわにしている、
という絵であるらしいです。

bronzino_amore4.jpg

ちなみに今まで知らなかったのですが
ビーナスとキューピットは親子だそうですね
その時代官邸ではやっていた貴婦人と小姓との恋愛遊戯を
暗示するようです

これは色々変なところがある絵なので
どの部分から目が離せなくなってしまうのか、
というのが、一種の心理テストみたいにもなりうるくらい
じゃないかって思いますけど
私はやっぱり少年のクピドが気になって仕方ないんですよ
なんでこんなに身体がねじれて歪んでるんだろう
二人の人間を切ってつなぎ合わせてるんじゃないかってほど
背骨と首のあたりが不自然ですよね。
このデッサン間違えたんじゃないか、という落ち着かないラインに対して
澁澤龍彦が衝撃的なことを書いています

「この姿勢を見てごらん。尻をうしろに突き出して、あられもない格好をしているじゃないか。あえていえば射精寸前、もうたまらないと腰を引いた感じだ」
bronzino_amore3.jpg

ひえーっ、と思ったんですけど
そう思ってみると、また絵が全然違うものに見えてくるから
やっぱり作家は凄いこと考えますね。
あとは澁澤は右手が乳首をはさむように包んでいることも
エロティックなディティールとして注目してますけど
むしろ私は左手がそっと頭を抱くように髪に添えられていることの方が
エロスを感じます。
この辺は男性が見るポイントと女性の見るポイントなのかもしれないなあ
と思うと、面白いですよね、すれ違いっぷりが。

bronzino_amore2.jpg

あと私は後ろで頭かかえている嫉妬さんにも非常に共感を持ちますね。
私も愛の後ろの暗いところでよく頭抱えたなあ、とか思って(笑)

どうでしょうか、どのあたりが気になってしまうか、凝視してみてくださいませ。

さて、最後にあわてて女性のボディサイズの問題にだけちょっと戻っておきますと
この絵が描かれたのが 1503-1572、盛期ルネサンスとバロックの合間くらいです。
理想は痩せて胸が小さく腹の出た女性のボディが理想とされた時代から
肥満が官能と奢侈の象徴としてもてはやされていくその境くらいの感じでしょうか。
何か非常に人を惑わされるものとして描かれている女性の身体です


※参考図書
澁澤龍彦著裸婦の中の裸婦


愛の寓意

2007年04月28日

「痩せ方はあなたの”脳”にきめさせる」

この文句は、マリ・クレール六月号のダイエットスペシャルの見出しです。

marie claire (マリ・クレール) 2007年 06月号 [雑誌]
marie claire (マリ・クレール) 2007年 06月号 [雑誌]

実は私、痩身崇拝は自分を不幸にすると思ったあたりから
女性誌という情報からは意識的に遠ざかっていたし、
もともと読むほうでもなかったので、今まで買ったことなかったのですが、
今回はこの記事を読むために初めて買いました。
マリ・クレール・デビュー。

脳がハッピーになると女は美しくなる。だからダイエットに必要なのは
カロリー計算ではなく幸せ感なのだ、とこの記事は言います。
似非科学チックな聞き捨てならない言葉が沢山出てはくるものの、
まあ、ここまでの大筋はわかります。

「輝く体には理由がある!あのセレブに倣う、プラネット・ボディの作り方とは?」

という見出しつきで全身写真入りで掲載されているの七人の女性たちは、
土屋アンナ、SHIHO、神田うの、山田優、篠原涼子、知花くらら、道端ジェシカ。
(実は私このうち二人しか知らなかったんですけど、えへ)

彼女たちは皆日常的に気持ちよく体を動かす習慣があって、
それによって幸福感を感じるため、脳が良いバランスに保たれている。
その結果美しいボディが作り上げられているのだ!という解説が入っています。

さて倣うべき模範として挙げられている女性たちは
何を犠牲にしても、まず要求される美を自在に体現できる存在であることが最優先される世界に生きる人たちであり、おそらくその世界のトップ七人ですよね。
今痩せていることが流行しているから彼女たちは痩せているのであって、
もし流行のボディサイズがもっと大きくなったら
彼女たちはそれにあわせて太らなければならないでしょう。
流行という舞台で美を売る彼女たちが、
ただ脳のバランスが良いからというだけで
偶然痩せている、なんてことがあるんでしょうか。

そもそも私たちに必要なのは「生きるための美」であって
ショービジネスの世界の「見せるための美」、
いわば「お伽話としての美」とは
まったく違うのじゃないかと思うんですが、
なぜ私たちが彼女たちに倣うのでしょうか。
あの、大胆なドレスを着るための身体、
強烈なライトに照らされるための身体、
遠くから大勢の人に見られるための身体、
人を魅了するために動くための身体、
あの観賞用の身体を手にして、私たちが一体何をするんでしょうか。

女性の身体というのは通常お尻と腰まわりに脂肪がつきます。
だからマリ・クレールが推奨する「セレブたち」は
標準的な女性の身体とはいえないでしょう。
脳がハッピーになったからといって、
そういう遺伝子的に決まっている身体つきまでが果たして変わるでしょうか?

そしてさらにこの記事の中の小見出しの中の文言はこうあります。

「美ボディとハッピー脳は比例する!」

・・・大いに意義があります。
なぜなら、「ボディの見た目」と「ハッピー」を結びつける発想には
ハッピーなら痩せているはずだという暗示、
痩せているならハッピーなはずだという暗示、
痩せればハッピーになるという暗示、
が感じられるからです。
そして、これはマリ・クレールの推奨するようなモデルや女優に近いボディを持っていない人(この世に生きる女性の大部分)に、
不安感、自己嫌悪、罪悪感を押し付けるようにも思えるからです。

私が神田うのみたいじゃないからといって「脳がハッピーじゃない」なんて
言われる筋合いは全然ありません。

実は今回のダイエット特集の中には
前にこのサイトで紹介した「ダイエットやめたらヤセちゃった―アンチダイエット・スリミングの魔法 」の紹介があり、
そのご縁でこの記事について知ったのです。
私は「ダイエットをやめたらヤセちゃった」は興味深い本だと思います。
でもマリ・クレールには賛成できません。

女性は痩せるために幸せになるんじゃありません。
見られるために生きるんじゃありません。
他の誰かみたいになるために自分を変えるんじゃありません。

生き生きと生きるために身体と心があるんだと、私は思います。

2007年04月27日

摂食障害とは何の関係もないエッセイの中で
ちょっと興味深い文章をみつけました

もと拒食症だったという二十代の女性に会った。スタイルもセンスも抜群の現代的な女性に思われるが、「まだ精神的には不安定なんです。」発病の原因は、いじめでも失恋でもない。「阪神大震災をテレビ画面で観て以来、崩壊する恐ろしさ、戦争への恐怖などがどんどん膨らんで、気づいたら、食べられなくなっていた」と。にもかかわらず病院へいくと、「親に愛情をかけてもらえなかったのですね」と医師。「そんなことはない」といくら否定しても、「自分が気づいていないだけで、そうなんだ」と決めつけられた。

話としては、大いにありそうなことだ、と苦笑するようなエピソードだけれど、
この医師にかかった人にとっては、ただでさえ心労激しいところに、
「自分の言うこと」は「摂食障害者の定義」より信頼性が薄いと
面と向かって決め付けられてしまったことはさぞ辛いだろう、と思う。

なぜ「摂食障害者である」ということだけで、
「その人が言うこと」は価値が落ちなければならないのだろうか。
なんとなく怖いのは「摂食障害になんかなった人」に対する否定的な解釈というのが入り込んでしまっているような感じがすることだ。

摂食障害の原因が親子関係にあると考える人が居ることはいいことだろう。
摂食障害の原因が親子関係にある人も実際たくさん居るだろうから。
ただ、実際に摂食障害に悩む人と接していこうとするとき、
そういう分析、解釈がまったく何の役にも立たないと感じる摂食障害者もいるというのは無視していいほどの些事といえるのだろうか?
その人が持ってきた「生きにくさ」というものを
「ああ、それ、親子関係です」と断定して一巻の終わりにしてしまうことが
はたして治療なのだろうか。

このサイトの中で悩みを共有する人の話を聞かせてもらうことができるようになり
それから自分でも意識して資料を調べたりまとめたりするようになって
「確かに摂食障害というのはなにやら不思議な現象である」という思いは深くなった
原因もいろいろだし、治り方もいろいろなのだ
でも不思議なことに症状のバリエーションはそんなに多くない

別の原因で同じ症状が発生するってのは考えていくと結構混乱する
自分が治ったから「よっしゃ、誰にでも効果的なアドバイスできる」なんて思ったら
それこそとんでもないことで、
私は自分で治ったけれども、それでもなお摂食障害のことは本当に何もわからない
自分で治ったからこそ「絶対あなたも治る」という信頼が持てるというだけで
それ以上のこと、その人がどういう治り方をするかということとか
その人の摂食障害の原因が何かということとかは、情けないほど分からない

分からないと人は混乱するし、参ったなあ、と思う
それでも目の前に居る人の苦しみに対してなにかしたい、
と思ったら、たとえ間違っていても何かしてみるしかない
本当に見当違いで情けなくって頭を抱えることもある。
なんとかして摂食障害という現象を全体として捕らえようと思えば
仮説みたいなものを立ててそれを検証していったり、
というアプローチしかしようがないのも事実だと思う
真剣に関わろうと思えば
「見当違いかもしれない」というリスクは避けられないだろう

でも、そういったリスクとは別に私が身構えてしまうのは
「分からない」ということの居心地悪さや不安だけに反応して
「つまりこの人たちは劣っているからこういう異常なことをするんだろう」
と、摂食障害者の存在を自分より下位に置くことで
それを理解できないということから自分のアイディンティティを守る
という試みを、見る側の態度の裏に感じることがあるのだ

理解の壁は、意見が合わないことのうちにあるのではなく
ありのままの相手の存在を軽視してかかることの中にあると思う

ところで冒頭の、阪神大震災をテレビで見てから
「崩壊」とか「戦争」とかが怖くなって食べられなくなった、という話。
ダーっと家やら道路やら、普段自分がそれにたよって生きているものが
一瞬で崩れていくのをありありと見せ付けられて
それで物が食べられなくなる、というのは
それ自体はなんかとっても繊細な反応で、
常軌を逸したところはとくにないんじゃないかと思うし
(ああいう映像って、平気なほうがちょっと危ないくらいじゃないか、
って心のどこかで思わない?)
なんか、そのイメージに対する敏感さ、って
私は本当に単純に、凄い感受性、って思う。


冒頭の文章は阿川佐和子さんのエッセイ集
オドオドの頃を過ぎてもからの引用。
この文中で拒食症がでてくるのは勿論ここだけです。図書館にあったので試しに読んでみた。
阿川さんのエッセイの中でベストとまでは思いませんが普通に楽しめたエッセイです。

2007年04月26日

私は人の哀しみに凄く心惹かれてしまうところがあって
哀しみってというのは本当にユニークで多彩で繊細でオリジナルで
そして、そのうちに明るい方へ向かって伸びていくための種子をすでに含んでいるという点において
感動的で美しいものだなあ、
みたいな、そういう感傷的なことをよく考えている

自分自身の哀しみの出し方のひとつとして
かつて過食、というものがあったわけで
それからもうひとつ、私の意識の中で過食とセットなんだけども
リストカット、というのもやっていた

それらは、今となってはもう終わったものという認識があって
いつ終わったのかというと、自分の身体に対して
「君のことはもう君に任せるから大きくなるなり小さくなるなり好きにしたまえ」
という引導を渡した時点で、身体と食行動は哀しみの表現という役割を終えたと思う

で、過食症を卒業してから考え始めたことのひとつとして
「哀しみっていうのはとても個性的なものだと思うけど
それに対して過食とかリストカットってあんまり個性的じゃなかったなあ」
という疑問が出てきたわけだ

時代はすでに過食もリストカットもごく普通のものになっている
経験者ならちょっと街をあるけば「あ、あの人」と分かる人に出会う。
「若い女の子たちの哀しみの表現としてリストカットや強迫的摂食というものがある」
ということを知らなければ、もしかしたら私は過食もリストカットもしなかったかもしれない

「過食」「リストカット」という定義があることを知って
哀しみを抱えた私が引き寄せられるようにその定義の中にすっと入っていて
そこにぴったり適合してしまった、
つまり哀しみの形の方を世間一般に知られている言葉に合わせてしまったところもあるのかな、
というような意識を、ちょっと持ち始めたのだ

もちろん「過食」「リストカット」などの言葉が受け皿となって
私が哀しみを引き受けるまでのゆりかごの役割をしてくれていたなら
それは大変ありがたいことだ
でもそこにはまり込んでいくことで何か本当の自分の哀しみ以外のものを演じ初めてしまう危険があるなら、それは話をややこしくしてしまうかもしれない

私が摂食障害をやめたあと、その後はどうやって哀しみを表現したのかというと、
実は、片思い、にハマりました
「痩せれば何もかもがうまくいくのに」というのと同じレベルで今度は
「この人に愛されれば何もかもうまくいくのに」という呪文が始まったわけで
ただ、それもさすがに途中で自分としてのオリジナリティが凄く少ない、
ということに気づいて、やめる方向にいくんですけども

結局、その人からわが身を引き離すことも含めて、
生活の中のいくつかの局面を変えようと思っていたので、
えいやっと全部投げ出して再び放浪の旅へ飛び込んでいくわけですが
そのとき、引き止めるならいつでもどうぞ、という未練をありったけこめて彼に言ったのが
「摂食障害者のなれの果てとしてどういう可能性があるか、ちょっと見てくるよ」
ってことであって
それに対して彼がはなむけに言ってくれたの(?)が
「ほんとにあんたの人生ってリセット多いよね」って言葉で^^;

