HOME摂食障害と一緒に生きる>飢餓実験と摂食障害考

キーズの飢餓実験というものがある

第二次世界大戦の終結を目前に
アメリカのミネソタ大学のアンセル・キーズというという人によって
収容所で飢餓状態に置かれた人たちをいかに回復させたらよいのかを研究するために行われた大規模な実験だ

ちょっと衝撃的だが、以下のような内容のものだ

実験に参加したのは平均年齢25歳の男性36人。
半年にわたって食事を普段の半分一日1570キロカロリーに制限した。
食事はカロリー制限はあるが栄養面の配慮をされたものを一日三食。
食事以外はとくに規制なく自由に生活する。
この実験によって被験者の体重は平均して26パーセントも減少した。
さらに劇的な身体的精神的変化が起こった。

この六ヶ月の間に被験者たちは文字通り、食べ物に取り付かれる。
会話の内容、読む本、映画から空想まで、食べ物のことが中心になった。
一日の殆どの時間を、与えられる食事をどう食べようか考えることに費やし、
食べ物を目の前にしても、ゆっくり味わって食べようか、すぐ飲み込もうか迷うようになり、
食事に二時間もかかったり、食べるときに食事を腕で隠すようになる。

情緒面ではイライラしやすく、怒りっぽく、落ち着きがなくなり
物事に集中できなくなっていく。
音や光に敏感になり、ひどく神経質になったり、
興味や意欲の低下、抑うつ症状、決断力の衰えがみられる。
興味は食べ物に狭められていき、身だしなみに気をつかわなくなり、社交性も減る。
一人でいることが多くなり、自己中心的で無気力になってなっていった。

さて、半年のカロリー制限が終わったあと、三ヶ月のリハビリ期間を迎える。
興味深いのは、食べ物を前にした時、被験者たちが自分をコントロールできなくなっているのを発見したことだ。
貪るように食べても空腹感が癒されない。

三ヶ月のリハビリではこの症状が回復しなかったため、
さらに三ヶ月、自由に食べる期間を設け、観察が続けられる。
朝から晩まで絶え間なく食べ続けるようになり、食べすぎて吐くものも出てくる。
一日に摂取するカロリーは時に一万カロリーにも達した。
多くの被験者が「普通のメニュー」を食べることには満足せず、普通では考えられないような味付けや調合に拘ったり、食べ物で遊んでいるかのような食べ方、
テーブルマナーの無視、早食いなどが見られる。
こうした食行動がいくらか正常に戻るのは、ダイエット期間が終わってから五ヶ月以上あとのことだった。

(「みんな、やせることに失敗している」より要約)

(近年のダイエットブームによって再発見された有名な実験だそうで、
以前紹介した「なぜそんなに痩せたいの?―「美人」になりたい女の社会心理学
など、様々な本の中でこの実験について触れられている。


要するに無作為に選んだ健康な青年たちに半年のダイエットをさせたところ、
ダイエット終了後にまるで過食症のような症状を呈した、という実験結果なのである。

摂食障害者は自我が弱い、親子関係に問題がある、機能不全家族だ、成熟拒否だ、わがままだ、幼稚だ
と言われるのを見るにつけ、私はこの飢餓実験を思い出してしまう。
この実験が現すのは、食行動の逸脱は一部の人間だけの特別なものではないということだ。
ある条件が組み合わされば誰にでも起こりうるし、
現在の社会は女性にとって
この「ある条件の組み合わせ」がきわめて起こりやすい状況だ

生きていれば誰だって人生の節で精神的危機というものが必ず起こるし
肉体的危機と精神的危機が同時に起これば
それが相互に共鳴するのもごく自然なことだ
(文化的正義、社会的背景も入り込んでくるともっと絡まりやすい)

摂食障害はたしかに比較的若い時におこりやすい
発症したばかりで治療に掛かる思春期前後の子がそのとき抱えている精神の危機の内容が
自我の確立であったり、親子関係のことであったり
家族のことであったり、成長に関連していることだったりするケースが多いのは
なにも想像に難くない
そもそもがそういった問題を乗り越えていく時期なのであって
摂食障害を持った人だけが特別に未熟でそれに悩んでいるわけではない
育ってきた環境からの自立に関してはみんなしかるべきタイミングで
しかるべき形での苦しみを通ってきているはずだ

