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2007年06月28日

下にあるのはダイエット情報誌FYTTEより引用した摂食障害の誌上相談の内容です。

「情緒不安定で、脱力感と気だるさに悩まされる毎日です。打ち込む目標があるにもかかわらず、寝ても覚めてもいつでもどこでも、頭の中身は食べることでいっぱい。  私は現在身長160センチで45kg。いつも太るのが怖くて、食べたい欲求を満足させるまで食べ、そのあとトイレで胃液が出るまで吐き出します。以前から普通に食べても吐くというパターンを4年ぐらい続けていて、今は限度なく食べるのでノイローゼ気味です。彼とのデートのときも何をどれくらい食べたらいいか決められないんです。  何も手につかず、一日中ダラけ、緊張感もなく、興味は食べものだけなんて生活から早く抜け出したいのにきっかけが見つかりません。このまま、落ち込んでノイローゼになりそうでこわいのです。」

この投書にたいして著者はこの相談者が「ノイローゼになりそう」
であることを心配していることに対して注目をします。
「今、すでに」ノイローゼの状態にいるにも関わらず、
彼女にとって心配なのは「今」ではなく「ノイローゼになる」ことである、
という点に関して取り上げている著者の考察を引用します。

「ノイローゼ」という言葉で彼女がどのような状態を想像していたにせよ、それは明らかに決定的な不適応、社会からの脱落、逸脱、のイメージであったろう。
そして彼女が恐れているのは逸脱と不適応であって、「どうして自分はこのような状態になったか」といういまの自分のありさまへの関心はない。
おタクたちが「どうしておタクになったか」と訊かれても絶句するであろうように、彼女は「いま自分がどのような状態であるか」よりもずっと、「今にノイローゼになって社会生活の不適応者になったら」ということだけに恐怖を抱いているのだ。
これは何を意味するかといえば、もっと端的に言うと、彼女は「自分自身に対して興味を持っていない」ということである。
 彼女は自分を愛していない。
だからいま自分がどのような状態にあろうとかまわないのだ。
だから社会から自分が拒否され、はじきだされることを異様に恐れている。
もし自分に対して本当の興味と憐憫が持てたならば、彼女はおそらく「ノイローゼになったら困る」からではなくて、いま「快適でない自分」をどうしてなのか、その原因をつきとめ、もっと自分を快適にしてやるために努力しなくてはならないと感じるだろう。
自分がいまどのような状態になるかをちゃんと知るためには、自分が快と感じているのか不快と感じているのか、それはなぜなのか、自分のせいか誰かのせいか、どうすれば自分は快適と感じることができるか、自分は何を欲し何を欲さないか、ということを全て自分自身で知覚できなくてはならない。

事態が絶望的であればあるほど、状況を変えようと試みるのは困難になることを
私は身にしみてよく知ってるし、
そしてそうやって本質的な状況を変えたくはないのだけれど
それでも何か努力をしていたくて、
状況を変えてくれる魔法の何かがあると信じたいがゆえに
結局は効果のない、キャッチコピーだけの古典的なダイエット法が
いつもいつも売れ続けるのだという仕組みも、体験的に知っている。

状況をできるだけ変えないで、でも「努力している」という安心感と
「この苦しみはいつかの救いのため」であるという手の込んだ自罰感は欲しい、
という出口のない袋小路に入っていて二度と出てきたがらないのは
快適で安らいでいて自分を信じている、
という経験が殆どないから怖いのだ、と思う。

ダイエットをやめたあとの世界は新しい
極端なはなしが、はじめて自分が生き物だということに気づくのである
生きている限り心と身体が一致団結して
可能な限り「快適」なほうへ向かっていこうとする
私自身はそのどこにもふたをしない、だけである
自分が生きる「権利」のある生き物だというのは全く新しい発見だ

一方で、自分は変わっても世界は変わらない
太ればいちいちチェックされ、痩せれば褒められる。
ところがそういうまなざしを「傷つくから止めて欲しい」
というだけのボキャブラリーを私たちはこれまで学んできたことがない

一体、人と人とがコミュニケーションをするときに
「それは不愉快です」なんてことを果たして言えるもんだろうか
相手が怒って、許してくれなかったらどうするんだろうか
そんなことをするより、
ノイローゼになってでも痩せておくよっぽど楽なのではないか?