だから私のアイディンティティは「摂食障害」というところをかなり大事にしている
そしてその一方で、摂食障害ってもっと広がりがあって、もっと多彩でオリジナルで
もっと生き生きしていていいんじゃないか、みたいなことも考えていて

なんだか人が作った「摂食障害」という鋳型の中では
収まりきらない凄く元気で手の付けられない摂食障害者とか
そういうのがいたら素敵だな、というか
そういう人たちになろうよ、っていうことを結構思います

2007年04月25日

数十年前の写真を見ると
流行というものが恥ずかしくて笑ってしまうことがある
女の子がアメフトの選手みたいな肩パットを使っていたり
眉がげじげじ唇くっきり、という誇張した七五三みたいなメイクをしていたり
あるいは危うく不潔すれすれなまでにテロンと長い髪を見せびらかしていたり
流行に含まれる成分のうちの大部分のものは
それが去ってしまえば滑稽さと悲哀しか残さないもので
恥ずかしい写真だなとちょっと苦笑いして視界に入らないように遠ざけたりする

もっと視野を広げると苦笑いくらいですまないものも沢山あって
幼女の頃にきつく巻きつけた布で足の成長を止めてしまう中国の纏足は
つま先が壊死したようなその足が恐ろしくてちょっと直視できないし、
今は医療用具にしか使われていないコルセットだって
かつては女性たちが卒倒したり、肋骨を折るほど過激な使い方をしていた、
と聞くとやっぱり怖い
医学的には栄養失調の範疇にはいるほどに痩せたボディの大流行も
いつかは眉をひそめて思い出すほど恐ろしい過去のものになるんだろう

ところで、女性をコルセットから解放したのは
ココ・シャネルだと一般に言われているそうで。
短いスカートやパンタロンなどを作って女性が快適に動けるようにし
コルセットをつけなくても美しく見えるシンプルなデザインを考え出した

・・・というのは実はあわててつけたかなり生半可な知識で
私はシャネルその人にも詳しくないし、
スーツもバックも香水もコスメも全部縁がない。
だから本当にシャネルがコルセットから女性を解放したのかどうかというところは
ちょっと自信を持って言えないところなんだけど、
それでも「シャネルが女性をコルセットから解放した!」って考えるのは
なんとなく希望がある感じで好きだ

道の汚れた雨の日にこんなに長いスカートを引きずって歩くなんてうっとうしいし、
毎朝装着に時間がかかる上に健康に悪いコルセットをしていなくちゃいけないなんて
「あー、女なんて損だ損だ、でもしょうがないっか」
と、誰もが声にも出さず運命と思って諦めていたことを
どこぞのお転婆な帽子屋さんが突然やってきて
黙々とみんなの欲しかったものを作って行き
それが大ウケする、なんて考えると希望いっぱいで楽しい気がする
誰かが目からうろこをパッパッと落とすだけで
「実はあんなこと黙って耐えている必要なかったんじゃーん!」
となる、その展開がとっても嬉しいのだ。
本当はそんなに単純なものでもないのだろうけども。

私が思うのは
「実は痩せてなきゃいけないなんて思う込む必要なかったんじゃーん!」
みたいな目からうろこ革命がぜひ必要だなということで
それももちろん「美しさを諦める」という形で成されるのでなく
ただ「自分にあった美しさを作る」という楽しげな形がいい

「女なんだから痩せたいと思って当たり前」みたいな思い込みの吹き溜まりから
出てくることとか
「美しくなるには努力はつきもの」みたいな文脈の背後にある微妙に自己懲罰的な暗示にバカバカしいっ!と言うとか
うろこは落ちてしまえば、なんでそんなものが目の中に入っていたのか
皆目分からないようなものに違いないと思う

体重計に乗ることも吐くことも病むことも、
どれだけ努力したって「だって彼女デブじゃん」と一言いわれるだけで自分は軽蔑されて当然の人間になりさがるんだとおびえて人生やっていくことも、
どこかの誰かが流行をしかけたピチピチのジーンズに体をあわせるために生活することも、
「楽しいわけないじゃん」と私は思う
「「楽しいわけない」ことがあっても女なんだからしょうがない」っていうのも
何か違うような気がする

誰だって今手にしている条件の中でできるだけ楽しく生きていいわけだし
誰も幸せにならないどころか不幸ばかり作ってしまう「うろこ」ならやっぱりさっさと落ちて腐るべきだし
苦しみってのは大きな声で語られて良いし
欲求も大きな声で語られて良い

痩身の流行が頭の中にはめられてしまったコルセットだと考えると
もうひとりのシャネルが出てきたら何かが起こる。
それも勿論「痩せすぎモデルの体重規制」なんていうような、
そんなつまらない方法じゃなくって
もっともっと楽しく暮らしたい、楽しくたっていいんだ!というような
やっぱり心わくわくするのがいいなって、そういうことを思うのだ

というわけで、今日はのびのびと大風呂敷を広げてみた(笑)
すっきりしました^^

2007年04月24日

嗜癖問題の著名な研究者であり精神科医の斉藤学氏のブログの中に
過食症を抱えるクライアントとのオープンカウンセリングの様子があります

暴力トラウマがあって、今、暴力的な恋人との関係から離れられない、そして過食も治らない。
どこから手をつけたらよいか分からなくなってしまった、という相談内容です
斉藤学とのQ&A

この記事そのものがかなりダイジェスト版で書かれてはいるけれども
これを読んで見事だなあ、と思うのは斉藤学さんは殆ど何も言っていないわけで。
「過食なんてしとけばいいじゃん」
「私もそう思ってました」
「彼とも付き合っとけばいいじゃん」
「いや、別れるって決めました」
「じゃあ、辛いけど頑張りな」
「ありがとうございました」
という、流れとしては殆どこれだけの会話なんです。
目の前にいる人が辛いことを充分にわかった上で
「吐くな、別れろ」と言わずにいられる胆力って
経験に裏付けられて相手の判断力を完全に信頼できているからであって、
凄い平凡なことを言っているけれど、
この方でないといえないんだろうな、というところに迫力を感じます。

「このままじゃいけない」と考えると、混乱しちゃうと思いますよ。物事には、回復が必要な時期とか、そのための手順というものがあるのです。

これを読んで思い出だしたのは
ちょうどこの相談者と似た感じで
私自身にも自分を傷つける男性からも離れられず、
自分に必要な量を超えても食べ物からも離れられない、
という時期がありました。
(→過去記事:大学卒業後のこと

その時にこの「回復に必要な時期と手順」があるということになんとなく気づきはじめて、
それこそ「今必要ならば仕方ない、食べよう」というオーラを背中に背負いながら
開き直って鬼気迫る感じで相当真剣に食べていました。

食べながらかなり深いところにまで降りていったような気がするのは
後で思い出して自分で凄いと思う夢をよく見ていたからで

暗い寒い階段を上っていって(そのとき実際暮らしていた家の階段なのだけど現実よりずっと長かった)途中の踊り場でそこから上れなくなって寒い中でうずくまって泣いている夢とか
これは治るためだ、仕方ない、と思いながらそのとき一番食べたかったパン屋の甘いパンを物凄い数食べている夢とか、
それから、これが一番凄かったのだけど、現実か夢かと、あとで混乱するくらいリアルな近親相姦の夢も見た(その家の中で性的関係を持つことへの生理的レベルでの嫌悪感だったんじゃないかと思う。本当に凄い夢だった)

自分では「仕方ない」と思って心の欲するまま闇雲に食べていただけなのだけど
かなり問題が理路整然としてきていて凄いなあ、と
今となっては感心する夢を沢山見ていた時期でもあります。

回復するってことは、苦しくなることですね。治療に入ってくると、楽になるものではなくて、今までやってた生活に疑問を持ち始めるものだから、混乱するし当惑するし、逃げ場を自分から壊して苦しくなります。逆に言えば、「そういう苦しさを何とかするために、アディクションなどが必要になる」とも言えると思います。

人生の中に何かの症状の必要な時期って確かにあるんじゃないかな、と思います
それがうつなのか過食なのか拒食なのかリストカットなのかアルコール依存になるか、
どういう症状を選ぶかということについては、
それぞれ人となりとの間に何かの必然性はあるんじゃないかなとは思うけれど
それはそんなに単純な話じゃないだろうし、
それについては分からなくてもいいんじゃないかな、という風に思っていて。

ただ必要なのはどういう症状を背負っていても
必要なとき必要なものを取捨選択する知恵が自分には絶対あるのだ、
ということを信じきることで、、
そういう自信がくらっと揺れたときに、この斉藤学さんみたいな
しんどい人を前にして「必要ならやってればいいじゃない」と平然と言う胆力のある人に出会えると、
勇気は出しやすいだろうなあ、というようなことを、
カウンセリングの様子を読んで考えました

2007年04月23日

「食べ過ぎることの意味」の著者ジェニーン・ロスのHPがあります
Geneen Roth
当然英語なんですけども。

読んで役に立ちそうなところは、訳してここに掲載してみようかな、と
思いまして比較的短い記事に取り組んでみたんですが
ジェニーンの言葉から
私、英語が苦手なんですね、どうやら。
今頃気づいてしまいました。
受験英語に散々青春をささげたんですけども、
どうやら片思いだったようです。
散々な訳になってしまいました。
むしろ訳の形をなしていません。

そんなわけで
ここを見て下さっている方で英語がお得意で
ジェニーン・ロスにちょっと興味があって
私の下手な訳を添削してやってもいいよ、
という奇特な方がもしいらっしゃいましたら
お力を貸していただけないでしょうか。

メールにてご一報いただけると嬉しいです

自転車で一人旅をしていたころ
時々知らないお宅で食事に呼んでいただくことがあった
「泊まっていけ」とか「食事をしていけ」とか
初めて会う人に方々で随分親切にしてもらった

食卓の風景として一番印象に残っているのは
ある田舎で酷く腰の曲がったおばあちゃんに朝食によんでもらった時のことだ

太陽と風に長年晒された真っ黒でしわしわの顔をしたおばあちゃんが
朝食を食べていけ、と自転車に乗っていた私を誘ってくれた
たしかおばあちゃんは軽く畑仕事か何かをした後で
少し遅い時間の朝食だったのだ
なんだか心惹かれる楽しげなおばあちゃんで
私は自分で朝食を食べたあとだったのだけど
それでもお邪魔しておばあちゃんの食事にお付き合いした

おばあちゃんの朝食はそれまで見た食卓の中で一番驚くものだった
小さな飯椀によそった白いご飯と
茶色く煮しめたちくわが数きれ
それで全部だった
ちくわはまとめて煮て何日も煮返しながら少しずつ食べているのだろう、
黒く光って見えるほどに色が染みていた
おばあちゃんはにこにことして私に勧めてくれ
自分も同じものを食べ始めた

一人暮らしのおばあちゃんのその家には
どこからともなくもうひとり、お友達のおばあちゃんがやってきて
家の主が食事中なのも気にせずに
勝手にお茶を飲んで芋けんぴをつまみながらおしゃべりを始めた
どちらがその家のおばあちゃんなのか分からなくなるくらい
ふたりとも同じ色に同じ皺の顔をして同じ腰の曲がり具合だった

「私は本当に朝ごはんが美味しくてねえ」と飯椀を抱えたばあちゃんはしみじみと言い、
「それがいい、一番いい」と芋けんぴをつまむばあちゃんは自信ありげにうなづいた。
私は圧倒されたまま小さくまとまった食卓を真剣に見つめ、
ちくわをつまみ、ご飯を食べ、ちくわをつまみ、ご飯を食べした
一膳の白い飯はあっという間になくなった

食後、ふたりは楽しげに茶飲み話に花をさかせており
私はできるだけ丁寧に礼を言って辞し旅の続きに戻った
おばあちゃんは二人とも本当に楽しそうでとても親切だった

煮付けたちくわだけで食べる朝食を「本当に美味しくてねえ」と慈しみ、
その食卓に胸を張って招き入れてくれたあの楽しそうなおばあちゃんを
私は旅から帰っても折々に思い出す
自分のために品数の少ない膳をしつらえることがなんとなく好きになった
あのおばあちゃんに会えてよかったなあ、と
とっても単純に今でも私は思う

2007年04月22日


数日留守にしていたので、ネタ切れ、といいますか
ちょっと頭がボケている状態なので
たまには好きな歌人のご紹介などを。

妻が眼を盗みて飲める酒なればあわて飲み噎(む)せ鼻ゆこぼしつ
足音を忍ばせていけば台所にわが酒の壜は立ちて待ちをる


自分が過食という依存癖を持っていたことに思いをめぐらせると
しみじみと悲しく思われるこのアルコール依存の歌は
旅と酒を愛し酒仙と言われた歌人若山牧水の「合掌」と題されたものです
私は中学生のとき教科書で初めて出会ったころから牧水が好きでした

幾山河(いくやまかわ)越えさり行かば寂しさの果てなむ国ぞ今日も旅ゆく

という歌のぱりっとした青空のような美しい旅と孤独に憧れて
私も寂しさの果てを求めて幾山河越えていきたいと思ったものですが
実際、牧水がこれを詠んだのと同じ歳、齢23の頃には
私も寂しさに突き動かされて闇雲に幾山河越える生活をしていました
どこか遠くの土地に行けば寂しさから開放される理想郷がある気がして
やたらと旅ばかり繰り返してしまう私の癖は
考えてみればこの歌あたりがルーツだったのかもしれません

