ジェニーン・ロスの言葉
ジェニーン・ロスのHPからピックアップした記事の翻訳です
→元記事:In Geneen's Own Words
日本ではジェニーンの本は二冊しか読めないのですが
もっと知りたい人と共有できれば思い、できる範囲で読んでいきます。
この翻訳はなによりさよのご協力のおかげでできたものです。
翻訳作業を楽しいものにしてくださったこと、心から感謝します。
他にも協力をしてくださるとおっしゃってくださる方もいて、
今回の記事はちょっと都合があわず縁がありませんでしたが、声をかけていただいて嬉しく思いました。
また機会があったらぜひお願いします。
なお一文だけ、どうしても文脈のつながらないところがありました
わけのわからない日本語にするよりは、と訳さずに抜かしてしまいました。
記事の中の(※)となっている部分に一文入ります。
本サイトを読んで、意味の分かる方いらっしゃいましたら、ぜひ教えてくださいませ。
読者様のご協力により、解決しました^^。ありがとうございます。
次は→インタビュー記事を読もうと思っています。
一緒に読んでくださる方、いらっしゃいましたらご一報ください。
今回の記事よりは易しいようです。
掲載した訳はまだ完成ではありません。
いつでも修正してできるだけ正しいものに近づけますのでお気づきのところありましたら教えてください。
私がダイエットをやめたのは、今まで自分がやってきたことのなかで、
過食こそが最もまともな行為なのではないかとふと感じたからでした。
もし仮に過食を否定しなくていいとすれば、
もしくは、きちんとしようとか、適切な食事や適切なボディサイズ等の外部基準に合わせようとしなくていいとすれば、
または、仮に(食べているものとか、食べている時の気分とか、1ホールすべて口に詰め込んでやろうとアイスケーキにがっついていたあの10分前の行為の直前に、自分に何が起きたのかといった)
過食行為の色んな側面に関心を抱き、それをオープンにすれば、
食べるという行為自体を通じて、その依存行動を引き起こした感情や考え方や不安に
立ち返ることができるかもしれないと思ったのです。
いったん食べ物を何のために利用していたかを理解すると、
私は過食と言う方法で自分を傷つけることなく、
自分の望みをかなえるもっといい方法があるのじゃないかと自分に問いかけてみるようになりました。
ある晩、ピザを丸ごと1枚とチーズケーキ3個、ポテトチップス1袋と特大サイズのかぼちゃアイスを食べた後、いつものように
「こんなことするなんて、まるでブタじゃないの、自分をコントロールできなくて、救いようがないわ」
とうだうだ考えるかわりに、私はペンを持って腰を下ろしました。
30分ほどたって感情の中心部に差しかかると
(ちなみに用いていたのは「記述式追求」と呼んでいる方法です)、
「スリム」が「対人関係」を意味するものだと自分で思い込んでいるのに気がつきました。
今まで私が人間
(磨きをかけてやるのに何年もかかるくせに、私の費やした努力の成果をいつも私以外の誰かに向けるという、まるで壊れた車みたいな男たち)選びではなく
「計画」選びにばかり目を向けてきたのだとすると、私は人と関わりたくなかったのではないでしょうか。自分の中で「スリム」とストレスフルな「対人関係」が同義になってしまっていたからこそ、
私は私自身を守るために食べ続けていたのです。
こう思っていました--太っていればつまらない人間に見えるから誰も近寄ってこないですむ、
ショボいフォルクスワーゲンのビートルみたいな男すら近づいてこないですむ、と。
「デブ」と「一人になれること」の間に作り上げていた関連性を理解するようになると、
無理して食べる量を減らすこともなくなりました。
自覚と冷静な観察がそうさせたのです。
ピザを丸ごと食べ、一度に一万カロリーも詰め込むことはもはや魅力的に感じられなくなりました。
意志の力は使いませんでした。
自分を恥じることもしませんでした。
クッキーを食器棚に入れ、鍵を近所の人に預けることもありませんでした。
ピザをゴミ箱に放り込み、カビの生えたカッテージチーズで覆い隠したりもしませんでした。
ひとたび、食行動の中に、混乱しているとはいえ、とにかく知恵が存在することに気づくと、それはどんどんはっきりしたものになっていきました。
ダイエットも強制も必要なかったのです。
それはまるで、30年間暗くてかびくさい部屋に住んでいて、誰かが突然明かりをつけたような感じでした。
光が存在しないと信じていた過去には戻れないのです。
一番驚いたのはこの私でした。
それまで太い足とコントロールの効かない食欲を抱えて人生をとぼとぼと歩いていくしかないと信じ込んでいたほかならぬこの私です。
本当の奇跡は私が体重を減らしたことでも、人生最大の問題がなくなってしまったことでもない、奇跡的なのは摂食障害という形で表現された私の切実な願いはいつも正しく目的にかなったことだったのに、それに耳を傾け、注意深くなる術を知らなかったということなのです。
強迫的な食行動は、見当違いなところはあったとは言え、人生を精一杯生きる上での勇気ある試みだったのです。
光に向かって伸びていく植物のように、私は自分の心の中の光に向かっていく部分も信じることができました。
いちばん望んでいたのは、人生を丸ごと生きることだったのです。