「太ったな」という言葉は「生きている価値がないな」という意味ではないことを
判断できるだけの自信を身につけなくてはならない
人間関係がうまくいかないのは身体に贅肉がついているからではなくて、
どこかでコミュニケーションがすれ違ってしまっているのだという苦痛を認めなくてはならない
そして必要あらば「痩せてるほうがえらい」という無言のプレッシャーに対して
「自分はそうは思わない」といえなくてはならない
どうやって、そんな気の遠くなるほどのトレーニングを積むのだろう

著者はあとがきでこんなに面白いことを書いている

私はやっぱりヘンタイだと思いますが、ヘンタイは楽しいです。あなたそんなにマトモって面白いですか?道を踏み外さないとそんなに安心ですか?
--中略--
この本のなかで書いてあることは、ひとことで云えば、いまの世の中、ヘンタイにならんで生きてゆけるほうがどうかしてるんだぜ、ということです。
また、ヘンタイの底に希望が見える、というようなお話でもあります。
私が一番怖いのはマトモな人です。
私が一番キライなのは偉い人です。私が何より苦手なのは立派な主婦のかたと自信たっぷりのおっさんです。
そういう人、つまりは由緒正しいお父さんとお母さん軍団のために私たちはこんなに苦しまなくてはなりませんでした。

ヘンタイの底に希望が見えるそうです。
(この著者さんは今流行りのBOYS LOVEの礎を作った人です。)
私も、摂食障害の底に可能性が見える人です。
そして、わたしもちょっと思ったことがあります。
「マトモな人たちばかり鬱病にも摂食障害にもならずせっせとマトモな社会を作って、
マトモでない人たちを締め出すことに集中している。」
という感じ。

たぶん、「マトモになるため」であれば
わざわざ摂食障害という適応から「治る」必要はないんですよね
「マトモ」になるために、この痩身崇拝社会に丸腰で一人立ち向かう、なんて
そんな希望も何もない、おっかないばかりのこと、しなくていいんじゃないでしょうか。
正論の好きな家族を喜ばせるためになら、
そんな危ない綱渡りは、しなくていいと思います。

きっと、摂食障害の底で、別の方法を見つけた人というのは
自分が今、苦しいことに気づいてしまって
そして生きることはもっと楽しいんじゃないかという気がしはじめたから
だから自由を求めようと思いついたのだし
だから不当な迫害に対して「怒る」ことを覚えたのだと思います。

あなたそんなにマトモって面白いですか?
いいですね、これ(笑)

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めちゃモテ考
ダイエット症候群という病

2007年06月27日

ダイエット症候群について論じる本著の中に
FYTTEというダイエット情報誌の摂食障害に関する特集について
考察する文章があります。
過食嘔吐に四年間苦しんだ、という人の相談と、
それに対する専門のドクターの回答が引用され、論証されているのですが
ここではその相談に対する専門家の回答を見てみます。

「過度なやせ願望も、みんなからかわいがられたいという自己愛からくるもの。いつも、だれからにも好かれるためには、美しくなくちゃいけないし、そのためには太っちゃいけない--そんな気持ちが無意識につのり、太るのがこわくなるのです。  吐くから、限りなく食べるという無茶苦茶を平気でできるのです。吐かなければ、胃袋に入る量は限度があります。このような場合は、やせているのだから、とにかく吐かずに食べ、生気を取り戻すこと。脱力感と気だるさに悩む女性なんて美しくありません。」

こういう正論は、実によく見かけますね。
雑誌やメディアでもよくみかけるし、
家族や友人、医者なども、
こういう、「親切で正しい」ことをよく言ってくれるものだと思います。

でも、読むと気落ちはしますね。
「そんなこと本人が一番わかってるんですけど」
「わかってるならやれよ」
「はい、すいません」
っていう話の流れで、正論の勝利で終わってしまうことが明らかなので。
「どう考えて正しい言い草」に反駁するのって、相当に困難なことです。