妻が眼を盗みて飲める酒なればあわて飲み噎せ鼻ゆこぼしつ
足音を忍ばせていけば台所にわが酒の壜は立ちて待ちをる

そしてうって変わってただ暗いこの二つの歌は
42歳、すでに著名な歌人となった牧水が命を落とす前年に
末期のアルコール依存の生活の中で歌ったものです。

酒を飲む機会を狙って家の中で聞き耳を立て
人気のない台所に忍び込んで、おそらくは立ったまま、壜ごと大急ぎで飲む酒
震える手からこぼれた酒が鼻からこぼれていきむせ返る
味も分からず、楽しみもなく、憎んでも離れることができない酒
どうやって絶ったらよいのか、すでに検討もつかなくなってしまった無限の循環。

私がひときわ辛く感じられるのは
「眼を盗みて」「足音を忍ばせて」というところに
いつも人に見つからないように詰め込むようにして食べ
誰かと過ごす時間にも一人になってものを食べることしか頭に浮かばなかった
自分自身の過食症という依存症が思い出されるからで

そういう辛さを思い出すほどに、
この歌人はせめてもう少し楽に、
せめてもう少し救われて亡くなることはできなかったのかと悲しんでしまう
共感というのは不思議な心の動きで
半世紀以上も前になくなったアル中の歌人の死のまぎわの呟きがなんとも言えず悲しい

共感は本当に不思議な心の動きだなあと思う
明らかに、自分には何もできない、とわかっている事柄に対して
とにかく悲しい思いをもち、せめてもう少し楽に、と願う
そういう心の動きが人間には実際にあって
そういう心の機能が人間に備わっている以上は
何もできない、何の役に立たないとしても
それでもやっぱり共感にはなにがしかの意味はあるんじゃないか
なんてことを思っていたいわけで

最近はただそれだけで
このサイトをやっていたりするんです
自分のやってることに、
本当に、まったく自信がないんだけど。

2007年04月18日

長くなったので分けました
大学卒業後のこと1

自分には何の関係もない借金を
長い年月かけて払うというのはとても魅力的な考えだった
自分の人生を犠牲にする、
自分の全てを諦める
全ての点において男を優先し耐え忍ぶ
この男もいつかは気づいて私を真の理解者だと悟るだろう
私は自分のせいではない不幸のために自分の人生を投げ出した功労者になる、
なんという魅力的な考え

結局のところ、私は自分の人生を丸ごと放り出したかったのだ
もういちいち手をつけて改善したり取り組んだりするには
事態はこんがらかりすぎて手に負えないと思った
決して話の通じない男、
根拠の無い悪意、
間に合わせのアルバイト暮らし、
売春婦扱いされること、
好きでもない男と暮らしているという謎の生活、
ここから逃げたっていくところもない、
どのひとつを見ても、まともに取り組むよりは
自分は犠牲になってるんだと思い込んで
丸ごと放り出すほうがずっと楽だった

借金を返すためにもっと働こう、と思ったところで
何の力だったのか、奇跡的に我に返った

この男に仮に感情があって、誰かに罪滅ぼしをしようと思ったら
当然向かう先は別れた奥さんと子どもたちであるべきで
一緒に暮らした家族、育てた子どもに愛情をもてない人間が
たかが借金を払ってもらったくらいでどうして私に愛情をもつ道理があるだろう
せいぜい、いつもどおり「ラッキー」と軽薄に笑うくらいがオチだろう

その壊滅的な生活は
私という人格に価値がないからではなく
男の性格に由来しているのだということに
多分そのとき初めて気づいた
そして気づいてから、それを事実として認めるまではますます苦しい思いをした

この同棲エピソードがどうやって幕を閉じるかといえば
涙ながらに口に食べ物を押し込みながら、なんとかして力を振り絞って、
「この男と今の生活は非常にろくでもなく、完璧に何の価値もない」ということを
数ヶ月の時間をかけてやっと認め、
そうしてただただ過食と失望を抱えてその家から逃げ出したのだ

この男からはまったく何の愛情も同情も憐憫も引き出せないという事実を
完全に受け入れられるようになるまで
別れてから後もさらに数ヶ月、非常におぞましいメールのやりとりがある
愛情のかけらでもせびり取れるなら、この人生を無駄にしたい、と
やっと逃げ出したあとも、失望の中でまだ思っていたのだ

それが自分のためにならないものでも
たとえ不幸しかもたらさないものでも
とにかく今手にしているものを手放すというのは
物凄く勇気とエネルギーがいることだ
まったく害しかない物でさえも
何もないよりはずっとましだと思って
今が辛ければ辛いほどますます強くそれを握り締めてしまう

過食、というのはいつも私にとって
自分のためになるものとためにならないものを
きちんと分けられなくなる心の状態だった
何もないよりはずっとマシじゃないかと思って
自分を傷つけるものを必死に握り締めてしまう
過食、というのはいつも私にとって
そういう心の状態のことだったのだ

症状が出たり、消えたりした私の過食症は
その時々の愛情関係とも密接に関係してきた
愛が満たされるときに過食の症状は収まることがあるし
何かが違う、と思いながら関係を手放す勇気が無いときには、
欲しくもない食べ物を手放す勇気もまたもてないようになる

20代の初めに長野の田舎の古民家を借りて住んでいたことがある
20歳ほど歳の離れた男と一緒だった
借金のある人で、借金から逃げて
長野の山奥に隠れてたところで私と会ったのだ。漫画みたいだけど。
借金が原因で離婚、三人の子どもは実家に置いてきて、
当然養育費も払ってないし、連絡もまったくしていないという
みごとな逃げっぷりだった。

風俗店で店長をしていたのだけど
お店の女の子に手を出してクビになった、とか、
いっぺんに五人の女の子と付き合っていて
そのほかにも奥さんがいたから一週間をどう使っていいのか悩んだ、とか
そういう過去を自慢話だと思っている、
感心するほど人格の破綻した人で
とっても無邪気でありとあらゆることに罪悪感がなかった

ろくでもないなあ、と思うのだけど
世間知らずな私はうまい具合に騙されたのだろうな
言いくるめられて一緒に住んでいて
欲望の処理だけはさせられた
私がアルバイトして生活をみつつ
パチンコ代をあげて酒とタバコを買ってやって
なおかつまったく省みられなかった
まったくもってろくでもない事態だ

「人生で失恋したのは奥さんに振られた一回だけで、
今でも別れた奥さんのことが好き」なのだそうで、
そうなると、私がさせられている性欲の処理と
貢いでいる小遣いと今の生活というのはどう説明つくのか、
という疑問は当然出てくるはずなのだけど
この生活は何なのか、ということを聞くという発想が私には湧かなかったのだ
ただなんとか受け入れてもらわなければならないという
切迫した観念があっただけだ
その人を好きかどうかということも、一度も考えたことがない
ただそうなってたとしか言いようがなかった

そんなにも平気で人を傷つける人を見たことがなかったから
自分の生活に何が起こってるのかが全然わからなかった
理解不能な現状に対してなんとか出した回答は
「私は充分に美人じゃないからだろう」ということだった
自分が受け入れられるに値しないから、受け入れて貰えないのだろうと思った。

その男はパチンコ屋に入り浸りで私はいつも一人だったから
誰にも気づかれずにいつもひとりでもくもくと泣きながら食べた
自分に何が起こってるかわからないけれどとにかく手は食べ物に伸びた

過食に使うお金が惜しかった
いつも行くスーパーの中にはパン屋さんがあって
そこにはたっぷりと生クリームのついた
きらきら砂糖のまぶしてある甘そうな菓子パンがある。
ふわふわ美しく柔らかそうなそれは見るからに慰めを持っていて、
いつも食べたかったのだけど、これは高すぎると思って買えなかった
好きでもない男にやるパチンコ代は惜しくなかったのだ
一度に何万も機会に呑ませるための金をやるのは惜しくなかったのに
ただ、自分のために
欲しい菓子パンを一個買う金は惜しくて、使えなかった
見切り品以上のものを自分が食べる権利があるなんてさらさら思えなかった
受け入れてもらえるほど充分に美しくはない私

もっと努力したいと思った
借金を、私が全部返したら、
そのとき私の存在に気づいてもらえるかもしれない
もっと働こう、と思った

大学卒業後のこと 2へ続きます

2007年04月16日

不美人論
不美人論

実はこの本の中で私が一番感動した部分ってのが
ひところ話題になっていた「ヤマンバギャル」たちについて語られてる部分なのです。
とりあえず引用

ブスの苦悩とか、そこからくる必死さみたいなものが、遊びに昇華されてる感じがあるから、見てても痛くないんだよね。ほんとヤマンバって画期的だった。ブスの側から強引に、美の新しい基準を提唱したわけでしょ?”きれいを拒否”というより、”新しいきれいをつくった”のよね。ブスが自分にロマンをもつ方法を自分で考え出したってことよ。ブスって普通の美の基準じゃヒロインになんて決してなれないからさ。ヤマンバはブスが自分たちの手で自分を主人公にした素晴らしい事件だと思う。

「えーっ!そういうことだったの?」って私感動しちゃって(笑)

実際のところは、分からないんだけどね。
私はテレビで殆どキタナイモノ扱いで取り上げられてるのしか見たことなくて、
ついぞ生で見かけないまま、あまり話題にならなくなってしまったし、
語っている藤野さんもヤマンバやっていた年じゃないだろうから、
ヤマンバが本当のところ何を意図していたのかは、
やっていた人たちに聴かなければわからないのだろうけど、
でも引用文にあるとおり、殆どの女性が動かし難いものとして耐え忍んできた美の階級秩序を内側から陽気に破壊する試みだったとしたら、フェミニズムを超える快挙だよね。
なんか、摂食障害者たちもこういうパワフルでユーモラスで斬新なムーブメント起そうよ、
とか思って涙ぐんじゃった(笑)

この本の根底を流れている思想の一つして
自分に不利なゲームに翻弄されてはいけない
っていうのがある。

摂食障害について言えば、例えば社会の中には「痩せてれば痩せてるほど良い」というヒエラルキー( 階層制)も実際あるかもしれない
そして摂食障害の人はその階級社会の中で自分は不利な位置にいると認識してるかもしれない
「でも、そのヒエラルキーの中だけで戦わなきゃいけない、ってのは誰が決めたの?」
と聴かれると・・・・
うーん、フェミニズムの答えでは「社会から押し付けられたんです」とか「母親の教育です」とかになってしまうけど、
でも、もともと自由って「与えられるもの」じゃなくて「手に入れるもの」だしね。

「痩せてれば痩せてるほど良い」っていう美の秩序(自分の頭の中にだけある架空の秩序である可能性も結構高いと思うけど)がキツければ
その舞台のほかに別の舞台で生きることを考えてみるっていう選択肢もあっていいんじゃないだろうか。

あと、これは完全に本から離れてしまった私の見解なのだけど
何かが短所に思えるとき、ってその特性がそもそも劣ってるんじゃなくて
それを置く舞台が間違ってるんだよね。
くるっと舞台取り替えると今まで最悪の短所だったものが最高の長所になるわけじゃない。
私にとっては摂食障害も、あれだけ悩んだからこそ
今は一番の共感の力とか創造力の源とかになってるわけで、
やっぱり、何かを生かしきれないのだったら、その何かを殺してしまうんじゃなくて
舞台を変えることを考えた方がいいんじゃないかって
それはすごく、思うのね。

あと、ついでだからあまり脈絡ないけど、もうひとつ「美人論」語っていいですか。
最近、「美人の女医」っていうふれこみで売っているタレントさんがいるでしょう。
あの方も、造作は目を引くところってとくに無いよね。
身なりがきれいで、お金もちで、インテリです、って言う流れでなんとなくついでに「美人」ってなってしまってる感じで。
なんか、あれでいいんだよね(笑)
美人になりたいな、って思ったら自分で「私は美人です」と思い込んで色々工夫すれば
うまく行けば周りも結構勢いに飲まれて「美人」として扱ってくれるわけだし
失敗したら、舞台変えて別の演出すればいいんだしね。
林真理子さんみたいな「美人になりたいキャラ」で魅力を認められる人もいるわけだし。
本当に、自分に不利なゲームに翻弄されてはいけないって思う。

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レビュー2

不美人論
不美人論

全然期待しないで読んだのだけど、色々なレベルで面白かった。
「ブス」という苦悩を哲学的な観点から一般化して語る、という面白さ。
ああ、哲学ってそういうことだったのか、と
この年になって始めて思いました。
ブスの苦悩、ニーチェ言うところのルサンチマン(不条理感や恨み)、でございます。

ちなみになぜここで不美人論の紹介か、というと
ダイエットに足をすくわれて動けなくなる、というのと
美醜の問題に足をすくわれて動けなくなることと
多分根っこは同じだろうな、と思ったので
(要するにありのままでは社会に受け入れてもらえない、という意識があって
なおかつその原因が自分の側にあるような気がしている、という共通点)
ゆえにここで紹介です。

この本は西研さんという哲学者さんと、
藤野美奈子さんという漫画家さんの対談の形で進んでいくのですが
藤野さんが、「ブス」という立場でお話をしています。
若い頃の林真理子さんみたいな感じですね。
ブスだと、とりあえずコミュニケーションの扉を開いてもらえない、とか
就職が不利とか、美人と露骨に差別される、とか
そういう話がたくさん出るのですが
実はいきなりだけど、それについては私はあんまりピンとこない

容姿に対して酷いこと言ったりする人ってのは実際いるけれど
それが美醜の階級による差別なのかどうか、って客観的に判断できないですよね。
(ブスだと思ってない人に対して「ブス」って言うことも可能なわけで、
言われた人がたまたま自分をブスだと思っていればそれは美醜の階級差別として認識されるけど、自分をブスだと思ってなければ単なる悪口なわけだしね)

ちょっと身の回りを考えると
美しさに手間隙かけない女性っていうのはたくさんいるけど
先天的なブスだな、って感じる女性って、ちょっと思いつかないものだから
なんていうのか、絶対的に明白な美醜の階級、というのが
存在するのかどうかという、この本の根本的なところに私はクエスチョンがあったりします

美醜って物質的に恵まれている現代日本においては
ほぼ後天的な問題だ、という気がしませんか?
私自身のことで言えば、自分が美人じゃないことは明白なんだけども、
それは単に美人というコードに興味がないからだと思っていて(楽天家だね^^)
だから、いつでもその気になれば
「なんとかして細身の身体になって(←ここで摂食障害になるんだけどサ)
髪の毛巻いて、まつげひっくり返して、アイメイクいっぱいして、
パステルカラーの身体のラインの出る服を着て、
胸のあたりからキャミソールのレース見せて
かかとの細い靴履いて、いい匂いさせて
ナントカ君って意外と指細いのねえ、とか言って男の子に軽くボディタッチして歩けばOK」
とか思ってたんだけど、
違うの(笑)?ズレてる?