にもかかわらずなぜとくに摂食障害者が差別、偏見、に晒されねばならんのだ?
なぜ治療者、専門家が率先して偏見を撒き散らしているのか?
なぜ存在そのものがどこか問題を抱えた生き物であるかのうように定義されなければならないのか
なぜ「食べ方がふつうじゃない」というだけの理由で
「人格の問題じゃない、家族の問題じゃない、成熟拒否でもない!」という
本人の声は聴いてもらえなくなるのか?

誰でもが持つ「人生といかに向き合うか」という問題が
食べ物をめぐって現れているというただそれだけのことで
なぜ「決め付けられる立場」にならなければいけないのだろう。
私たちは異常じゃないのだ

 ┐( -"-)┌  

「ところで、なんで素人のあんたが、実際に何人も治してきている治療者にわざわざたてつくわけ?」という当然想定される質問に答えておくと
私は当事者だったという意味において治療者以上にフルタイムの専門家だったわけだし
治療者の言葉は当事者にはいえないが
当事者の言葉というのも治療者には言えないことだ
素人だろうがなんだろうが当事者の声は聞かれる権利があるじゃないかあっ!と私は思っている

(何度も書いてますが、そういう自我形成や家族関係に原因を求める説があることそのものを否定してるわけじゃないですよ。そういうので治っていく人がいるならそれは実際貴重なものです。でもそれで治っていかない人のことも考えられるべきだと思うわけです)

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コメント

 ノラさんのおっしゃること、本当にその通りだなあ。摂食障害の病理等々にかかわらず、本来の姿やニュアンスと違う風に「決め付けられる」というのは、心底不快で悔しいことだと思うし、もうやり場のない怒りを覚えてしまいます。一人ひとりが「そうじゃないんだ、私はこうだし、当てはまらないことも多いのだ」と声をあげていくことが大事なのかもしれません。

 でも、一方で思うのです。「決め付け」って有効に働くこともあるのでは??って。全ての人々が、社会のあらゆる場面で「曇りなき眼」で物事や人と接したら。~きっと凄い混乱と滞りが起こると思うのです。過去の経験やら学習やらで得た知識を頼りに「暗中模索」とは違う動きかた、処理の仕方をすることで、効率よく、スムーズにことが運ぶ(場合もある)といいますか。
もちろん、個々の事象やら何やらが全て同じということはあり得ないし、「一般にこう」とか「今のところ正しいとされる」ことが本当に正しいことかどうかは分からないので、大雑把な流れ的な話なのですが。だからこそ、変えるのは難しい。

 で、何が言いたいのか、というと一つは「決め付け」てくる人に「わかってもらおう」とするのは程ほどにしておいた方がいいのではないか。完全に諦める、というのではなく、相手を見、引き際を見極めつつできる範囲にとどめる、といいますか。(人間、自分自身がその気にならないと考えを変える、というのは難しいし、変える気が無い人にはどんなに誠意を尽くして話しても、接しても、「でも結局はこうでしょ」と言われてお終い、だったり。)そして二つ目は「分かりたい」と思うなら「知識や経験はそれはそれとしておいて置いて、虚心坦懐に相手を見、話をきくべきだ」ということです。当たり前のことではあるのですが、でもなかなかできないことですよね?それをノラさんはしていらっしゃるんじゃないかなあ、凄いなあ、と思うのです。

 結局は相手と自分を同じ「対等な、お互い尊重すべき、されるべき存在」として対峙できるかどうかにかかっていて、それってもう一人ひとりの個性や考え方、生き方にも通じることなわけで。

 「上手に賢くはねのける強さ」と「受け入れる柔軟さ」を兼ね備えた人になりたいなあ、と思った記事でした。(何だか独り言のようなコメントになりました。毎度長くてすいません。)