さて、このドクターの模範解答に対する筆者の論と考察を見てみます。

問題は、「みんなからかわいがられたい」というのが「自己愛」かどうか、ということだ。
自己愛というのは文字どおりにいうなら自己を愛することである。
自己をほんとうに愛することのできる人間ならば、「みんなからかわいがられる」ことを病的に求める必要などないのである。
 自己愛であるのではない。彼女たちにとっては逆に、「みんなからかわいがられる」良い子、「だれからも好かれる」子であることだけが、彼女の生き延びるための方法であったというのに過ぎない。彼女はまったく自分を愛してなどいないのである。
自分で自分を愛することができないからこそ愛してくれる人をもとめなくてはならない。むしろ摂食障害の基本テーマは、いかにしたら彼女たちが真の意味での自己愛をもつことができるようになるか、ということなのだ。

彼らが真に求めているものは、「自分を自分のまま」「あるがままの自分」を受け入れてもらい、それを「選んで」愛してくれることである。今の状態はそのまさに正反対の状況にある。彼らは選んでもらうため、合格するために、与えられた規範の形に自分の身体と心をおしこみ、そこからはみだした部分をけずりとろうとあがく。それは「自分でないもの」にならなくてはならない、というあがきである。そこには「自分のあるがままの自分」では決して愛されないはずだ、という絶望的な確信がともなっている。
 一体彼女たちにそんなように信じ込ませたのは誰なのだろう。それこそは、「誰にでも」愛されなくてはいけないのだ、という共同幻想を作り上げた、社会の構造そのものであった。

現代において、人々は対人関係のなかでのみ生きている。
対人関係のうまくゆくことが英雄である、対人関係に対して勝者であり、「だれにでも好かれ」、いつも好感を持たれること、バレンタインでたくさんのチョコをもらえること、モテること、不特定多数の異性からのプロポーズを受けるような存在であること、すなわち異性から人気があること--多くの他人から好感を持たれれば持たれるほど、その個人の個人としての居場所はおおきくなる。
--中略--
量の論理が私たちを支配するのはこのようにしてであり、選別がこれほど私たちにとって重大であるのは、他に私たちには居場所がないからだ。


「みんなから愛されようとするのなんかしんどいからやめて、
もう身の丈にあったところでボチボチ暮らしていきますわ」
という風にはなかなかいえない状況を私たちが持っている、
ということこそが問題なのであって、
「みんなから愛されたいなんて突飛な考えがアサハカなんですよ」って
そんなまっとうなこと言われても
どっちにも動けない、という現実が確かにあるんですよね。
みんなに愛されなくちゃ。

「分かるけど、それでもどうしても痩せたい」
という声を実に毎日私は聞くわけで
つまりそっちの方がずっと大切なのであって
私ごとき一人の人間が
「窮地に陥ってドタバタしている間に
気が散って摂食障害がいつの間にか治ってしまいました」という
「いかにしてややこしい人生をやりくりしたのかに関する体験談」なんかよりも
もしかすると現在と未来にとっていっそ本当に大切な意味をもつのは
「分かるけど、それでもどうしても痩せたい」
という断末魔の叫びの方なのかもしれず
私たちはやっぱりどうしたってここから出発すべきなんですよね。
「分かるけど、それでもどうしても痩せたい」という、大きなテーマ。

生き延びるためには「誰からも愛されなくてはならない」と思っていた。

・・・・思ってます。そういえば。
摂食障害から離れた今でも相変わらず私も思っています。

私の話でもなく、一時期拒食症であったこの著者の個人の話でもなく、
引用文のドクターが出会った「治療した患者さんたち」の話でもなく
「今」ダイエット症候群であるたくさんの人たちにとって
「なぜ彼女たちは未だに回復することが難しい状況にいるのか」
という、ここで話題になってくるのはもっと大きなテーマです。

ところで、見回してみても「ダイエット」の話をするときに
非常にしばしばセットになってついてくるのが「モテる」という言葉ですよね。
(セットでありながらも、恥ずかしがられ、
大きな声で公言するのははばかられるものでもあるのがミソです。
恥ずかしいのは勿論モテたいなんて「軽薄っぽい」からです。)