ただ、なんだろ、私はそういう美人コードにちょっと興味をもって
まずボディに関心が集中して摂食障害やって、苦しみ終わってそこから出てきたから
私はあんまり顔の美醜の問題って考えなかったのかもしれないね
あれがボディより顔の方により興味があったら
「私は先天的にブスでいくら努力しても人から受け入れてもらえない」
っていう穴に落ちていたかもしれない

だから私はこの本に書いてあるより美醜はずっと主観的だと信じていて、
だから基本スタンス自体はこの本とずれてしまってるんだけど

(この辺の物質的な豊かさと美醜の問題については
もとは美の競争は一部の特権的な人々のゲームだったのに
社会が豊かになったことで皆が参加するようになって
ブスも不利なゲームに泣く泣く参加せざるを得なくなった、
っていうのが藤野さんの主張です。)

でもそのあたりの根本のところをとりあえずちょっと脇においてしまっても
それでもまだ面白かったのですよ、この本

ぼくたちは美醜の中で苦しんだり悩んだりして生きているわけで、それから切り離して自分がいるわけではないでしょ。「じゃあどうやってその中を生きていけば良いのか」という問題は考えられなければならない。「女性を美醜で評価してはいけない」の一言で片付けたら思考放棄になる。

長くなるから次回へ続きます。

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レビュー1
レビュー2

2007年04月15日

「やせたい」に隠された心―摂食障害から回復するための13章
「やせたい」に隠された心―摂食障害から回復するための13章

実はこの本のように「家族」という文脈の中で摂食障害を解説されることが
私は若干苦手だったりする

私にとっては過食というのは今になってみれば最高にプライベートな行為として理解してるので
「家族」というコミュニティで共有されてしまうことそのものに抵抗を感じる
というのがひとつと

自分は治るために家族と理解しあおうとすることをあきらめた、
という負い目のようなものが多少あって、それが少々痛むのだ

この本のように家族一丸となって苦しい思いをして乗り越えて
みんなが変わって分かり合えるようになり、摂食障害も治りました、
というストーリーだと美談なのだけど、
私のように、本人は治ったけれど家族同士連絡もない状況です、となると
「この親不孝者がっ」と言われるのがオチで
勿論、考え方の違う人からその人の価値観なりの非難を受けてしまうというのは
致し方ないことではあるけれど
自分の中にも「誰にオシメ変えてもらったと思ってるんだ!」という価値観が
ちゃんと内在化されてあるものだから、
やっぱりそのあたりはチクチクとして痛いものが残る

だからこの本のような「家族療法」的なものは
羨ましいとは言わないけれど
本当にひと家族がまるまる変わるなんてことが可能なのか、と
それは本当に奇跡をみるような不思議な気がしてしまうのだ

それに、家族が変わるよりも
摂食障害を持っている本人が「家族を諦める」方が楽なんじゃないないか、
という想いもあって、でも、それを考えると
再び「誰にオシメ変えてもらったと思ってるんだ!」が出てきて頭を抱えてしまうわけだけど
私にとって「家族」というのは重すぎて持ちきれなかった荷物なのだ

私が過食症を始めたころは、一人暮らしを始めていたし親との交流も殆どなかったので
両親の前で過食をしたことはないのだけど
それでも手首を切ってわざわざ見せにいったり
薬を飲んで朦朧とした状態でわざわざ実家に行ってみたり
という奇妙な行動は何度かしていたから
「もうちょっとぎりぎりで身体張ったら分かってくれるかな?」というような
なかなか諦め切れない気持ちのようなものは当時持っていたのだと思う

結局私が治っていくステップというのは
両親や恋人を諦めて、摂食障害を誰のためにしてるものでもなく
完全に自分のものとして受け止めたあたりから始まるのだし
どれだけ身体を張っても、
「人をコントロールして理解させるように仕向ける」
というのは無理だと、分かってしまってからの方が楽だった

この本の著者は摂食障害のカウンセラーで
摂食障害の家族の交通整理をとてもうまくやっている
本人がうまく伝えきれない部分については
受け止め方を両親に対して伝えてくれる、それで治っていくケースが多くある

だけど摂食障害に苦しむ人のうち
何人くらいがこんなうまい交通整理をできる人に出会えるんだろう
そして凄腕交通整理員に出会えなかった人たちは
一度タイミングの狂ってしまった交差点の真ん中でどうしたらいいんだろう

そういうことを考えると
「家族」という中で摂食障害を掘り下げていくよりも
「自分」の中で掘り下げていくことの方が
現実的なのかな、とおもうところがある

それでも、この本の摂食障害のに向かう姿勢、
「過食が生き辛さから心を守ってくれるんだ」という症状の捕らえ方、
摂食障害を持つ本人たちの「言葉」をとことん聴こう、とする信頼、
というベースに流れるものは、もちろん深い共感を感じる。

2007年04月14日

摂食障害真っ盛りだった大学生の頃
精神科の薬を貰ったりしながら、
特によくなる見込みもなかったある年の秋に突然
「ああ、この冬は越せないな」と思った

当時月一万五千円の貸間に住んでいた
部屋に日が射すのは朝の30分間くらいで
20センチ程度の幅の光の帯が差し込むだけだった
冬になると日差しはもっと弱くなる
部屋の中はもっともっと四六時中暗くて寒くなる
「この冬が終わる前にきっと自殺するだろうな」と思った


そう思うと、その暗い部屋で
意気消沈したノイローゼの学生として死ぬのが急に嫌だと思った
もっと綺麗なところ、広いところ、未知の場所で、太陽の下で死にたい

持っていた大きなザックにテントと寝袋をつめて
それ以外の荷物は捨てて部屋を引き払った
帰らないと思ったけれど、
授業料が掛からないように一応大学には休学届けを出した
手元には半期分の授業料だけが残った
ちょっとした額だ
もうすぐ死ぬのだとすれば贅沢なくらいの金額

一番遠くまで行く飛行機に乗った
日本の最北端から、最南端へ移動したら
まだ季節は夏だった

自分の身長を超えるザックを担いで一日中歩いた
一週間で膝を痛めて歩けなくなった
仕方ないのでホームセンターで2万円のマウンテンバイクを買って
ザックを荷台にくくりつけて自転車で旅を続けた
ぐんぐん寒くなっていく季節の中で
その日寝る場所を見つけ
水と食料の確保を心配することが思いのほか忙しく
「死ぬ場所探し」はなんとなく先延ばしになっていった

日本列島を何ヶ月もかけて北上するうちに
クリスマスも正月も過ぎて
春になっていた
気づいたら菜の花が咲いている

菜の花を見たときに、もう大学へ帰ろう、と思った
結局死なないまま冬を越えてしまったのだから
帰って学業を終えよう、と思った

帰ってみたらなんとなく摂食障害は治まっていた
その頃は、なんだか分からないうちに治まったものなので
しばらく潜伏期間を経て、また生活の歯車が狂いだした時には
同じ症状に再び会うのだけど
とにかくそのときは摂食障害は忘れたまま卒論を書き上げて無事卒業した

これはもちろん
「死ぬ気になればなんでもできる」
というドコンジョー系の話ではなくて
「半年以内に死ぬ」と決めてしまった時の
それまで出会ったことのなかった気楽さの話だ

米を買えなくて小麦粉を焼いて食べるほどの貧乏生活だったけど
半年で死ぬと思えば、なんでもできるだけの金は持っていたのだ
半年で死ぬと思えば、我慢は辞めて、良い思いをしてから死のうと思うものだ
ずっとずっと先の心配をしなくていいと思えば
生活は軽くて楽しいものなのだ

私は刹那的になる習慣が全然なかった
先のために我慢して現在の生活を犠牲にすることが
どういうわけだか美徳として頭の中にインプットされてしまっていた
「いつかの日のための努力」まみれの暮らしの中で
「半年以内に死ぬ」という発想のどれだけ力強かったことか

だから今でも思うのだけど
ずっと生きていこう、老後の心配もしよう、と思うと
とてもじゃないけど人生なんて怖くてやっていられないのだけど
「とりあえず、この先三年生きることを考えよう」
くらいのリズムなら、結構なんとか背負いきれるのだ

それから
「最悪駄目なら自殺だってできるから大丈夫」という
おまじないの呪文も実は大切に持ち続けていて
だから私は結構好きなことができるようになった

この先が三年であれば、
やっぱり人生は間違いなく「今」が大切だ

淋しい女(ひと)は太る
淋しい女は太る

1988年に日本で出版されている摂食障害をテーマとした一般向けの本で、
タイトルが流行語にもなったベストセラーですが
今読むと時代物、という気がします。

作者は男性の臨床心理士(カウンセラー)です。
男性が摂食障害を分析するときの独特の思い込みのようなものが反映されているなあ、
と私は感じるのですね。
成熟拒否とか、母親との関係とか、女性性の確立への不安とか
筆者の方から積極的に摂食障害の人たちに向かって
架空の「少女性」を押し付けているんじゃないのかなあ、
と思うようなことが書いてあったりして、私には少々居心地の悪い解釈です。

割と面白いのは、この本の中に入っている内田春菊さんの四コマ漫画と挿絵です。
内田春菊さんの方が筆者さんより摂食障害のことをよく理解していると思えて
かなりこの本の流れを救っています。

中でもとっても興味深かった四コマ漫画があります。
(せっかくの漫画を文字だけで拾ってしまうという無粋をお許しくださいませ。)
漫画の中で春菊さんがこんな台詞を書いているんですね。
「私、思うんだけど
過食症や拒食症になるくらいなら、
オナニーでもしていた方がいいんじゃないのかなあ」

これ、男性が描いていたら嫌だなと思うかもしれないのですが
内田春菊さんが描いているのでとても面白かったんですね。
根底に「愛に似たものを拾い集めてしまう心理」への共感があるからだと思います。
私は面白い発想だなあ、と思って感心してしまいました

たしかに
「あー、くさくさする、今日はオナニーでもしてさっさと寝てしまおう!」
という考え方のできる人は摂食障害にはならないかもしれないですね。
目の間にある気分にだけ淡々として対処(あるいは逃亡)して、
享楽的であることに罪悪感を覚えないというのは
実際うまくやっていくための大事なポイントだと思います

今日という日だけをなんとかうまくやり過ごしてみたら
明日という日は予想よりはるかになんとかなる可能性って結構あるんですが
今日のうちに明日の心配も、明後日の心配も、十年後の心配も、老後の心配も、
全部すると、とても一人の人間にはそれだけの重さの心配って背負いきれないんですよね


本文中にドイツのL・ビンスワンガーという精神科医の患者だった女性エレン・ウエストのこんな日記が引用されています

非常に濃縮された形で栄養剤を含んでいると同時にそれを飲んでも痩せたままでいられるような薬がもしあったならば、私はまだ喜んで生きているだろうに。

私はもっともっと細くなりたい。しかし私はいつも気をつけていなければならないというのはいやだ。私は不自由な思いをしたくない。私をすりへらしてしまうものは、細くありたいという願望と、食事は全然欠かしたくないという願望との間の、この永遠の軋轢である。


本当にそうだよなあ、そう思っていたよなあ、って
私は彼女の「永遠の軋轢」が理解できる気がするんですが、
でもちょっと引いて考えてみると、
「この軋轢」が「永遠」に続く、という判断は根拠はまったく無いんですよね。

「細くありたいという願望」も、「食事は全然欠かしたくないという願望」も
それが永遠に続くものであるという根拠はどこにもないわけで
「永遠」なんていうとらえどころのないものにいきなり取り組んだりしないで
今、目の前にある願望なり不安なりにだけ対処して
それが終わったらどんどん忘れて、今日という日だけを淡々とやっていれば
本当はそれで結構やっていけたかもしれないんです。

でも心配の元が目の前にある「今日の問題」をなんとかやり過ごすことでなく
「永遠」というものになってしまうと、
当然「オナニーでもしてた方が・・」的な、散文的な解決法は出てこないわけで
事態はずっと悲劇的になってしまって
とんでもなく重いものを背負っていくはめになってしまう
そんな感じのことをちょっと考えました

2007年04月10日

食べ物というのは
命になるもの、エネルギーになるもの、
心に寄り添うもの、
心身を支えるもの、だと思うのだけど

世の中にはイメージ的に言って
あんまり役に立たなそうな食べ物ってものもあって
その名も「ジャンクフード」と呼ばれたりするけれど

私はジャンクフードの暴食って
「楽しいなあ」と思うし
遊びとして、時々ぜひやりたい

ジャンクフードって
上の空で食べる、というのがひとつの特徴だと思う
そもそもあんまり関心を集中させるような深い味付けにはなってなくて
ぴりぴりした感じの刺激の強い味覚だけが送られてきて
「腹の底から喰らっている」という感じよりも
機械的に「手から口へ」の動きを習慣づけて
止めにくくさせる味つけになっている