>「きっと凄い混乱と滞りが起こる」
これ面白かったです。
ちょっとEさんがおっしゃってくださっているのとは本筋でずれてしまうんですけど、
「なぜ、この人はこんなに摂食障害を持つ人をむやみに軽蔑するんだろう」
って、不思議に思うくらいのケースもたくさんあるもので、
それをずっと考えているんですよね。
なぜこんなにも話は聴かれないのだろうって

軽蔑している側の人も、軽蔑することで、
自分の世界の秩序をぎりぎりで守っているわけですよね

自分が信じて作り上げて守っていこうとしている世界の中で
突然目の前で想定外に無秩序に貪ったり吐き出されたりを繰り返されたら、
それは単に食べ吐きの問題ではなくて、
それは今ある秩序が崩壊されるということを意味しますから、
そう簡単に理解したり受け入れたりするわけには行かないですよね。
一方は壊して新しく作り直そうとし、
一方は今のままの秩序を守り通そうとする、
という人生観まで巻き込んでの真剣なせめぎあい、
みたいなものであるかもしれない、と。

いや、私も何言ってるか分からなくなりました(笑)
E様おっしゃっていただいたこととちょっと意味が違ってる気はするのですが、
でも、なんか興味深いことを考えたような気がします。
私、「見る側の混乱」ってもうちょっと考えた方がよかったかもしれない。
いつもながら、鋭いコメントありがとうございました。

 「摂食障害者をむやみに軽蔑する人。」そういう人って、他の方面でも結構な範囲に対してそんな傾向があるのではないでしょうか?つまり「自分の価値基準からずれる人、物、事柄に対して、理解したり共感したり(少なくともそうしようと努力したり)するよりも、排除、軽蔑、差別する傾向(相手の心情や人権に配慮する優しさや相手の立場に立ってみる想像力が乏しいならば、という条件つきではありますが、こっちの方が簡単で楽ですよね、きっと。)」。
そして「摂食障害」のところを「患者」「人種」や「障害者」「国」「貧富の差」「性」等々、いろんなことに置き換えても成り立つような気がします。
 ただ一方で、前のコメントにも通じるのですが、相手を理解、共感する人ばかりが存在する社会は、どうにも動けなくなって滅び行くような気もするのです。

 私、思うんですけど、自分にはよく分からない反応の仕方をする人について「この人はどうして○○○するんだろう」という方向からアプローチすると泥沼にはまるのではないでしょうか。
逆に「この人は△△△だから(その結果)○○○するんだろうな」と考察するほうが落ち着くところに落ち着くような。
少なくとも私の場合は、ですが、そのように考えることで自分には理解できない他人の言動に対して少し楽に、上手に(というのは冷たい言い方でしょうか…?)対処できるような気がしています。

何度もすいません。投稿してから気が付いたんですけど、このアプローチの方向って、「過食との付き合い方」と同じですね!?
ノラさまもいつもおっしゃっているけれど、摂食障害って、凄い!このような気づきをももたらしてくれるものなんですねっっ(っと、一人で嬉しがって、興奮しつつパソコンに向かっている平和な夜…ノラさんのサイトに出会えて本当によかった、としみじみ思っています。)

とりあえず「自分がどうするか」という風に考えていくときと
「社会に対してどうするか」という風に考えていくときと
私の感じではちょっとアプローチがずれるんですけども
やっぱり社会を意識して発言する時ってなんとなく、諦めたくないんですよ。
「わかってもらえない人にはわかってもらえなくていい」っていうのは
ファイナルワードで、それを初めから言ってしまったらいけないんじゃないか、
っていう思いがあって、
だから時々「おまえは頑固だ!」というようなご指摘受けながらも、
真摯に受け止めながらも「でももうちょっと頑固なままでやってきます、私」
っていう気分でいたりするんですよね。

(個人のケースでは「相手に見込みがなくて危険なときはすぐ逃げてください」、
って実は思ってますけど。)

って、またEさまのコメントの筋とずれてしまってるかもしれません。
なにかちょっと想定しているケースが違うかもしれないなあ、と漠然と思いながら書いてるんですけど。
ごめんなさーい。違うかしら?

