「食べない心」と「吐く心」 レビュー
母子関係に摂食障害の原因を求める説です。
摂食障害に関連する本の中でも
かなり広く読まれているものではないかな、と思います。
私がこのサイトを通して自分の意見としていっているのは
「母子関係に摂食障害の原因がある、
というケースは勿論あるだろうけれども、
それでは全ての説明はできないし、
摂食障害=親子関係に問題がある、という決め付けは偏見だ、
ということをものすごく大きな声でいいたいんだぞ」
というのがひとつあるわけですね。
なのでちょっと批判的見解を書きます。
この本で救われた方もいっぱいいらっしゃるでしょうし
この本を支えとしている方もいらっしゃるでしょう。
私がどう思おうがその「救い」は間違いなく得がたいものです。
これから私が書くのは、
あくまで「私はこう思う」という話になります。
まずこの本の第一の主張としてあるのが
摂食障害というのは「幼少期の”心の傷”が”癒し”を求めるサイン」である、ということです。
そして摂食障害に悩んでいる人は
「おそらく今まで誰にも理解されたという実感を持ったことがなく」
「”孤独”をずっとかかえてきている人」であり
そして摂食障害の治癒とは
1、「心の傷」を癒す
2、親の愛情を受けなおす
3、「自我」の再構築をする
4、親から謝罪を受ける
という四つを行うことで可能になる、とされています。
この本自体、私は非常に読むのが辛くて何ヶ月も掛かってるんですが、
まず全体的な感想としては、
「子ども扱いされる感じが嫌だ」というのがあるんですね。
本文中にこんな文章があります。
摂食障害にはなっているけれども、幼児期に精神的なショックを受けていない、思い当たることは何もない、というかもしれません。そんな人でも両親の関係、母親、父親と自分の関係が必ずしも円滑なものでない、と感じていると思います。それはもともとの心の傷を忘れてしまっただけなのです。
とりあえず、こちらが何を主張しようとも
「お母さんが・・お父さんが・・・」といわれなければならない、というのは
それだけで私はいやなんですね。
人間関係は濃ければ濃いほど必ず後悔は残るはずです。
「家族」という関係の濃さを思えば、
「いくら頭をひねって考えても一つの後悔もない」という関係のほうが
むしろ大変に珍しいのではないかと思います。
注目すべきなのは、
幼児期においておいて傷ついたことがあるか、無傷だったか、ということではなく
その「傷」が現在の生活に何か「影響」を及ぼしているときに
その「影響」をそのまま「維持させてきた」という
現在の心の状態の方にあるのではないか、と思います。
そして「原因」が仮に「親」にあったとしても
「維持」させるのは「本人」あるいは「現在の環境」だと私には思えるのです。
少なくても、私は様々な局面で自分の人生を乗り切るために
自分で自分のために過食症という状態を維持し続け、
そして必要がなくなったときにそれは自然に収まりました。
私が過食症を何年維持するか、
そしていつどのようなきっかけでそれをやめるか
ということについては親はまったく関係なかったのです。
著者は親から謝罪を受ければ摂食障害は治る、と言います。
私はそうは思えません。
実は私自身が「あなたの摂食障害は自分のせいである」
というようなことを母の口から聞いたことがあったのですが、
とにかく、非常にいたたまれない思いでした。
自分のことについて母を責める、という立場になるのはとても辛いものです。
そして摂食障害を「私のもの」ではなく
「母のもの」として扱われることも不本意でした。
著者が謝罪を受ければなおる、と考えるのは
摂食障害は「傷の癒しを求める病」と捉えるからですが
私はむしろ自分の体験から、
「可能性の病」であるという気がしています。
確かに私が母の姿を手本とし「私もこういう生き方をしよう」と思っていれば
その価値観の安定の中で摂食障害にはならなかったのではないか、
とは思います。
私が苦しんだのは「新しい何か」を探していたからで
今まで自分が持ってきた価値観、
そして自分がこうありたいという価値観の
相容れないふたつの価値観の狭間のどこでバランスをとろうかという試行錯誤、
見境もなく大量に飲み込み、
見境もなく全て排出し、
という苦しみを繰り返しながら、