ちなみに今、マイクロダイエットの公式サイトを調べてみたら
奇しくも「モテやせキャンペーン」中で、
『今年こそ「食べやせダイエット」でモテやせデビューしちゃお』
『かわいいコはみんな始めてる 夏までに変わるなら今すぐ!』
というコピーでした。泣けます。
こういうふうに書くと、
「食事代わりになんかなるわけがないやたら高い単なるフレーバーつきプロテイン飲料」
でもちゃんと売れるんですよね。
そして買うほうは買うほうで自分が「軽薄」な気がして恥ずかしい気にもさせられます。
私は自分が買ったからわざわざ言ってるんですけども。

モテる、というのは女性向けの情報誌などでは頻出のキーワードで
とりあえず何にでも「めちゃモテ」と書いてあったりするんですが
じゃあ、モテるってのは、どういう状況だ、と言われると
定かなところは誰にもわからなかったりします。

「意中の彼に愛されたい」というのとはニュアンスが違うし、
かといってうるさくて街も歩けないほどナンパされたいわけではないし
(ナンパの数が何かの偏差値だと思ってる節はあっても、
それを「目的」としている人は殆どいないように思う)
愛人業とか二股関係を目指しているわけでもないし
結婚と離婚を渡り歩きたいわけでもないし
コンパの女王になりたいわけでもないし
指名の必要なお仕事をしたいわけでもないし
ヤリまくりたいわけでも勿論なくて(失礼)。

要するに「モテてどうしたい」っていうのは全くないんだけど
具体的な目標ではないだけにかえって漠とした願望は切実でもあって
「ぜひここに居て欲しい」という必要とされる場、あるいは
「ここに居てもいいんだ」という安心感、が欲しいという
軽い語感とはそぐわないくらい
「めちゃモテ」の正体というのは、考えてみれば
実は熟成された疎外感と孤独であるような気もします。

モデルやアイドルのように「みんなに」賞賛されたり
あるいは「この人に愛される」よりも「みんなにモテる」ことが大事だったり
という願望には、もちろんそれなりの根拠があるわけで。

「一般大衆御用達」のお墨付きをもらうことによってのみ
社会の片隅に居場所を見出すことができる「現代」という顔のない時代において、
選別から逃れる道なく退路を絶たれて社会の最下層に位置する
「無名の若い女の子」が社会の中に居場所を探すための苦闘こそが
ほかならぬダイエット症候群である、というのが、
本書における著者の論です。

「こんなこと思うのは自分が軽薄だからなんじゃないか」
と思ってつい隠蔽してしまいますが、
こう解説されると、意味がわかりますね。
若い女の子が「社会の最下層」なのかどうか、まではわからないとしても、
べつに「チャラチャラしたい」と思ってなくたって、
「ぜひともモテておかねばならない」気がするのは、
自分が「モテない若い女の子」なんていうややこしいものになってしまったら
どこに行けばいいのか、わからないんじゃないか、という危惧があるからで。
それは「ちやほやされたい」どころの話ではなくて
「行く場所」がなくなるんじゃないかっていう、疎外感なのかもしれません。

コミュニケーション不全症候群
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めちゃモテ考
ダイエット症候群という病

2007年06月23日

コミュニケーション不全症候群
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この本は非常に面白いことを書いているので
また改めて全体をご紹介するようなレビューが書けたら、
というふうに思っているのですが、
実はなかなか難しくて、一回で飲み込みきれないところも多々あるので
とりあえず今日のところは
印象的だった部分を引用してみます。