 いえ私もノラさんがブログで繰り返しおっしゃっていること、もっともだし、「当事者」の立場の人々がもっともっと「私たちは異常じゃない!違うんだ!」と声をあげることは、社会に大して大変大切なアプローチだと思うのです。「決め付け」てくる人々だって、その程度はさまざまでしょうし、中にはノラさんのブログを読んで「あれ、こういう摂食障害者もいるんだ」って気が付いて、そしてその積み重ねがいわゆる「一般にこういわれている」という「決め付けの素」をゆっくりと、少しずつそれこそ何年も、何十年もかかって変えてゆくかもしれませんし。

 私が言いたかったのは、「なぜ話が聞き入れられないのだろう」ということに対して、そうする側の立場や考え方ってこうじゃないかな、ということと、そういう性質も(個々でそんな人たちに決め付けられて辛い思いをする場合がある一方で)社会にとって良いほうに作用することもあるので、仕方ない部分もあるのでは?ということなのです。


 余談ですが、私はノラさまのこと、「頑固」だなんて感じたことは全くありません。「自分の意見や意思をしっかり持った、自分で考える方だな」とは思いますが。
ノラさんを「頑固」というのなら、「素直」というのは「限りなく従順で自分の意見を持たない」と同義ではないか、とすら思います。(あくまでも私の感覚なので、他の方がどう感じるかはわかりませんし、どういおうと感じようとそれも個々の自由であり、個性だとも思いますけれど。)

 何だか、こうして「意見の交換」ができるのって楽しいです。お会いしたこともなければ、声を聞いたこともないのに、私勝手にノラさんのこと、「友人」のように感じています。考えてみると不思議です…。

「社会にとって良いほうに作用」というのは、具体的には、
今私が当事者としてちょっと「?」を感じるような、親子関係原因説とか、自我の未発達説みたいなものも
今までのところ沢山の人たちを実際に治してきたんだから、問題があるように見えるところがあっても、とにかくそれはあって良かった、ということなのかなあ?(すいません、普段と違う方向から考えてるため、なかなか飲み込めなくて^^)
それと差別的な人というのはどんな世界にもいるのだから、それは受け入れた方がよい、という、おっしゃられているのはその二点、なのかしら。

実際問題としては、対象が何であれ、差別のない社会というのはおそらくありえないだろうから、「差別のない社会はない」という認識から出発するほうが現実的かもしれないし、
差別が社会を安定させて秩序を守る、というケースは実際にありますよね。

ただその差別が自分(あるいは誰か)を不幸にしている場合、
差別そのものに対して諦めたり、理解を示したりすることは、
「自分の首を絞めている差別に自分で加担する」ことになるんじゃないかな、
ってことも思うんですよ。

すいません、本当、まだ分かってなかったらごめんなさい。
(書いてて私頑固だな、と思います^^。
なにせ小学生の時から保護者と教師に囲まれて「お前は頑固だ」って締め上げられてましたから。今思うと恐ろしい構図ですけど^^)

なんだか込み入った話と理解の遅い私にお付き合いいただいてしまってすみません。
なんだ、うん、難しいぞ、これ(笑)

なかなか白熱してきましたね(笑)

 いえ、私も「差別」そのものには反対です。差別する人たちが現実に存在する、という事実は認めますが。

 もともとのお話の「決め付け」についてですが、私はこの「決め付け」というのが「その人のそれまでの経験や本や他者から学習した知識に基づく推定」から端を発し(それが真実かどうかは別にして)「~であるに違いない。」と結論付ける行為だと理解しております。そしてその「推定からその内容が真実の姿だと結論付ける行為」が社会にとってプラスに働くことがあるのではないか、といいたいのです。