なので
腹の底から「いやあ美味かったありがとうごちそうさま」
とはなかなかならないのだけど
でも上の空ってそれなりの快感がある
だってこの世で生きている以上
「時々我を忘れたいじゃん」としみじみ思うわけで

あんまり人の迷惑を恐れない人だと
突然怒り出して怒りに我を忘れてストレスを発散できる人とか
感情表出を恥ずかしがらない人だと
突然泣き出して涙で我を忘れてストレスを発散できる人とか
そういう人々もいるけれど
人に迷惑を掛けることを著しくおそれるタイプの人には
一人で食べて我を忘れるのってとっても手軽な方法なわけで

満を持してのジャンクフード・パーティって
私はやっぱり時々やりたい
ポテトチップスを散々食べたら
甘いもの食べたくなってチョコパイ食べて
そしたらもう一回ポテトチップスが食べたくなって
その後喉が渇いてコーラ飲んで、
みたいな
「味覚障害なのか、私」と思うような遊びを
時々やっていたいなあって思うんだな

腹の底から食べてるわけじゃなくて
頭の興味で次々食べてて
すでに食事というより遊びなわけだけども
時々わざとに上の空でそれをやるのは
私にはなんとも楽しいのだ

それでも過食症の頃と違うことっていうのは
自分の心や身体や生活環境がどんな状態であっても
「できるだけ美味く喰う」権利ってのは
忘れないでおこうという意識は強くなっているので

ポテトチップスでも袋から出して好きなボウルに移し変えるし、、
喉が渇きそうならあらかじめ自分のグラスに飲み物を用意するし、
足りなさそうならお代わり分もポットに作ってそろえるし、
できるだけ「ちゃんとした準備」をする
そうしておくと好きなものが目や肌に触れる感覚で
自分は食べる権利があってこれを食べてるんだってのは
絶対に忘れることがないと思うのだ

ジャンク・パーティー
結構楽しいよ

2007年04月09日

パソコンに向かっていると
少しずつお腹が空いてくる気がする
気がつくとなんとなく、
オナカスイタナ、と独り事を言っていたりする
オナカスイタナ・・・・?
ちょっと手を止めて考える、
もうちょっと待ってみる

気がつくと、もう少し大きな声でオナカスイタナ、と呟いている
手を止めてちょっと考えてみる
ほかほかの白ご飯が食べたい
光ってて湯気が出ていて柔らかくてこっちみて笑ってるような
ピカピカしたご飯が食べたい

では、いざ
とやおら台所へ向かう

私は炊飯器を持ってない
炊飯器は信用ならんと勝手に決めていて
飯ごうでご飯を炊く
飯ごうで炊いたご飯は美味いし
飯ごうは旅行にだってもっていけるし
飯ごうは形も格好いい、と決めて
私はご飯は飯ごうで炊くのだ

サリサリサリ・・・とお米をといで
水を適当に塩梅し、火にかける

小さく切って瓶に入れてあるダシ昆布を取り出して
水に浮かべる
ゆるゆる沸かしながらゆっくりだしをとる
沸騰したら少しだけ味噌をとく
本当に美味い昆布で作る味噌汁には実は必要ないのだ

山わさびを出して
金のおろしの細かい方でごりごりする
からいー、からいー、目玉がからいー
と泣き喚き涙ぐみながら
それでも丹念にごりごりごりごりわさびをする

ご飯が炊けたら飯ごうをひっくり返して少し蒸らして
その間にお気に入りのランチマットを敷いて
箸をそろえる
お醤油、小皿にいれたわさび、
あらかじめ切って瓶に保存してある海苔、生卵
昆布だけがひらひらと浮いた実のないお味噌汁
真っ白の湯気立つご飯

ひたすらご飯を食べるためのおかずでご飯を食べる
「いやあ、うまい」と言い言い食べる
お味噌汁を飲む
ひたすら昆布のうまみを味わうためだけのお味噌汁を飲む
「うーん、うまい」
と気がつけばうなっている
いやあ、なんでこんなにうまいんだろう
と言い言いおかわりをする
ほんっとうまい
と言いながら食べ終わったら、
あんまり美味しかったのでしばし呆然とする
それから
自然に両手が顔の前に上がってきて
子どものようなゴチソウサマ

心も身体も美味しかったご飯というのは
不思議なことだけど
何か「良いこと」をしたかのような気になる
なんかとってもよい時間を過ごしたんだぞお、と思いながら
お茶碗を洗う
血の中を流れてきた命の力が
お腹の辺りで楽しそうにぴょこぴょこ踊っている
「今日のご飯はほんっと美味しかった」
と、もう一度言ってみる

白いご飯が沢山食べたかった日の朝ごはん

2007年04月08日

女はなぜやせようとするのか―摂食障害とジェンダー
女はなぜやせようとするのか―摂食障害とジェンダー


思いっきりフェミニズム論です。
私、フェミニズムは苦手とするところも多いのですが
(何しろ田嶋陽子さんのイメージが強すぎるので^^)
これは面白かった。

もとが修士論文なのですね。
それを修正、加筆して出版しているんですが
摂食障害に苦しむ人たちへの揺らぎ無い共感がまずベースにあって、
そしてその人たちの声に耳を傾けていく、一緒に整理していく
という姿勢がなんだか魅力的でした。

現実問題として痩せていたほうが社会に受け入れられるじゃないか、
痩せれば本当にいいことがあるじゃないか
それでいて社会的には痩せたいという願望を「価値が無い、くだらない」として
その苦しみそのものには口を閉ざすように仕向けられているではないか
社会が女性に対して求めるものには露骨なダブルバインドがあるではないか、

というあたり、うーむ、とうなりました。
確かに。
痩せているほうが自分の居場所を確保することが容易になる感じ、
なんというのか、まわりのみんなが率先して
「さ、ここへ」というよう感じで席を譲ってくれるようなイメージ
(イメージの話ね)って、確かにあるんですよね。
自分が「若い女性」という看板を背負ってここにいるんだぞってことを
自分も周りも納得するには
痩せていて流行の服を着ていればそれで全部オーケーで、
そして「若い女性」っていうのは「大事にされる」。

でも自分の本来の体重を大きく下回るほど痩せてその体重を維持し続けることは
あまりにも苦しくて、それが本当に割りにあうことなのかどうかよくわかんない、
という点についてはあまりにも個人的なことで、誰にも言っちゃいけない気がする
そういう「みんなにとってどうでもいいこと」は
自分の胸ひとつに収めておかなくちゃいけないし、
そんなこと悩んでいるの私だけだし、という
プレッシャーというのか羞恥心というのか罪悪感というのか
そういうのも実際ある

私はこの本に書かれているほど
「社会が摂食障害を女性に押し付けてくる」というようなイメージは持っていなくて
やっぱり「私は自分で選んでなったの」と思っているんだけど
ただ自分が摂食障害になるにあたって社会の方にどういうお膳立てがしてあったのか
というのを冷静に見るというのは、
物事を公平にみるのに役立つなって言う気はしていて
その点すごく興味深い論だった


※→このページから著者の浅野千恵さんが書いた「女性の身体へのこだわり--文化規定としての女性の身体」という論文が読めます。
紹介した本とだいたい同じような感じのことがかいてます。ちょっと読みにくいし、全面的に賛同とはいかないのですが、でも面白いこと言ってるなあ、という部分あるんですよね。

2007年04月07日

摂食障害にまつわる言説で私が嫌なのは
摂食障害になる人というのは
「自我が未発達で」
「成熟拒否願望があって」
「完璧主義で」
「生育時母親の愛情が足りず」
「家族の機能になんらかの問題があった」
という類の解釈がまかり通っていることで

今だからそういう偏見を持って人を見るのはやめてくれ、
という気持ちをもつのだけど
本当に二十歳そこそこで、食生活が完全に自分の手に負えなくなった
と酷く自信を喪失していたときは
「そうか、自分の性格の欠陥のせいなのか」と反省するか
「そうか、家族のせいだったのか」と責任を持っていく先を探すのに必死になるかの
どちらかの態度に出るしかなかった

(冷静に考えると、
生きていくうえで自我という問題に悩むこととか、
成熟というステップを踏んでいくことに不安を感じるとか、
完璧でありたいと望むとか、
自分が幼いころに形成された思想や習慣から離れていくことに戸惑いを感じるとか、
そういうことのどのあたりが特筆されるほどレアな性質なのか、よくわかんないんだけど。)

摂食障害になる人はこういう人だ、と決めつけてしまうことは
摂食障害ってのは結局本人の性格的な欠陥を表しているんだよ、とか
インナーチャイルドを慰めなくちゃ治らないんだよ、とか
(もちろんそれで治る人も居るだろう。否定してるわけじゃない。)
あらかじめ決まったところに原因を還元させてしまう結果しか生まずに
本人が何をどういう手段で表現しようとしても
その行為そのものにはまったく意味がない
と決め付けてしまうことになる

私が思うに
人間が成長(あるいは成熟)するのって、そもそもかなり危険なことで
階段をあがるみたいにトントントンと成長していくわけじゃなく
今まで生きていた自分を一度殺して、本当に死ぬか生きるかのぎりぎりの淵から新しい自分ってものを引きずり出してくる、
みたいな、そういう苦しみがそもそも成長なんじゃないかな、っていう気がしていて
だから人はみんなそれぞれ成長のたびに色々な形で
死のすぐ脇を通り抜けてるんじゃないかなって
いうことを私は考えているんだけど

今の社会状況の中では
そういうぎりぎりまで自分を追い詰める自己の存在の見極めの場、
言語化される以前の内的葛藤の表現の場として
女性の身体がその舞台になりやすい、というのは
全然異常なことではないと思う

あるいはそのアイディンティティの揺れそのものが
その人の込み入った生活の微妙なバランスを支えて、
何らかの生きやすさを与えるものであれば
食べ物と身体をめぐる葛藤の中で少しばかり長く生きていたって
一向に差し支えないとも思う
(傍から見ると少々奇妙な習慣に見える可能性はあるけれども、
べつに傍から見て奇妙に見えないようにするために生きる必要は全然ないわけだし)

私の場合は「食べる食べない」をめぐって
自分の心の中で何が起こっているんだろう、というような
できるだけ自分の深い部分に降りていくようなアプローチをすることで
コントロールを取り戻していったわけだけども
それだって当然唯一絶対の回復の道じゃないわけで
そんなアプローチが全然必要ない人だっているだろう。
よく分からないけど色々忙しくしていたら治っちゃった、
というならそれはそれで結構だし、
開き直って沢山過食したらそのうち飽きてやめた、
というのだって大変結構だと思う


やたら文章長くなったけども
私の言いたいことってのは凄くシンプルで

私たちは異常じゃないっ

っていうことを、
なんか、とってもとっても伝えたいな、と。
そういう自分に対する信頼みたいなのを
共有したいよね
って思うわけで。うん σ(゚ー^*) ィェィ

2007年04月06日

ブリジット・ジョーンズの日記
ブリジット・ジョーンズの日記

すでに有名になりすぎちゃってるけど、この本凄く面白いと思う

ブリジット・ジョーンズ--三十代、会社勤務、結婚歴なし。
1、あと3.1キロ体重を減らし、
2、タバコをやめ、
3、内面の安定をはかりさえすれば、
悩みは全て解決されると信じて疑わない

どういうわけだかこの至って平凡な悩みのリストを見ただけで
この人物がとっても魅力的に思えてくる
こういうよくある悩みを隠さない勇気って
実際それだけ十分魅力なんじゃないかと思う

黙っていれば、
こんなに高尚とは言い難い悩みばかり抱えてて
この程度の目標達成もできないのは自分だけだって気になるけど
声を出して言ってしまえば、誰でもが
「実は、私も・・・」といい始めるような生活
そういうものを笑って語って悲劇に酔わないバランス感覚
みたいなところに私は凄く感動する

現代的キャリアウーマン(ただし先は見えない)として
絶対に体重の減らない万年ダイエッターとして
くだらない男との縁をなかなか切れない弱気なヒトリモノとして
ブリジットは時代に沿った本当に良い考察を沢山している


賢人なら、ダニエルはありのままの君が好きなはずだ、というだろうけど、わたしはあいにく「コスモポリタン」文化の子ども。 スーパーモデルと多すぎるクイズ番組に劣等感をいいように刺激され、自然にまかせといたんじゃ、自分の人格も肉体もあるべき水準に達しないと思い込んでいるくちだ。 ああ、プレッシャーに耐え切れない。
三月六日月曜日 体重56.2キロ (とてもとてもすばらしい。--ダイエットの秘訣は体重をはからないことだということがわかった)
「元気ないみたいだったから。みんなでいっていたんだ、いつものきみじゃなかったって。」 「そんなことは無いわ元気だったわよ。あなた見たでしょ、あたしがすっかりやせたの。」沈黙。 「トム?」 「ぼくは前のきみのほうがすてきだと思うけどな、ハニー」 むなしい、混乱してる--なんか足の下からいきなり絨毯を引き抜かれたみたいな感じ。 18年が--無駄に終わった。 カロリーと脂肪を計算して過ごした18年。 ロングスカートとジャンパースカートを買い、親密な状況のもとでは、お尻を見られないようにうしろむきでトイレに行った十八年。 数百万個のチーズケーキとティラミス、数千万切れのエメンタール・チーズを食べずに過ごした18年。 闘いと犠牲と努力の十八年。 --あれはいったいなんのためだったのだろう。 十八年、その結果が「疲れた顔して元気がなかった」だなんて。 生涯を賭けた研究がまったくの間違いであったことに気づいた科学者みたいな気分だ。
「1000(カロリー)?」と、信じられないという顔でトムがいった。 「だけど、生きるだけでも2000カロリーは必要なんだと思ってたけどな」 わたしは当惑して彼を見つめた。 あまり長いことダイエットをしてきたために、生きるためにカロリーが必要だ、という考え方が意識のなかからすっぽりと抜け落ちていたことに気づいたのだ。 いつのまにかわたしは、栄養学的な理想は何も食べないこと、なのに人間が食べる理由はたったひとつ、あまりにもがつがつしているので、せっかくのダイエットから逃げ出し、それまでの努力を何もかもおじゃんにしたいと思う自分を止められないからだ、と思うところまでいってしまっていた。