著者があるパーティでかなり名のしれた女性の料理研究家と
初めて会ったときのエピソード。

もちろんまったくの初対面であった私に彼女は突然(一部略)寒いわねといい、
べつだん寒いと思っていなかった私がそうですかというと、これまたまったく突然に、
「ああ、あなたはお肉がついてるからいいけどね、私は肉が全然ないから寒い」というのであった。
くりかえすがそのとき私と彼女はまったくの初対面である。
--中略--
 彼女がかつてたいへん太っていて、非常に劣等感があり、厳しい食事療法で20kgの減量に成功した女性で、そのことを本にして有名になった人であるということがわかったのだった。
そこで私の考えたのは、彼女のパーソナリティが異常に外見と体重と美容とに固着しており、人間をたぶんまず自分よりもやせているか太っているか、そのことでしか見られないのだろうな、ということであった。
だからといって初対面の見知らぬ相手にぶしつけなことをいわれて気分がよいわけはないが、しかし彼女は病人なのであると考えなくてはならないのだ。
その病気--それがだからダイエット症候群というものである。
 しかし、すらりとして有名で仕事にも(ダイエットにも!)成功していて、むろん結婚もしていてばりばりと第一線で活躍している、そういう彼女のような女性を見ていて、それが正真正銘心を深く蝕まれた病人である、と思う人がいるであろうか。
また彼女はたぶん病状がきわめて重いので
--彼女の経歴を見てみるがよい。もし彼女がダイエットに成功していなかったとしたら、彼女はむしろあの雑誌の摂食障害の事例の側に載っていたかもしれないのだ。私としては彼女はいまでもれっきとした摂食障害の病人であると思う--
そういう自分の「勝者」であるという確認を、それこそ初対面の相手にであれ、どんなときでもくりかえさずにいられない。
それだけがたぶん彼女のアイデンティティをささえている根拠であるのだからだ。


実は著者はこの本の中にこんな煽り文句を入れている。
「一度でもダイエットをしたことのあるあなた、いままさにダイエット中のあなた、ダイエットをしなくてはいけないかな、と一回でも考えたことのあるあなた、あなたは病気です」

私はこれ、気に入ったんです。
「ダイエットくらいしておかないのは女としてウンヌンカンヌン」という、
物凄くしゃらくさい、滅多に口に出されないけども世にあまねく存在する、
直接口に出されないからこそ余計陰険な、あのおなじみのプレッシャーの全てを
「病気です」って言ってるわけですよね。

無論、煽り文句ではありましょう、過激なだけに色々議論の余地もありましょうが、
でも、私は
「なんて分かりやすいんだろう」って思ったし、
「なんて健康的なんだろう」って思ったし、
「なんて生き生きして聞こえることだろう」って思ったし、
そして何よりも安心感を感じました。
だから、それほどのプレッシャーが、
現に私たちには「ある」ということなんですよね。

さて、上の料理研究家にまつわる長い引用文ですが
これは非常に意味が分かります。
わざわざ失礼な口のきき方をした料理研究家の方の気持ちも実はわかるし、
物凄く理不尽で見当違いな差別を押し付けられた著者の不快も物凄くわかる、
この一幕にまつわる双方の気持ちを
おそらくは殆どの女性が同時に分かる、のですよね。

私自身からして、明らかに標準以下の体重であるときに
自分の前で体重の話をする大柄な子に対して
「好きなものを食べるようにしてれば痩せるよぉ」と言っていたのは、
彼女の食生活に対する何らかのアドバイスという以上に、
おそらくは非常に用心深く隠された、そしてとても巧妙に機会を捉えた
自分の「より細い体」の誇示であっただろう、
というふうなことをこの文章から再認識するにいたり
薄々気づいてはいたのだけれども改めてぞっとしたわけです。
確かにそれは殆ど「病気」とも言える何か、です。

どうして太ることを嫌悪するか、と言えば
あるいはどうして「ありのままの身体で魅力的じゃん」
と心から信じて口にしているにもかかわらず
「でもとにかく自分だけは痩せてなければならない」
と思い込んでいるのかと言えば、
ようするに、この不愉快な料理研究家「たち」から身を守りたいがため、です。

自分ひとりが「かくもくだらない低体重ゲーム」から降りても、
なんと「低体重ゲーム」の方が地の果てまでこちらを追いかけてくる。
勝ち組の料理研究家の姿をして、
あるいはナンパな男の子たちの姿をして、
あるいは親身で親切で情報通の女性たち、
あるいは全くの他人、あるいは家族、あるいは恋人
あるいはテレビ画面の中、雑誌の中、雑踏の中、そして自分の心の中、
どこででも、こちらが降りたゲームでもあるにも関わらず
ゲームのほうで、貴重ないけにえを逃すまい、
と飽くことなく追いかけてくるからです。

一体誰が守ってくれるのか?
ただ「誰かよりも体重が重い」というだけで
まったく何の根拠もなく突然迫害されなければならないという
かくも理不尽なルールから誰が私を守ってくれるのか?
安心するためには「誰よりも」軽くなければならないとしたら
一体、摂食障害以外にどういう道があるというのか?