 たとえば犯罪捜査。確実な証拠や証言が乏しい連続殺人などで、プロファイリングやら過去のデータ、犯罪学やらから犯人像を想定し、容疑者を数人上げます。犯罪者その人が簡単に容疑を認めるわけが無いので中からさらに怪しい人を絞り込んで厳しく「決め付け」る。ここで容疑者に理解、共感なんかしていたら動けません。真犯人であれば万歳。毎回事件が起こるたびに、まっさらな状態で右往左往しているより、確実に犯人を検挙できるはずです。もちろん「冤罪」ということもあるので、100パーセントではありません。
 それで、ですね。何事かに対して「大抵の場合はこうであろう」と推定する場合。人の性格や考え方、生き方に通じる部分で「絶対に間違いない」と他の意見や事実を全く認めようとしない人(で、こういう人って分からないものを軽蔑、差別して自分の価値観を変えることなく守り抜こうを躍起になるので危険、だったり。見方を変えれば自分と異質なものを認める余裕や強さが無い、とも受け取れます。)から「まあ、一般にそういわれてけど当てはまらない場合もあるんだよな。今回はどうだろう」と柔軟に対処できる人まで、本当にさまざまだと思うのです。その「さまざま」を受け入れるべきでは?と。
 決して間違った「決め付け」をされても仕方ないから(そういう人は何を言っても無駄だから)唯々諾々と「決め付け」られていようよ。ということではなくて。
だから「私は違う。」と声を上げることは大切だと思うのです。その声一つ一つが「データの一部」となって「説」が変わっていく気がします。

 私、「世界は点描画」だと思うんですよ。自然の生態系にしても、人間社会にしても。個々にう~んと近づいてみると分けわかんなかったり「どうしてここにこんな色が」って、意味不明、脈絡無し、時には反発しあってさえ見える色の点点でしかないのが、画面全体を遠くから眺めると、びっくりするような美しい絵画で、どれ一つなくなってもその絵は精彩を欠いたものになる、というような。
きっと、共感も理解も、決め付けも偏見も。喜びと悲しみが両方あってこそ味わい深いように、陰陽、善悪、個々の人生や社会、地球上の全ての営みの中で大切な役目を果たしているのかもしれないな、などとぼんやり考えたりしています。

すみません、なんかうまく論点が絞れなくて。
私、どうしてもこのサイトで自分が何をするのか、ってことを踏まえて話ししてしまうものですから、
もしかしたら視点がEさんと違って、なにか別の話になってしまってるのかもしれないんですが、
「私たちは違うと声を上げていく」というのと「社会にとってプラスであるケースもあるから受け入れる」というのと、その二つの間をどのようにしてバランスを取ったらよいとEさんは考えていらっしゃるのか、というのが、私にはちょっとまだ飲み込めていないようなのですね。

私はどういうことを考えてここでEさんとお話させていただいたかというのをちょっとお話しさせていただこうかなと思ったんですけども、
ここを運営していてやっぱり「結局、摂食障害って本人が幼稚だからなるんだよ」っていうご意見も頂くんですよね。
で、それが”摂食障害の人を傷つける”ことが目的の場合は勿論荒らしですから管理人の責任で当然削除するんですけども、
そうではなくて”理解しがたい現象から自分を守るため”に摂食障害そのものに目を向けることなしに闇雲にとりあえず軽蔑してしまう、というケースもあるんです。
そうなると、言ってることの内容は荒らしとあまり変わらなくなってしまうんですけども、厳密に言うと目的が違うので、やっぱり荒らしとは判断しないで、私はそういうご意見そのものは削除せずに関わりを持たせていただきたいんですね。

このサイトをやっていて「わかってくれる人だけわかってくれればいい」ではやっぱり少し意味が薄れてしまうような気がしていて、
あまり公平な目線を持っていない方でもとりあえず摂食障害に関心をもってくださっているのであれば、お話をしていきたい、と思うし、
私がこの場でそういう方とどんなお話をさせていただくのか、ということはそのままそれぞれ摂食障害を抱えた方が家庭の中で行っていることの再現でもあると思うので、そういったところにも意味を見出したいんです。

ところがこれが簡単なわけはなくてですね^^
「しょせん摂食障害者だ」というだけで下に見る態度に出られると
もうそれでコミュニケーションにはならなくなるわけですよね。
こちらが何を言っても「しょせん摂食障害になんかなるやつのいうこと」って言われればそれで話は終わりですから。