なんとか自分自身の新しい価値観の可能性を見つけていこうという創造の試みこそが
摂食障害だったのではないか、と私は思っています。
ただ、それが「手本たりえなかった母のせい」なのかというと話は別です。
価値観はつねに古くなり、解体され
血のにじむ苦しみの中から新しく生み出されていくものではないでしょうか。
「摂食障害にならない娘を育てられる人の方が母親として立派」ということは
ありえないと思うのです。
誰でもそれぞれの限定の中で暮らします。
女であるということも、
娘であるということも、
他ならぬ”この母の娘”であるということも、
全て限定ですが
その中で自分の限定をどう認識し、受け入れ、あるいは解体し、
新しいものを志向していくか、というのは
そこで生きる本人の主体性の中にあるものではないでしょうか。
もちろん幼少期に親から不当に傷つけられ、
親の責任であることについて自分を責めてしまうことから逃れられずに苦しんでいる人
というのは沢山います。
そういった人に対して治療者が
「そのとき起こったことははあなたの責任ではなく親の責任だ」
と客観的に告げることは、
起こったことを正しく認識する上で必要なことだと思います。
ただ、それで全てを片付けようとするのは
あまりにも現実を無視しています。
あまりにも「本人の現在の悩み」を軽視しすぎていると思うのです。
「正しい育ち方をしていれば摂食障害になんかならない」
というのはおかしくないでしょうか。
苦しんでいるのは「今現在を生きている私」です。
「可能性の病」として、私はむしろ
大量に詰め込み、大量に排出しながら
そうまでして自分の中で生まれ出てこうようとしていたものに
注目していたいと思うのです。
自分の摂食障害の原因は親子関係にあったのではないか、
という思いを薄々感じられていらっしゃる方には、
この本は希望を与えてくれるものだと思います。
ただ、親子関係は自分の摂食障害とは関係ないなあ、
という気持ちを持っていらっしゃる方がこの本を読んで
「自分では忘れてるだけで幼児期に傷つけられたのかあ」と
無理やり思い込む必要まではないと思います。



コメント
摂食障害で閉鎖病棟に入院する少し前、この本に出会いました。
私は、この本を読んで自分の症状は親子間の関係にに問題があるからだと勝手に決めつけ、
母親、父親を極端に非難し傷つけ
大変両親に迷惑をかけたことを覚えています。
今思うと、両親たちは私を救おうと努力してくれた面も多分にあったのに、
自分の症状を否定されたことばかりが目に付き
私自身全てを否定されたかのように感じて、めちゃくちゃに反抗していました。
今思うと、私自身はこの本に当てはまるようなパターンではなかったのだと思います。
回復者のケースがたくさん取り上げられているという点では
いい本だと思うだけに
親子間の関係に偏った見方である点が少し納得いかない気はします。
過食は体の栄養不足を満たすことと、うまく自己表現すること
心と体が今求めることを適切に受け止める&補給してあげたりすることが打開策なんじゃないかと思うし。
今できることから変えない限り
症状はよくならない気もしますし。
幼児期に傷つけられたことより
幼児期とか小さいころから今までにかけて、うまく自分を表現する術を獲得できなかったことのほうが問題なのかなぁとも思うし。
投稿者: ema | 2007年05月30日 17:26
emaさん
こういうのはとっても難しいんだよね。
「幼児期の傷が今のあなたの病の原因だ」と断定してもらうことで
楽になっていく人が実際沢山いる、ということを考えると
この記事のようなことを書くのも凄く気をつかうのだけど。。
でもemaさんがご両親に対して気持ちがわーっと湧き出てきて
「過食」とか「批難」とか「反抗」とかで現れてきたのは
それはむしろよかったのじゃないのかな
なんというのか、その点で自分を責めるような気持ちは
必要ないんじゃないかっていうような気はする。
でも原因を「親子関係」だけに頭から限定してしまって
「過去の傷の癒し」以外のことに注意を払えなくなると
それ以外の可能性というものに着目できなくなってしまうよな、って
なんとなくそのへんの「バランス」のこととかを考えてね、
どこに原因があるとしても「決め付け」はなしでいきたいな、
っていうようなことも思ったりしてね。