以前勤めていた会社には
夜の九時から朝の九時までの12時間勤務が四日間連続
という夜勤が月に一回あった
ただでさえ赤ん坊のようによく寝る体質の私には
これがなかなか辛かった

夜勤四日が明けた朝は
長期計画の脱獄が成功したかのうような開放感と疲労があって
とりあえず、早く帰ってゆっくり休みたい
というのがまず先にあるのだけど
これがまた不思議なことに
必ずファーストフード店によって
フライドポテトの一番大きいのを食べずには帰れなかった
営業時間に早ければその辺でふらふらして時間を潰してでも
是が非でもフライドポテトを食べて帰ったのだ

普段私は揚げ物は殆ど食べないし
それまで特に揚げた芋が好きだと思ったことはないのだけど
その頃は夜勤明けかならずバケツのような大きな容器でフライドポテトを食べていたし
それから深夜や明け方の仕事上がり、
「後は寝るだけだぞお」っというくつろぎのひと時に
ジャガイモを揚げてはよくポテトチップスを食べていた
なぜか突如揚げ芋まみれの生活を送っていたのだ
どうも睡眠時間が普段の生活からずれればずれるほど
何かを埋め合わせる感じで揚げた芋に執着した

知識不足につき、なぜ睡眠不足気味になると揚げた芋なのか、
という理屈付けはまったくできないながら
(多分誰にもできないだろうけど)
あれは何か身体の中で
何か絶妙のバランス維持能力が機能していたに違いないと思っている
どれだけ真夜中に大量に食べようとも、
絶対に脂肪にならなかったポテトチップスは
多分、私には計り知れない目的のために余すことなく全て体内で使われたのだろう

あの頃、
もう少し自分の身体に対する信頼が少なくて
「深夜に揚げ物なんて悪いこと」という通説にとらわれていたら
ぎりぎりながらもあんなふうに
どうにかこうにかバランスを取りながらやっていくことはできなかったかもしれない

その会社に勤めていたころ
もちろん不幸なことも良くあったのだけど
それでも基本的に私は
「私の身体ってとっても賢いなあ」ととっても感心していて
いつもできるだけ享楽的な生活を送っていた
異変は身体が真っ先に知らせてくれたし
いつもいつも身体に守られて
結構うまいこと暮らしていたもんだ

2007年04月05日

今はティツィアーノと表記するんですね。
私はもっぱら「チチアン」と発したくなります。

チチアンとの最初の出会いは画集の中ではなくて
小説「赤毛のアン」の中でした

音楽会で詩を暗誦するアンを見てある画家が
「あの素晴らしいチチアンの髪をした少女は誰?」
って聞く場面があるんですね。
チチアンは赤毛の女性を好んで書いたことから
こういう言い回しになったのだ、ってことなんだそうですが
ああ、そんなに印象的な赤毛の女性を書く画家がいるんだなあ、と
文学少女だった私は思いまして
でもチチアンってどんな画家なのか、調べるわけではなくて
あくまで空想で楽しんでいました。

モディリアーニ おあさげ髪の少女 クリックで拡大します

なんとなくイメージはモディリアーニの「おさげ髪の少女」のような雰囲気、
不安げな線の細い少女のイメージを想像していたわけです
(モディリアーニは「エコール・ド・パリ(パリ派)」と呼ばれた20世紀の画家。
痩身が流行し初め、少年のような女性像が理想となり、
胸を平らに見せるためのブラジャーが流行した時代です。
あんまり肉感的な雰囲気がしないですよね。)


それからしばらくして、ちょっと成長した文学少女は(もちろん私のことよ)
もう一度活字の中でチチアンに遭遇します。
今度はなんと与謝野晶子の「みだれ髪」の中。

やれ壁にチチアンが名はつらかりき湧く酒がめを夕に祕めな

という歌があったんですね。
またしてもチチアン。

で、難しい言葉はひとつも出てきてないのにも関わらず
歌の意味がよく分からない自分を悲しく思ったのですが
(未だによく分かりません。造詣の深い方、教えてくださいませ)
でも「なんだか淫靡だあ」と思ってかなり悶絶しました。
なんとなく、「みだれ髪」で「はたち妻」で「秘めた酒がめ」って感じが
漂ってきたんですね。
この官能はどうしてもエコール・ド・パリの雰囲気ではなく
もっと豊満な女性を描く画家であったはずだ、と思いなおしまして。
チチアンの正体をやっと調べるにいたったわけです。

ティツィアーノ・ヴェチェリオ
ルネサンス期イタリアの最大の画家の一人
(ルネサンスの三大巨匠といえばミケランジェロ、ダビンチ、ラファエロですが)
彼らを凌ぐほどの活躍をしたとも言われます。)

ウルビーノのヴィーナス  クリックで拡大します

たしかに女性を多く書いていますが
髪の色、というのがいまいちピンとこないのですね
「赤毛と思えば赤毛に見えなくもないけども
わざわざ赤毛の代名詞にするほど目だって赤くはない」
という髪ばかり。
しかも、時代からして当然ですが、
ふっくらとして豊かな生命力を感じる女性像が多く
赤毛のアンのような、にょきにょきと成長しつつある
ちょっとおびえたような思春期の少女の雰囲気というのはあまり感じない

悔悛するマグダラのマリア クリックで拡大します

だから、このチチアンという画家は
私にとってはなんとなく気になる謎の画家なんですね。
どうして場違いとも思われる「赤毛のアン」の中で
あんな引用の仕方をされているのか、

それからあの与謝野晶子は
チチアンのどの絵を見て
「湧く酒がめを夕に秘めた」のかなあというのと。

ティツィアーノ「田園の奏楽」 1511年頃 クリックで拡大します

そういう、文学少女的流れの中で、気になる画家です。
「ティツィアーノ」ってより、断然「チチアン」

食べた分のカロリーの吸収を抑えるというふれこみの
謎のサプリメントがある

何年も通販で取り寄せをしながら常習的に飲みつづけ
フルマラソンなどの過激な運動をしながら
年を経るごとに体重を増やしている男性の知人がいるので
少なくても私はこれが効果のないものだということは間違いないと思っている

でも、本当のところ
私もその人のそばで過食をして体重を増やしていたころは
彼から盗んででもいいからそれが欲しいと思っていた
(当時は沖縄の離島に住んでいたので、通販でしか入手できなかったし
おまけに寮住まいで自分で取り寄せするのも困難だったのだ)
それを飲んでいる彼が太り続けているのを目の当たりにしていても
それでもとにかく「精神安定剤にはなるから」欲しいと思っていた

それが儲け主義の空っぽの宣伝文句であろうと、
胃を荒らそうと、食欲中枢を狂わせる可能性があろうと、とにかく
「太らないから」
「大丈夫だから」
「安心だから」
「幸せになれるから」
と言ってくれるものであれば
どんなものであってもせめて傍においておきたかった

「彼には効かなくても私には効くかもしれないじゃないか」
という何の根拠のない不自然な説まで考え出して
とにかくそれが欲しかったのだけど
結局手には入れられなかった

だけど今になって思うのは
やっぱりあれは手に入らなくてよかったんだ

「効果がないのにお金の無駄遣い」という話より前に
効果がないものを効果がないと知って
それでも自分にはこれしか頼るものがないのだと思って頼ってしまう、
何もないよりはずっといいからという理由だけで
本当は欲しくもないものを手放せなくなってしまうということは
実は自分の心を傷つける
自分にはこれよりマシな選択の余地なんかないんだと
思い込んでしまうことは
とても悲しいことだ

あの頃すでに何年も飲んでいた彼は
きっと今も飲み続けているだろう
「買えない値段じゃないし、特別の害はないから」という理由で飲み続け
そして「自分のためにならないものを手放す」
というきっかけをきっと見失ってしまっているだろう

2007年04月04日

「ダイエットはやると太る、やめると痩せる!」と爽快なことを
一番大きな声で言ってくださっているのは
ダイエットやめたらヤセちゃった」の夏目祭子さんですが、
ダイエットすると太る人をもうおひと方発見してしまいました。
しかもその方たるや美しさが売り物の女優様
品の良さ、貴族的高貴さではもうわが国屈指でしょう
と私が勝手に決めてお慕いしている麗人

壇ふみさん

であったりします。

私、息抜きに軽い本を読むのが好きなのですが
(息抜きっぱなしの生活だけど)
最近はまってしまったのが
阿川佐和子さんと壇ふみさんの往復エッセイシリーズ
これはどれを読んでも腹を抱えて笑える軽さ
でも安心して読める芯のある美しい日本語
というので良質の息抜きとして絶大な信頼を置いているシリーズです。

このシリーズで一貫して書かれているのは
「ダンフミはよく食べる」ってことですね
とりあえずお腹が空いて目が覚めるところから一日が始まり
絶対に妥協を許さぬ贅沢好き、
まずい物は食べない美味いものはなんとしても食べる
高級レストランで満腹になったあとは
必ず口の中に飴かガムを放り込むのを習性とし、
しかも満腹の後はしばしば「蕎麦か茶漬けかおにぎりが食べたくなる」底なし体質、
食べたくなったら気が治まらず道の真ん中でも地団駄踏む、
阿川嬢をして「脳みそが胃袋の皮でできている」と言わしめた面白いお方なのです

で、ここ十年来体重変わらず、「せいぜいニキロか三キロ」の微増の範囲で、
なぜこれだけ食べ続けて太らないのかというのが関係者の注目の的?
であるらしいのですが

その中で興味深いのが太った時のエピソード。
美食家壇様、何週間もさまよった末に餓死寸前になる、という役をやるはめになり、
体重を落とすべく三週間のダイエットを決意します。
全ての食べ物をこれまでの半分の量にするという内容。

これが非常に切なかったそうで、以下本人の談

「この切なさがいけないのだと、後日思った。
切ないくらい食べたいのに、じっと我慢するから身体が恐るべき飢餓感を覚えて、食べたものをそっくりそのまま脂肪にして、皮下に蓄えようとするのだ。」

結果たるや三週間で三キロの増加。
放っておけば十年でニ、三キロの増加しかしない人が
ダイエットして三週間で三キロの増加というのは
結構めざましい成果だな、と
申し訳ないけれど、面白くもあったりする。

そんなわけで、もちろんこれは軽妙エッセイなので
誇張を入れながら面白おかしく書かれてあるとは思うのだけど
引用の部分「飢餓感が脂肪になる」という実感は
壇ふみさんの体験による貴重な本音の本音だろう、と
日頃自分が考えていることに省みて思ってしまうわけだ。

知れば知るほど
皆心のどこかで「ダイエットって太るよね?」って思ってるフシがあるようで
せっかくだからもっと大きな声で言いましょう
「我慢は太る!」


ああ言えばこう食う―往復エッセイ
ああ言えばこう食う―往復エッセイ

私はこのおふた方に憧れます。ドラマティックじゃなく、シリアスでなく、ユニークで、不幸を笑い飛ばすウイットに富んだ女性。
心からかくありたい。(でも高級レストランのディナーのあとにお茶漬けは入らない)

食も心もマインドフルに―食べ物との素敵な関係を楽しむために
食も心もマインドフルに―食べ物との素敵な関係を楽しむために


「食も心もマインドフルに」を五回に渡ってご紹介しました。
細かいので、読むのに辛抱が必要なところもあるのですけど、実用的な感じがします。

読んでくださった方は気がつくかと思うのですが
私の愛読書、といういうか熱愛の書、「食べ過ぎることの意味」と同じこと書いてます。
文章はジェニーン・ロスの方がウィットに富んだ感じで読みやすく感じますが
書いてあることの基本は見事に一緒です。
「ダイエットやめたらヤセちゃた」の夏目祭子さんも
切り口は違いますが根底に流れる基本の考え方は一緒です。
要するにみんな口をそろえて同じことを言っているわけで。

自分を信じて迷わず進めっ!
ってことなんですけども
突然そんなこと言っても途方に暮れるだけなので
それぞれ丁寧に本一冊使って書いてくれているわけです。

あとは語り口とか、細かいところの違いがあるだけなんですけども
お好みにあったものを選べるように全部紹介しちゃいました。

これは本当に実践の中で、ということを意識した本なので
「本当に混乱していて食事をするのがストレスで仕方ない」
という人にお勧めかと思います。
いくつかの瞑想法やリラックス法は面白いので私もやってみました。
それからところどころでブッダが出てくる唐突さも私は結構好きです。

この「食も心もマインドフルに」では、巻末にマインドフルスケールがついてます。
アンケート式で自分の心、身体、感情、思想がどれくらいマインドフルか、そうでないか
ということを自覚できるような質問がついていますので、
気になる人は手に入れてやってみてください。