自分に強制したり、操作しようとしたり、ダメだと決め付けたり、嫌ったりを繰り返したのは、自分はどう変わるべきか知っていて、どうすれば変われるか知っていると信じこんでいたからなのです。
私は蝶になる日が来るかもしれないなんてことを考えもせずに、美しくも強くもやせてもいない自分を恥じながら17年間を過ごしたいも虫みたいなものでした。
結局、摂食障害から解放されるというのは、苦しみ、悲しみ、憎しみ、苦悩の向こうに何か別のものが存在していると信じること、そして私たちの中に光の方へむかっていく自然の力が秘められているということを信じるということなのです。


コメント
未訳の一文、こういう意味合いではないでしょうか?
もしも私が、自分の外にある正しい食べ方やボディスタイルの基準に沿うためにがんばったり、
そうした基準で判断することをやめなくて、
次のようなこと
――自分が何を食べているのか、食べている間何を感じているのか、10分前全部口に入れようと思って
フローズンケーキを切っている自分にハッと気づいた瞬間、その前に何があったのか
――を心を開いて理解しようとしたなら、
食べる行為が、中毒を作り出している感情、考え、恐れに私を立ち戻らせるでしょう。
(中毒の元になっている感情、考え、恐れが何であるか、食べることが気づかせてくれるでしょう)
あとこの部分、こういう解釈はできないかな?と思いました。
どうでしょうか?
I realized I believed that being thin meant being in relationships,
and given my history of picking "projects" instead of people
-- men who, like broken cars, needed years of tuning up,
then left and gave someone else the benefit of all my hard labor -- I wanted to be alone.
やせていることは人間関係の中にいるということであり、人々
――壊れた車のように長い間調整しなければならない挙句に、去って行き、
私がしてあげたことを全部他の誰かに与えてしまう、そんな男たち
――のかわりに「課題(研究、仕事?)」を選ぶ人生を与えられることだと
思っていることに気づいたのです。私はひとりになりたかったのです。
given my history~の主語がbeing thinだと思ったのです。
"projects"が何なのかこれだと曖昧になっちゃいますね。難しい。
投稿者: Anonymous | 2007年06月24日 22:14
おー、ありがとうございます。
すいません、お名前教えてくださいませー。
非常に綺麗ですっきりした訳で感激です。
でもこれがですね、わからないのが
If I didn't reject it, try to be good or measure up to an external standard of right eating or right body size, if I was curious and open about each part of it -- what I was eating, how I felt while I was eating, what happened in the moments before I suddenly found myself hacking away at frozen cake in an attempt to get the whole thing into my mouth ten minutes ago -- the eating itself would lead me back to the feelings, beliefs, fears that created the addiction.
「もしも私が、自分の外にある正しい食べ方やボディスタイルの基準に沿うためにがんばったり、そうした基準で判断することを【やめて】、次のようなことを心を開いて理解しようとしたなら」
という文であれば、意味がわかるとも思ったんですけども、
これは前後の意味がつながってないんじゃないか?というのが疑問だったんですね。
この文章はどうやって訳しても前後がつながらない気がしてたんですよね。
If I didn't reject it,のitは過食かな、ということも考えたんですけども、それでもつながらないし。と。
「itは何なんだーっ」というところでさじ投げました。
I realized I believed that being thin meant being in relationships,
and given my history of picking "projects" instead of people
-- men who, like broken cars, needed years of tuning up,
then left and gave someone else the benefit of all my hard labor -- I wanted to be alone.