で、そういう場合に私はどうしていこうか、というのを物凄く考えるんです。
一番簡単なのは「ま、ああいう人も居るから仕方ないさ」と思って話を打ち切る、そしてその人のことは忘れる、ということですね。
一番簡単じゃないのは、向こうがこちらに関心を持ってくれている限りはどんな軽蔑に対してもずっと反論しながらとにかく着いていく、ということです。
関心を持ってくれている限りは理解の可能性はゼロではないわけですから。
ところがこれがまた全然容易じゃなくてですね、
自信なくす、腹が立つ、投げ出したくなる、ののしりたくなる、など
サイト閉じたいくらい、腹の底が揺さぶられるわけですけども。

ただ「自信なくす、腹が立つ、投げ出したくなる、ののしりたくなる、など」の葛藤にとても覚えがあるのは、私自身が摂食障害をやっていて、その事実を自分で「仕方ないよ」って受け入れるまでに、まさにちょうどこの七転八倒の苦しみがあったんです。
それを今私はこの場で、もう一度経験しているんですよね。
だからその「理解にいたる苦しみ」っていうのは意味があるんじゃないか、っていうことを考えるんです。

それからもうひとつ、その「なぜか軽蔑してかかるけど、でも関心はもってくださっている人」というもおそらく、私の言葉を見ながら「自信なくす、腹が立つ、投げ出したくなる、ののしりたくなる、など」の葛藤って、腹の中でやってるんじゃないかな、って思うんですね。
「摂食障害を受け入れる」っていうのは「当事者として受け入れる」のであれ、
「そこに何かの縁あって立ち会った者」として受け入れるのであれ、
やっぱりどっちも同じくらい苦しいんじゃないか、と。

だから摂食障害の当事者がたとえ十数年かかってでも、やっぱり最終的には摂食障害を含めた人生を認めて受け入れて引き受けていって欲しいなあ、と願うように
やっぱり「立ち会ってくれる方」にも、苦しい思いをしても時間がかかっても、あるがままに認めてもらいたい、という希望は持っていたほうがいいんじゃないか、って
私はとにかくそのための努力をするようにしようかなあ、みたいなことを
自信喪失しながら最近考えるようになったきたところなのです。(できないかもしれないけど)

Eさんが「社会にとってプラスであるケースもあるから受け入れる」と言う風におっしゃるのは具体的にどういった行動のことになるでしょうか。
例えば、この私のケースの場合だと、どうしても話しが通じないようだったら、今は無理解に出会うのも仕方ないのだろう、ということである程度のところで自分の力量を超えてまで深入りはしないようにする、と言ったような判断のことになりますでしょうか?

すいません、自分のことばっかり考えてるので、うまく話しを展開できないのかもしれません、私^^。
結構ここのサイトのことで頭一杯だったりなんかするものですから・・・。

親愛なるノラさま

 本当に真摯に打ち込んでいらっしゃるのですね。サイトの管理をしている方と、単なる一読者では視点が違うとは思うし、ノラさんが「どうしたいのか、何をしたいのか」によっても変わってくると思うのですが。

 私、基本的に「人は自分の聞きたい事を聞き、信じたいことを信じる」し、「一人ひとりが違う個性を持った存在である」と思っています。だから、「受け入れる」というのはまず「事実とは違うことを決め付けてくる人も世の中には確実にいるのだ」と認識すること、偏見や差別に加担しようとはしませんし、「違うものは違う」と、できる範囲で行動したり発言したりしますが、そういう人の考えを自分の力で変えようとむきにならずにあるがままにしておく、必要以上に相手にしない、ということを意味しています。「わかってくれる人だけがわかればいい」のではなくてそもそも「わかってくれる人しかわからない」ものだと思うのです。それがお互いを尊重する、ということでもあると思うのです。(相手から見たらこちらこそが「あんたの信じていることは全くの間違いだ。ぶち壊してやる。あんたが考えを変えるまで戦うよ」と言っていることになるのではないかなあ。かといって相手に自分を蔑視させたままお付き合い、お話しするのは自分自身に対して失礼で、自分を大切にしているとはいえない、と。) 