「食も心もマインドフルに」関連記事一覧
1 はじめに
2 心がマインドフルであること
3 身体がマインドフルであること
4 感情がマインドフルであること
5 思想がマインドフルであること
6 感想

※この記事は「食も心もマインドフルに―食べ物との素敵な関係を楽しむために」より
「PART4 思想がマインドフルであること」を参照して作成したものです。※

思想は言葉として表すことで明確になる。
言葉は行動して表すことで明確になる。
行いは習慣へと発展する。
習慣は確立すると性質になる。
したがって思想とその行方を慎重に見守りなさい。
そして思想が愛から生じ、
万物に対するいたわりから生まれるようにしなさい。
-仏陀-

マインドレスな考えを変える
・食べることに問題を抱えている人は、歪んだ思考パターンにしつこく悩まされています。
歪んだ考えがあるなら、まずはその存在を明かにするのが第一歩です。
○極端な考え
--「どちらか一方」「Aか、それともB」。
「私は完璧か、もしくは失敗者」「美しいか、さもなければ醜い」といった考えです。
○最悪のケースのシナリオ
--その状況から考えられる結果を過剰に一般化してしまう心の癖。
「もしこのクッキーを食べたら5キロも太ってしまう。
そうしたら誰も私と一緒に出かけたいと思わなくなる」など
○事実を誇張する考え
--ひとつの原則が他の状況にも同じように当てはまると決めてかかること。
「太っているということはだらしがないに違いないということだ」
○ささいなことを巨大化する考え
--ちょっとしたことなのに、その重要性を極限まで大きく広げようとする心の癖。
「もしまた過食嘔吐してしまったら私の人生は永久に台無しになってしまう」など。
○呪文の考え
--まるで特別な力を持っているかのように思われる迷信的確信
例えば「毎日一時間運動すれば体重が増えないなど」
○見て見ぬふりをしようとする考え
--大切な情報を無視しようとする。
例えば「お医者さんの言っていることはきっと間違ってるのよ。私の食べ方に害はないもの」など
○度を越した考え
--自分の重要性や状況との関連性を誇張してとらえる心の癖
「皆が私の身体を見ている。私のことを笑っているんだわ」
○でたらめな理論
--誤った考えから発展した個人的な理論
「嘔吐をしていたら安心できるから、嘔吐し続ければ二度と苦しく感じることはないだろう」
○裏づけがない考え
--具体的な確証が全くなくたてられた仮定。
「運動をたくさんするような痩せた人が常に好かれるのよ」

これらのようなマインドフルな考えをよく行っていることに気づいたら
「私は今極端な考えをしている」と自覚した上で
極端を避け、自分のためになる考え方を実用的に柔軟に
見出す方法を考えてみましょう(中道をとる)

食べ物を正確に評価する
・自分が食べようと思っている食べ物をその瞬間にあれこれ評価せずに、
自分が必要な(しかも食べたいと思う)食べ物であるかどうか正確に評価すること、
それこそがマインドフルな食べ方の鍵です。
・批判的になることなく、公平な視点から食べ物について考えるように努めてください

マインドフルに想像する
・成功した結果を想像することは、どのような行動であれ、何か行動を変えるためには不可欠です。
・失敗を予測すると、知らず知らずのうちに、失敗する可能性が高そうな行動をとってしまいます。
成功を予測すれば想像が実際の成功を助けてくれることがあるのです。
・普段悩んでいるマインドレスな食べ方の例をひとつ挙げてみましょう。
リラックスしてその食事の様子を創造してみましょう。
批判的にならず、失敗の考えにしがみつこうとする態度も自覚してください。
心の中に浮かび上がってくる感覚をそのまま感じて、食事の様子をマインドフルに想像してみましょう。

現実的で実行可能な方法を探す
・マインドフルというのは実際のところ、何をすべきか、また何をすべきでないか、ということについては何ら指示してくれません。
なぜならそれは批評することになってしまうからです。
万人に対して唯一この方法しかない、と明言しているようなダイエット方法は怪しいと思ってください。
・マインドフルに食べる助けとなり、栄養的に役だち、現実的なやり方であるならば、
どのような方法を用いてもかまいません。
自分が気に入らないライフスタイル、または自分のライフスタイルとは両立しえないダイエット法や食べ物を選択したところで、うまく行くことはないでしょう。
自分自身をよく知ること、それがカギです。
・目標や、「・・・すべき」「・・・すべきではない」といったことに、あまり焦点をおくのはやめましょう。
自分にとって何が有効に機能するのかということを重視してください。
そうすれば、どうすることがマインドフルな行動なのか、明かになってきます。
・「・・・すべきである」とあなたが信じている行動をリストにしてみましょう。
リストができたらそれを、現実的で有効に機能しそうなものに置き換えてみましょう。
例えば「甘いものは悪い食べ物だから厳しく避けるべきである」という思い込みであれば
このように変換されます
「確かに甘いものの食べすぎは健康に良くない。
でも時々適量を食べるのであればそのほうが現実的で実行可能な考えじゃないかしら」

マインドフルに適応する
マインドフルであるというのは、自分自身を変えようとすることではありません。
自分についてもっと良く理解できるようになるにつれて、変化は自然に起こってきます。

あなたが身体に食べ物を与えると、身体はその与え方に対してどのように反応するでしょうか。
あなたがそれを理解し、よく感じとれるようにしていけば、自然な形で自分の食べ方に適応できるようになるのです。

自分の食事を徹底的に変えようとしてはいけません。
正しい方向に向けて小さな一歩を重ねていくことで、徐々に重要な変化が生まれるのです

マインドフルであるためには、時間と練習が必要です。
意識せずに世界とのつながりを自覚するには、意識的に努力する必要があります。

軌道を外れず、歩き続ける
・マインドフルに食べるにも練習が必要です。最初は必ずしも成功するとは限りません。
しかし、マインドフルに食べようと努力し続ければいつか成功するでしょう。
・時折、出し抜けにマインドレスな食べ方をすることもあるでしょう。
それはあらかじめ予想していてください。そういうことは起こりうるのです。
マインドレスに食べることで、逆によくコントロールして自覚をもって食べることの利点を思い出せばそれでよいでしょう。
歩き続けるよう、自分自身に言ってください。
正しい方向を向いてさえいれば、あとはただ歩き続けるだけでいいのです。
・マインドレスに食べてしまったら、自分に優しくなってください。
いつまでも拘るのはやめましょう。
マインドレスに食べてしまったという事実を強引になんとかしようともがくのもやめましょう。
それは起こってしまったのです。その事実を受け入れ、手放しましょう。

心の中の批判的な食物批評家の声を聞く
・自分に対して徹底的に厳しく批評をすることがマインドレスな食べ方をコントロールし制限するのに役立つ、と誤って信じている人は案外多いのです。
自分を批判するしか、コントロールを維持していく方法はないんじゃないか、と恐れているからです。
・心の中の食物批評家が煽り立てる、恥ずかしさ、自己嫌悪、罪悪感、公開、などはマインドレスな食べ方に歯止めをかけるというよりも、むしろ拍車をかける主な要因です。
・有害で辛らつな心の声が、食べ物を味わい、楽しむ力をどのようにそらしてしまうか、考えてみましょう。

「食も心もマインドフルに」関連記事一覧
1 はじめに
2 心がマインドフルであること
3 身体がマインドフルであること
4 感情がマインドフルであること
5 思想がマインドフルであること
6 感想

2007年04月03日

たまには過去を思い出して独り言で。

あれもしてやった、
これもしてやった、
何もかも、できることは全部してやったのに
お前は何も与えてくれないじゃないか
と責められるとき

「あれもこれもしてやった」の中には
される側の気持ちは入っていない
こちらがどう思うのかということとはまるで関係なしに
されてしまった「あれも、これも」

もしもそれがあなたにとって犠牲でしかないのなら
最初からされたくはなかったことなのに
だけど、そう言ってみても、もう何も戻せない

何かを言いたくても
言えばまた「正しいこと」を言われて怒られるから
何も言わない

何を言おうとしてみても
「正しいこと」しか言わない人と
分かりあうことは困難で
「お前が間違っている」と言われれば話は終わる
そんなに苦しいことをするくらいなら

何もかも飲み込んでしまうための、
せめて何か食べ物を。

※この記事は「食も心もマインドフルに―食べ物との素敵な関係を楽しむために」より
「PART3 感情がマインドフルであること」を参照して作成したものです。※

自分自身のために身につける知恵を
努力と慎重さ、規律と自己制御によって
自らの安息の地としなさい、
そこはどのような洪水が押し寄せようとも
決してのみ込まれない孤島である。
-仏陀-

感情的な食べ方にマインドフルに対処する
・感情は天気のように自然にうつりかわりますが 、コントロール不可能というわけではありません。
・感情は訪れて、やがて去っていきます。注意深く見守っていくことが必要なのです。
どんな気分になっても、すぐに反応してはいけません。
何についてそう感じているのか理解しないままに、すぐ行動に出てはいけないのです。
・瞑想を利用し、自分の感情に触れてみましょう。
これらの感情にどう対処していったらいいか、考えてみてください。
・一日に何回、心の中で「この食べ物は私にとって良くない」というのを「私は悪い人間なんだろうか」という疑問へと読み替えてしまっているか、心の声にじっと耳を傾けてください。
食事を摂るたびに自分がどう感じているか、自分で判断してみましょう。
・マインドレスに食べたきっかけは何ですが。その前後の脈絡をよく調べてみることで
その状況へ至るきっかけとなった感情や思想を思い出すことができます。
・強い感情に対して良いか悪いかのどちらかの激しい感情が強くなると、
多くの場合コントロールできなくなってしまいます。
これらの感情をできるだけ早く取り除いてしまいたいと願い、
食べ物をを使って感情もろとも飲み込んでしまうことがあります。
何もかも感じない状況をもとめて拒食に陥ることもあるでしょう

感情にのみ込まれない
・感情を明かにして自覚的になってください
自分に手紙を書き、それを説明してみてください。良く観察してください。
・悲しい気持ちがするときは悲しんでください。その気持ちと戦ってはいけません。
好ましくない感情は耐えられないものでも恐ろしいものでもないということを、自分に教えてください。
・怒りは難しい感情です。怒りの影には欲求不満、精神的苦痛、喪失の恐怖が潜んでいることがあります。
自分の怒りを認め、何がそれを促しているのか、突き止めましょう。
・罪悪感に駆られている人は、それを認めましょう。
自分に罰を与えようとしていることに気づいたら、自分自身に情け深くなってください。

技能の習得:食べる前に深呼吸をする
・食べることがストレスの多いことと感じられる人は、テーブルについたらまず心の準備をしましょう。
身体的な感覚に関心を集中し、リラックスしてください。
身体がくつろげるようにします。深呼吸をして、呼吸に集中してください。
リラックスしていくのを感じましょう。こうしてマインドフルに食べる準備をしてください。
(※管理人注:本文中にはもう少し詳しいリラックス法が記載されています。このような技能の習得について詳しく読みたい人はぜひ本を手に入れてください。)

マインドフルな食べ方と人間関係
・自分にとって重要な人たちとの関係の特徴は、しばしば食べ物と自分との関係にとてもよく似ていることがあります。
・今の食べ物との関係を言葉で表現してみましょう。
そして本当はどのような関係にしたいのか考えてみましょう。
平等で公平なコミュニケーションができる関係、そして身体と心の矛盾する欲求をも常にうまくこなしていける、そんな友人関係、もしくはパートナーシップをめざしましょう。
・食事に問題がある人は、しばしば他人を喜ばせようとします。
どうしたらほかの人を幸せにできるだろうか、ということについて、あれこれ考えます。
自分の幸せを犠牲にしてでも人を喜ばせようとします。
しかし人を喜ばせようとすると、マインドフルであるのが難しくなってきます。
人がどうように反応するかといつも先へ先へと予測し、案じていなくてはならないからです。
これは今、ここで充分に生きていこうとすることとは対照的です。

「心」対「空腹欲求」
・マインドフルになるにつれて、自分の心が何を熱望しているのか気づきはじめるでしょう。
例えば、人との交際、愛情、権力、そしてコントロールなどです。
食べ物とは違って、これらの願望はそんなに簡単に満たすことができません。
時々、人は自分の心の願望を誤解することがあります。
自分の心をもっと大切にしなければならないときに、誤って自分の身体に食べ物を与えてしまうのです。
・変化し続ける感情や願望の足取りを辿ってみましょう。
ポケットサイズの日記帳を携帯してください。
一日の中で考えがまとまらなくなったとき、精神的にどのようなことが起こっているのか、
記録してください。
・感情のほかに空想も記録し、検証してみましょう。
空想は何を渇望しているのか教えてくれることがあります。
誰かとの特別な関係を想像しているとしたら、おそらく愛情や関心を求めているのでしょう。
仕事の昇進を夢見ている人は、権力、コントロール、知的な刺激に憧れているかもしれません。
自分の心の渇望を満たすために何ができるか、考えてみましょう。

自分の遺伝的な体型を認める
・「セットポイント理論」によれば体重幅は遺伝的にあらかじめ定められていると仮定されます。
身体はその範囲内に体重を保つために新陳代謝と貯蔵能力を自動的に調整するのです。
セットポイント理論では全体的な体型を変えるためにできることは殆どありません。

マインドレスな食事に陥りがちな環境を変える
・マインドレスな食事は同じ場所で何度も何度も繰り返し起こる可能性があります。
ある特定の場所でマインドレスな食べ方をしてしまう、という場合、脳はおそらく無意識にそれを記憶し、習慣化して行動しているのでしょう。
テレビ、コンピューター、車の運転をしながら、電話をしながらの食事はやめてください。
・あなたが最もマインドレスに食べてしまいがちな場所はどこか確認してみましょう。
・マインドフルな状態になれるような静かで安らかな環境を作ってください。
・危険な領域には「マインドフルに食べましょう」とメモを張って注意を促しましょう。