ここだけ読むとgiven my history~の主語がbeing thinでもいけますよね。
being thin and being in exhausting relationships were synonymous in my mind
という文章があとに続くから「痩せていること」は「男たちとの関係」と結ばれて
それ以外の選択としてダイエットと過食に突っ走った、という風に解釈して、一応うまく収まったんじゃないか、と自分で思っていたんですが、うーん、たしかに難しいです。
投稿者: ノラ@管理人 | 2007年06月28日 18:02
長文で申し訳ありませんが、こんな感じかと↓
When I stopped dieting, it was because I glimpsed the possibility that my crazy eating was the sanest thing I'd ever done. If I didn't reject it, try to be good or measure up to an external standard of right eating or right body size, if I was curious and open about each part of it -- what I was eating, how I felt while I was eating, what happened in the moments before I suddenly found myself hacking away at frozen cake in an attempt to get the whole thing into my mouth ten minutes ago -- the eating itself would lead me back to the feelings, beliefs, fears that created the addiction.
私がダイエットをやめたのは、今まで自分がやってきたことのなかで、過食こそが最もまともな行為なのではないかとふと感じたからでした。もし仮に過食を否定しなくていいとすれば、もしくは、きちんとしようとか、適切な食事や適切なボディサイズ等の外部基準に合わせようとしなくていいとすれば、または、仮に(食べているものとか、食べている時の気分とか、1ホールすべて口に詰め込んでやろうとアイスケーキにがっついていたあの10分前の行為の直前に、自分に何が起きたのかといった)過食行為の色んな側面に関心を抱き、それをオープンにすれば、食べるという行為自体を通じて、その依存行動を引き起こした感情や考え方や不安に立ち返ることができるかもしれないと思ったのです。
One night after I ate an entire pizza, three pieces of cheesecake, a bag of potato chips and a pint of pumpkin ice cream, I sat down to write instead of going into my usual whirl of "I can't believe I did that,I am a pig, out of control, hopeless" After about half an hour of writing into the center of the feelings (using a method I've since called "writing inquiry"), I realized I believed that being thin meant being in relationships, and given my history of picking "projects" instead of people -- men who, like broken cars, needed years of tuning up, and gave someone else the benefit of all my hard labor -- I wanted to be alone. But since being thin and being in exhausting relationships were synonymous in my mind, I kept eating to protect myself, believing that being fat made me so unattractive, no one, not even a battered VW bug would want me. When I understood the connection I was making between being fat and being alone, I didn't have to force myself to eat less;
ある晩、ピザを丸ごと1枚とチーズケーキ3個、ポテトチップス1袋と特大サイズのかぼちゃアイスを食べた後、いつものように「こんなことするなんて、まるでブタじゃないの、自分をコントロールできなくて、救いようがないわ」とうだうだ考えるかわりに、私はペンを持って腰を下ろしました。30分ほどたって感情の中心部に差しかかると(ちなみに用いていたのは「記述式追求」と呼んでいる方法です)、「スリム」が「対人関係」を意味するものだと自分で思い込んでいるのに気がつきました。今まで私が人間(磨きをかけてやるのに何年もかかるくせに、私の費やした努力の成果をいつも私以外の誰かに向けるという、まるで壊れた車みたいな男たち)選びではなく「計画」選びにばかり目を向けてきたのだとすると、私は人と関わりたくなかったのではないでしょうか。自分の中で「スリム」とストレスフルな「対人関係」が同義になってしまっていたからこそ、私は私自身を守るために食べ続けていたのです。こう思っていました--太っていればつまらない人間に見えるから誰も近寄ってこないですむ、ショボいフォルクスワーゲンのビートルみたいな男すら近づいてこないですむ、と。「デブ」と「一人になれること」の間に作り上げていた関連性を理解するようになると、無理して食べる量を減らすこともなくなりました。
※ given [that] ~は、「~と仮定すると」という前置詞です。
投稿者: Another Anonymous | 2007年12月14日 16:55
Another Anonymous さん
なるほどぉ、目からウロコです^^
感心したので、そのまま掲載させていただいてしまいました。
ありがとうございます。
これはジェニーンに直接聞かないと分からないことなんですが
<(磨きをかけてやるのに何年もかかるくせに、私の費やした努力の成果をいつも私以外の誰かに向けるという、まるで壊れた車みたいな男たち)>という記述が、どうも他の本から見るジェニーンの人間関係に対する姿勢からすると、少し違うような気がするんですが、(人をコントロールすることはできない、ということに非常に自覚的な人なので、「誰かをチューンナップする」という言い回しが不思議だな、と。)
でも意味としては凄く綺麗にとおりますね。
感激です。
ありがとうございました。
投稿者: ノラ | 2007年12月19日 12:37
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投稿者: video porno largos gratis | 2008年11月20日 03:04
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投稿者: chica webcam | 2008年11月21日 03:01
Aucuns doutes c'est une bonne page..
投稿者: sex movie | 2008年11月21日 06:04