 ノラさんはこのサイトを立ち上げ、毎日記事を書いていらっしゃる。記事の内容からしても、これだけでももう十分「摂食障害といっても従来言われているような劣った、異常な存在ではないのだ」と社会に対して声を大にして訴えていると感じています。
 ここにノラさん宛てにメールが来ます。それに答える場合。それは「社会」に対してではなくて「メールを出した個人」に返事をする、ということになりますよね?で、この「個人」というのは本当にさまざまである、と。話が通じる人と通じない人というのは確実にいると思います。
 ノラさん、そもそも「所詮摂食障害」と軽蔑してくる人、決め付けてくる人の中で「明らかな荒らし」と「軽蔑しつつも…云々」の境界はどこにあるのでしょうか?世の中には猫の足を一本づつ切り落としてゆっくりと殺して楽しむ人もいます。ストレス発散するために寝たきりの老人の爪に針を刺して逮捕された人もいます。キチンとまじめに返事をくれる女性ブロガーにひどいメールや軽蔑を投げかけて反応を楽しむ人はいないでしょうか?
ノラさんは、軽蔑しつつもその方自身も「立ち会う者として」理解に至る苦しみを味わっているのではないか、とおっしゃる。そうかもしれませんが、それはノラさんに対して失礼な物言いや侮蔑を与える免罪符にはならないと思うのです。もっと言えば「理解したい」のではなく「八つ当たり」して鬱憤を晴らしたいだけかもしれない。それはその本人だけにしかわからない…もしかしたら本人もよくわかっていなくて、無意識のうちにわけが分からずにそうしているのかもしれない…。
私は実際にノラさんと他の読者さまのやり取りを(このブログ以外での)見ているわけではないのであくまでも推定に基づく文章です。でも、そういう人もいるかもしれない。
その中でさてどうするか。そのバランスのとり方を決めるのはもちろん、他ならないノラさんご自身だと思います。でも私なら、最初のコメントの通りです。「完全に諦める、というのではなく、相手を見、引き際を見極めつつできる範囲にとどめる」と。
 ノラさんは「摂食障害者やその家族のカウンセリング」を仕事としてお金をもらってしているわけではないですよね?毎日何人、何十人の方とやり取りをなさるのでしょうか?それがどんどん増えて、何百人、何千人、になったら?今と全く同じように対応できますか?
 私は何事をするにも、「まず自分」だと思います。ノラさんご自身がご自分を心身ともに大切に、尊重していたわって、その上でそれを軸にできる範囲のことをなさればもうそれで十分だ、と思うのです。
 以前頂いたメールに本当に「摂食障害は十人十色だ」と書いてくださいましたよね。理解、治癒に至るまでもそれぞれの過程、それぞれの苦しみ、それぞれのやりとり、があると思います。その全てをノラさんとメールを送ってきた方とで再現することはできないのではないでしょうか?その方のそばにいる摂食障害者とノラさんはどちらも大切な存在で、でも全く違う人間でしょうから。

 ノラさんがおっしゃっていることの答えになっているでしょうか???私、視点が一般論的、抽象的すぎますか?

Eさん
ありがとうございます。
おっしゃっていただいたことの内容がやっと分かりかけました。
確かに、何の専門的な知識があるわけでもないのに暴走しすぎているという自覚はあるんですよね。
「カウンセラーでもなんでもないのにえらそーなんじゃないか」という声との葛藤というのも常に自分の中にあって、いつもかなり悩んではいるんです。
今私にとって一番の問題というのは「自分の能力の限界を知らないのになんでもやりたくなってしまっていること」だというのは確かなことです。
これは人に良く思われたい、とか褒められたい、とかありがたがられたい、というような自己満足の欲求なんですよね。

ただ自分の中に「諦めたくない」という気持ちが強くある、というのは確かなことで、
その気持ちが見当違いなものなのかどうかというのは、よく考えないといけないことですから、この話題は一端ここで終わらせていただきますね。ちょっと考えてみようと思います。

いつも鋭いご指摘いただきましてありがとうございます。
今回のやりとりはEさんの心にはご負担だったのじゃないかと思うのですけども、
私のために長くお付き合いくださってありがとうございました。
前回のメールの件といい、個人的にもご心配くださって、いつもありがたいと思っています。
本当、すみませんね、オーバーヒートしてしまいまして。
凝りずにまた遊びにきてくださると嬉しいです。

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