食事以外の活動にマインドフルになる
・食べていれば、もしくは絶えず食べることについて考えていれば、ある程度の時間はつぶれます。
ちゃんと目的をもって時間をすごしているような気分になります。
そうすると退屈やむなしさから食べてしまうことがあります。
・食べ物と同じくらいあなたを満たしてくれること、あなたの魂にも栄養を与えてくれることをマインドフルに考えてみましょう
・本を読む、趣味、スポーツ、電話、昼寝、日記、思いやりのある友人とすごす、など
元気を補給してくれるような活動をリストアップしてみましょう

マインドレスに不完全になる
・それが何であろうと、きわめて高いレベルで生きていれば、他人から賞賛され、羨ましがられます。
これは「全て問題なし」という幻想を生み出すことがあります。
しかし自分の身体に対して非現実的なほどハイレベルな目標を掲げて生きようとすると、
人生を惨めに過ごす結果になりかねません。
ほかに何を成し遂げようと、自分は失敗者だと確信してしまうのです。
・自分の見かけの姿に対する強迫的な心配のもとには何があるのか、目を向けてみましょう。
そうすればあなたが本当に恐れているのは何か、分かるかもしれません。
・自分自身が気持ちよくなるために他の人の賞賛を当てにしている人は、完璧主義の代償について考えてみましょう。
ストレスは精神的幸福をどれほど消耗し、悲嘆にくれさせていますか。
・自分が目標としていることとはどのようなことか、リストアップしてみましょう。
それらはどれほど現実的か評価してみてください。

「食も心もマインドフルに」関連記事一覧
1 はじめに
2 心がマインドフルであること
3 身体がマインドフルであること
4 感情がマインドフルであること
5 思想がマインドフルであること
6 感想

2007年04月02日

ブックスダイエットというダイエット法があります。
初めてみたときにこれは画期的だなあ、と思って熟読しました。
過剰ストレスが肥満の主原因なのだから
好きなことはやる、嫌なことはやらない、我慢もしない
と決めてストレスを軽減するってのが原則で
食事法は大雑把にいうと
一日一回(夕食で)制限なしに好きなものを食べて脳を思い切り満足させる
それ以外はつなぎ程度に軽く食べて、お腹が空いたらりんごか黒砂糖を
食べる、という感じのものだったんです

私がこれを発見したのはちょうど過食していた頃で
右手にいつもジェニーン・ロスの「食べ過ぎることの意味」
を携えていた感じだったのですが
それでもダイエットをやめるというのはあまりにも怖い、と思っていたので
ジェニーンの言っていることに拮抗しないようではありながら
尚且つ「ダイエット法」「痩せる」といってくれている、
この方法に惹かれました。

ちょっと試してみてどうなったかというと
昼間は黒砂糖の過食をして
夜は普通に過食をする
という、サイクルになったのでやめました^^
黒砂糖一袋過食すると、喉渇いて大変なんですよね(笑)

脳が満足することをまず第一とする、というのは
面白いダイエット法だよなあ、って今でも思うのですが
どうして私はダメだったのか、

今になって分かるのは「満足」を間違えていたんです
黒砂糖を齧りながら何を考えていたかというと
「次の一口で満足できるに違いない」と思いながら一袋平らげていたのですね。

「満足」って「次の一口」の中に入っているものじゃないのですよね
「このひとくち」が「あー、美味しい、嬉しい、生きてて良かった」
というのが満足であって
「この一口」に満足がないのに「次の一口」に満足が入っているわけがないんです

目の前にある食品(黒砂糖)を見て
美味しそうだな、とかどんな味かな、黒いな、とか甘い匂いだな、
とかを一切感じずに
「これが私に満足をもたらしてくれるものに違いない」としか考えなかった時点で
「食べる」ということに対する経験を物凄く制限していたのですよね
一見「満足」を求めているようでいて
実は「満足」をもたらす全ての感覚--視覚、嗅覚、味覚、など--
を完全に閉じていたんです。
で、脳みその中でだけ「さあ、いつ私を満足させてくれるんだ。」と。

良い減量法だと思うのですよ。
画期的だったし、これを知って気は楽になったんですが
それでもやっぱり
「自分の身体の感覚より本に書いてあることの方が信頼できる」
と思い込んでしまう時点でまず
私自身の最初の一歩が今が過食の地平線から出られていなかったんです。

満足って外から降ってくるんじゃなくて
腹の中から湧いてくるんですよね。
まずそのことが分からなければ
やっぱり何をどれほど食べても満足は無理だったんです

ご参考までにブックスのサイトをご紹介しておきます。
(でもあまりとらわれないでくださいね。
「満足の感覚」に自信がもてない人はこれより先にすることがきっとあります。)
→サイト:BOOCS ダイエット
→書籍:BOOCSダイエット

-----追記---------
このダイエットでは普通の食事に戻したとたんリバウンドしたという声をよく効きます。
カロリー不足による基礎代謝の低下で
「ダイエット前と同じ量の食事」でも太る体質になってしまった、ということが考えられます。
一日一快食を続けても代謝が落ち続ければどんどん痩せられなくなり、太りやすくなります。

それから朝夕が絶食に近い状態になりますが、
「絶食」と「過食」の繰り返しは急激な低血糖を招き更なる過食衝動の引き金ともなりえます。

特に完璧を目指してしまう人や、
「今すぐ痩せたい」「自然体重より痩せたい」という考え方の人、
摂食障害の問題を解決する前の人がこのダイエットを行うのは危険です。

2007年04月01日

※この記事は「食も心もマインドフルに―食べ物との素敵な関係を楽しむために」より
「PART2 身体がマインドフルであること」を参照して作成したものです。※

身体は大切である。
身体は目覚めをもたらす手段である。
いたわりなさい。
身体を健康に保つことは義務である。
さもないと私たちは
心を強く明確に保つことが
できなくなってしまうだろう。
-仏陀-

瞑想--身体の合図をマインドフルに学ぶ
・身体と心の全体性を形成することは、食べ物に問題を抱えている人にとってきわめて重要です。
身体が脳に送る信号を認識するには、思想と身体の間のコミュニケーションが自由にできなければなりません。
どちらかを一方だけを重視すると心と身体は分裂してしまいます。
・瞑想によって思想や感情に集中することを教えられ、困難や苦しみに対処できるようになります。
思想のプロセスと様々な身体行動を自覚できるようになるのです。
(本書には身体と心の結びつきを回復すための具体的なリラックス法の演習が掲載されていますが、
ここでは割愛します。自分のできるリラックス法を考えてみるか、実際にこの本を手に入れてみてください。)

マインドフルな呼吸によって身体の緊張をゆるめる
・心と身体に対するコントロールを取り戻そうとするとき、呼吸に意識を集中するということは実践可能な最も簡単で重要な技能の一つです。呼吸に関心をはらい続けてみましょう。
・吸って吐くということを自覚しているときは、一瞬一瞬を押しのけるのではなく、むしろその瞬間に関わっていくことになります。呼吸というのはまさしく生きることの基本なのです

動きがマインドフルであること
・身体の動きにマインドフルになってください。身体がどれほど快調に機能するかは、どのような食べ物を摂取するかにかかっていることに気づいてください。
・自分の口に入れた食べ物が胃へ移動し、エネルギーに変換される、そして身体を動かすよう信号を送るために神経によって使われる、そのようすを想像してみてください。

マインドフルに結果を認識する
・マインドレスな食事は健康問題を引き起こす可能性がありますが、食事に問題を抱えた人はそれらについて考えることを避けます。
否定したり、避けたり、別な原因のせいにすることでマインドレスな食事に伴う危険を何とか切り抜けようとします。
・マインドレスな行動を減らすには、その行動を続けたらどのような結果に至るかに関心を向ける必要があります。
身体が悲鳴を上げている信号を認識できるようになりましょう。
・酷い言葉で自分を批判するのをやめるよう、自分に教えていかなくてはなりません。
・現在の身体の状態や結果をあれこれ考えることと、行動することでどのように結果が変わるかを予測することは違います。
「こんなものを沢山食べてしまった。私はなんて愚かなんだろう」と思うことと、
「このジャンクフードを全部無茶食いしたら健康に良くないし、そんな食べ方をしても、良い気持ちにはなれないでしょう」と考えることの違いです。
・一歩退いて、身体の中でどのような感覚が起こっているのか、自覚してみましょう。
マインドレスな食事の結果にマインドフルになってください。

かつての身体と未来の身体を手放す
・「かつての」身体が失われてしまったことを悔やんでも時間の無駄です。
・今のこの瞬間の自分の身体を受け入れないというのは、過去にしがみつくこと、もしくは未来の身体について空想する(つまりダイエットをする)ということを意味します。
どちらも効果的に現在を消してくれるからです
・自分自身のかつてのイメージと空想のイメージを手放しましょう。
自分の身体の中で、現在受け入れ愛することのできる部分を見つけてください。
今のこの瞬間にいるあなたという人物を見てください。

マインドフルに装う
・快適で気分良くなる服を選びましょう。
・体重は日々変わり、自分の服がきつく感じられる日があることも受け入れましょう
・サイズではなく、どのようにフィットするかについて考えてください。
サイズ表示はあなた自身にしかみえません。

空腹--身体の声にマインドフルに耳を傾ける
・「私は本当に空腹なんだろうか」何かを食べる前に、自分に尋ねてください。
・食べること以外ほかに何もすることがないという場合には、次の質問についてじっくりと考えてみてください。
「私は食べる必要があるんだろうか、それともただ食べたいだけなんだろうか」
「これを食べることはマインドフルな食事になるんだろうか。それともマインドレスな食事になるんだろうか」
答える前に少なくとも十分は待ってください、自分の身体の声にじっと耳を傾けてみましょう。
・あなたの身体は本当は何を感じているのでしょうか。
身体がそれをどのように教えてくれるのか理解できるようになりましょう。

マインドフルな体重測定
・一日の気分を左右する体重計と縁を切ってしまいましょう。
頼るべき数値が一切なくなると、自分の内的な感覚に磨きをかけざるを得なくなります。
自分の身体とずっと共鳴できるようになるでしょう。
・どうしても体重計から離れられない人はマインドフルに行うようにしてください。
体重をはかるときにどのような感情や考えが浮かぶか、あとを辿ってください。
感情を押しのけようとせずに、じっくりと考え、それがマインドフルな食事にどのような影響をもたらすか理解してください。

マインドフルな渇望
・「この食べ物が食べたい」と思ったときは身体がSOSの信号を送っているのでしょう。
それは「欲しいもの」について伝えているのではなく、おそらく「必要なもの」について伝えているのです。
渇望というのは欠乏の結果起こるのです。
・マインドフルというのは身体が求めるものを本当に充分与えるということなのです。
何であろうと抵抗するとそれはしつこくついて廻ります
渇望には意識的に近づいていきましょう。
・食べ物をあまりにも制限しすぎているから、食べ物を強く欲するのでははいですか。
自分の渇望が何を意味しているのか、発見してください。

出された料理はきれいに平らげるべきか
・自分がどれほど必要としているかではなく、自分の前にどれほどの料理がだされているかによって食べる量を決めるのはマインドレスなアプローチといえます。
・いつ食べるのをやめたらいいかを知らせてくれる、身体の中の合図に耳を傾けてください。
・普段から食べることを拒否してしまう人は自分の心の中の対話に耳を傾けてください。
なぜあなたはその食べ物を拒否するのでしょうか、心の声は何と言っていますか

「食も心もマインドフルに」関連記事一覧
1 はじめに
2 心がマインドフルであること
3 身体がマインドフルであること
4 感情がマインドフルであること
5 思想がマインドフルであること
6 感想

母は「食事は作業」と私に言っていた
時間がきたら必ずしなければならない義務で
自分にとっては感情を伴う経験ではない
ということを宣言したかったのだと思う

母にとって食事が苦痛の体験である以上
供される側の私が母以上に楽しむわけにはいかない、
母が不幸なのであれば
自分はそれよりもっと不幸になる必要があるにちがいない
そうでなければ、母の理解者にはなってあげられないと思っていた

過去の中に食べ物の思い出を探すとき
当然ながら母親と密接につながっている
ぼうっと悲しい思い出がたくさんある
一緒に食べるときの、漠然とした罪悪感
それから母が留守のすきに家中を漁って
隠れ食いをせずにはいられなかったこと

でも、もちろん
後に過食症になったのは母のせいじゃない
過食症は私が自分で選んでなったもので
私がどうやって現在から目をそむけ、格闘し、それを受け入れるのか、
というストーリーのために、私が選んだ舞台だった

母はおそらくあの時期の一連の大騒動、
離れて暮らしてはいたものの、
死ぬの生きるのの話を華々しくやり
良く分からない薬を飲んで昼間から朦朧とし
手首に傷跡をつけて
痩せたり太ったりしていた娘のことを
今でも「自分のせいだ」と思っているだろう

母はおそらくまだ
娘の人生と自分の人生は
それぞれ別のものであることに気づいていない

過食症は私のものであって、母のものではない
そして、あのとき「食事は作業」だったことは
--母が生活の細々の問題を、とても複雑すぎて手に負えないと判断して
丸ごと投げ出し幸せになることをあきらめてしまったことは--
母の問題であって、私の問題ではなかったのだ

母が私の幸福をコントロールできないのと同じくらい
私もまた母の幸福をコントロールはできいない
不幸になることも、幸せになることも
自分で望むことによってしか叶わないのだ

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