いろいろ、このあたりのことは書くのが難しい・・・。
>過食は体の栄養不足を満たすことと、うまく自己表現すること
>心と体が今求めることを適切に受け止める&補給してあげたりすることが打開策なんじ>ゃないかと思うし。
>今できることから変えない限り
>症状はよくならない気もしますし。
非常に素晴らしいですね。
その通りだと思います。
投稿者: ノラ@管理人 | 2007年05月31日 15:18
うーん。私もこの本持っていますが、
少々極論ではあるかな?と思っていました。
親にすれば非情に痛い本でしょうし、
病気を持った本人には、発見をくれる気持ちいい本である気がします。
世に出回っている情報のほとんどが母と娘の関係だとか、
不幸を背負った母親の生き写しだとか、
そんなものの結果が摂食障害です。
のように書かれていたりする感じすんですよね。
だから、ノラさんのように過食嘔吐に意味を見出し、
自分の可能性を信じた結果と言うか、
自助努力の果てに治ったってパターンは私には珍しく思いました。
摂食障害は自己責任なのかな?因果応報なのかもしれませんが、
苦しみの渦中にいる人にたいして、
「自分でまいた種だよ」って言われても、
「あぁ、そうか」なんて思えないだろうし、
原因を親へなすり付けてでも楽になれるならば、
それもありかな?って思ったりもします。
そして、言いがかりをつけられて、
耐えうるのは血のつながった親でしか出来ないかな?
って感じたりします。
親でも出来ないかもしれませんが、
他人ではひとまず無理でしょう。
でもまぁ、親の謝罪で治るって疑わしいです。
でも、私がここで使われている「謝罪」の本意として思っているのは、
自分の非を認めるとかじゃなくて、
子が苦しんでいる摂食障害の泥沼の中に母親も飛び込んで、
一緒に苦しみを体験することではないかと思っています。
共に苦しんで、涙を流して、くやしんで。
じゃないかな?
投稿者: guest | 2007年05月31日 16:03
なんか、極端な論に走ってしまってすみませんでした。
ハッキリしたことはあまり言えないですよね(^_^;)
ある意味、自分の症状はオカシイと気が付くのは健康なんじゃないのかなとも思います。
私、酷いときは自分のしていることがちょっとおかしいことにすら気が付かなかったし。
私は自分の中で病気になった理由とかを一生懸命考えていた派なんですが
今は、原因なんて良く分からない。
私の考えてきた、病気の発症の原因は、挙げればキリが無いんですよ(大汗)
でも最近は案外シンプルなところに理由はあるんじゃないかって気がしていて
もしそうだったら、案外あっさり
楽になれる日もくるんじゃないかって思うんです。
気の持ちようかな~(^_^)って、かんじで☆
投稿者: ema | 2007年05月31日 19:20
確かに本人が楽になれるのであれば
どんな方法でもありなんですよね。
むしろ私が注目しているのは
母子関係に原因を求めることで楽にならない人がたくさんいるにも関わらず
その声は充分掬い取られてこなかった、というのをもっと言いたいんです。
親子関係において、親の責任であろうとなかろうと、
いったん批難を全て受け入れる、というコミュニケーションのあり方
というのもたしかにありだとは思います。
ではありますが、基本的には
親の責任であることについて子供が責任を取ろうとして苦しんできたのであれば
その責任を親に返すことによって子は楽になるでしょうが、
親の責任でないものを親になすりつけることによって
子が楽になるとは、私にはとても思えないんですね。
謝罪による癒しについては
たしかにguest様がおっしゃるような意味が主だとは思うんですが、
文中に「たとえば七歳の時にいじめられて傷ついたのであれば、
そのときの相手を連れてきて土下座してもらってでも謝罪を受けるべきだ」
ということが書いてあるんです。
それが非常に強烈な印象で、
どうしても、復讐的な雰囲気すら感じてしまって感覚的に馴染めなかったんです。
「許せない」のであればその「許せない」という現在の心境にこそ着目すべきで
謝罪のある、なしというのは、その次の段階に来るべきことではないか、
という風に思ったので、そういったわけでちょっと批判的に取り上げました。
非常にデリケードで難しい問題だと思います。
投稿者: ノラ@管理人 | 2007年05月31日 20:08
emaさん
あ、いやいや、emaさんは全然極論だとは思いません。
ただ、自分の責任でないところで
自分を責めていなければいいなあ、と思って。
先回りして心配した^^
うん、あっさり楽になれる日がくるような気がしてるなら
それは本当に来る、って私も思う。
特に今のemaさんみたいに新しいこと色々始める時期とかね、
なんか、とっても希望に満ちている感じがするものね
投稿者: ノラ@管理人 | 2007年05月31日 20:17
これは難しい問題ですね・・・
摂食障害の山場をすぎた20代前半、この本みたいな思想を真に受けて、ことあるごとに母親を責めてました。今考えるとほんとうに申し訳ないことをしていました。いや、両親の育て方の問題が全くなかったとはさすがに思いませんけれど、もちろんそれだけじゃないし、また、彼らの育て方にしたって、彼らなりの最善で、彼らの事情を鑑みるにそれ以上できなかった、ということもあるわけで。そして、謝ってもらっても、わたしの場合何も解決しなかったんですよね。いや、そうやって聴いてもらうというのは、あるいはなにがしかの意味を持っていたのかもしれませんけれど。たぶん、娘があからさまに摂食障害にかかったことで、両親はその事実だけで十分苦しんだはずですし、今思えば、多少病態を否認するのも当然じゃないかな、と思うんですよね。当時は許せなかったけれど。
うん、それで一時的にせよ救われる人もいると思うけど、こういう説が流布することでかえってたいへんな目にあった当事者&親はたくさんいたのではないかな、と思うわけです。もっと、なんて言うかな、現状を肯定できる方法で、状態をよくしていくことが、できるはずだよね、と。
投稿者: Noko | 2007年05月31日 20:19
こちらでははじめまして。先日はコメントありがとうございました。
私はこの本に救われた一人です。私も母との関係に苦しんでいたので、この本に出会ったことで心が軽くなったことを覚えています。
だけど、母が絶対的に悪いと思ったことはありません。摂食障害の原因はいろいろなことが複雑に絡み合ったことによる結果だと思っています。そこがこの病気の難しさでもあると思います。
まとまりの無いことを書いてすみません。ノラさんのブログ、ゆっくり拝見させていただきますね。
投稿者: のり | 2007年05月31日 22:12
Nokoさん
難しいですよね。
私も何の憂いもなくすくすく育ったとはさすがに思いませんけど
「摂食障害になった、さあ親のせいだ」と思おうとすると
居心地の悪さを感じる。
うん、そうですね、もっと肯定感が欲しい気がします。
摂食障害は、もっと積極的な病として捉えていっていいんじゃないか、って
そういう気持ちがあります。
でも、本当にこの種の本で救われる人が少なくないことを思うと
言い方もとても難しいと感じます。
>今思えば、多少病態を否認するのも当然じゃないかな、と思うんですよね。当時は許せなかったけれど。
ああ、これは本当にそうですよね。
本人が必死なのと同じくらい回りにとっても必死な問題でありえますものね。
確かに渦中にいては許せませんけど。
(あ、話かわりますけど「心を知る技術」と「食べ物さん、ありがとう」
あっさり買っちゃいました。楽しみ。)
投稿者: ノラ@管理人 | 2007年06月01日 07:42
のりさん。
こちらこそ、遊びにきていただいてありがとうございます。
そうなんですよね、長い間うまく表現されてこなかった気持ちを
この本が代弁してくれる、というケースでは光を見つけたような感覚になりますよね。
親子関係って客観的にみることが非常に難しいですから、
おかしいことについては誰かが客観的に「おかしい」と判断してくれることって
凄く救いになると思います。
今回私が書いたのは自分自身をケースとして、
「親子関係が原因だと決め付けられることに違和感を感じる」
という意見なんですけども、
摂食障害というものを実態どおりに理解していこうと思えば
のりさんのように、この本によってこそ救われた、
というご意見も、やっぱり同じくらい重く扱われるべきと思います。
貴重な書き込みしていただいてありがとうございました。
投稿者: ノラ@管理人 | 2007年06月01日 07:49