おそらく、私たちが生きやすくなるための答えは
私たちがダイエット症候群という病「である」ことを知り、それを治すこと。
追いかけられることをやめるのと同時に
追いかけることをやめること。

私たちはダイエット症候群という病であるが
病であると知れば治すことができる、
ということなのです。

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ダイエット症候群という病

2007年06月22日

家族の中の心の病―「よい子」たちの過食と拒食
という本の中に精神科医である著者と拒食症の少女たちとの出会いについて
こんな文章がある

小児科医や内科の医師たちは、親の必死の視線を背に受けながら栄養補給につとめるのが、それに抵抗する女の子たちは、 「お肉をなくして魂だけになりたい」 「この世は汚いから早く消えたい。お星さまになりたい」 などと言うものだから、困ってしまう。 あげくに、手首切りをしたり自殺をほのめかす書き物などが発見されて、 精神科医のお出ましということになったわけである。

この文章が、私は妙に印象に残るのである。
・・・なんとなくピントがずれて感じませんか、これ。
一方で物凄くわかるし、
一方で物凄く、わざとらしい話にも感じられる。

ひとつには
「お肉をなくして魂だけになりたい」
「この世は汚いから早く消えたい。お星さまになりたい」
という言葉は、雲をつかむような、何言ってんのかわけわかんない言い草、の
典型例として出されているものだけど
私は普通に、日常的な感覚のレベルでこの言葉の意味するところがわかる。

いかなるサイズになったって、決して満足のいかない、
痩せて太っても常に批判されてなくちゃいけない身体なんか、
もし消せるものならなくした方が楽に決まってるじゃないか、
ということはこの私にしても凄く普通に思うし

身体というのが嫌悪されたり好き勝手に太らされたり
サイズによって分別されたりする対象にすぎないのであれば、
その身体によって縛り付けられている「この世」はおぞましく
そんなところは遠慮願って別世界にでも逃避してたいよね、
という意味においてこの言葉は
主旨としてはすごくまっとうなことを言っているような気がするんだな。

ところがついでにもうひとつ言うと
全体として言いたいことの意味はよくわかるものの
この「お星さまになりたい」というニュアンスは
何か妙に誇張された「荒唐無稽さ」を感じもする

浮世離れした、お花畑の住民で、穢れない、頭も身体もちょっと弱い少女、
という「おとぎ話の少女像」から抽出してきたような台詞にも見えて
全体のイメージそのものは、私には釈然としないところがあり
この「お星さま」発言は意図的な創作とは言わないまでも
何が別の文脈にたいする”間違った翻訳”なのではないか
というような気が、なんとなくしてしまうのだ

(と、いうのもこの直後に続く文章では、過食の様子を
童話「赤頭巾ちゃん」に登場する狼の様子に喩えたり、
過食の様子を家族に見られたときの摂食障害者の様子を
”ろくろっ首が「見たな~」という感じでにらむのに似てる”
などと表現したり、
全体としても摂食障害という行為について
結構言い放題のイメージで語られているわけである。
いわゆる「問題行動」を、すかさず
名づけたり、分類したり、喩えたり、決め付けたりするのが
この著者に見られる顕著な特徴でもあるように見受けられのだけど
正直言ってコレクションされてるみたいであんまり愉快な気はしないよね、
というふうに、当事者として感じるのは確かだな。)

拒食症と「お星さまになりたい」という表現方法は、
わたしにとっては非常にそぐわないものに聞こえる。
「綺麗」と「汚い」に世界を分ける傾向というのは
たしかに多々見られるようには思うけれど
それは「お星さまになりたい」といったような
いわば「素敵なファンタジーの世界を目指す」ということではなく
この「汚い肉」に不本意にも縛り付けられているのに、
生きている限りは脱出することさえままならないというジレンマに直面して
ぎりぎりのところで生きる場所を探して行き悩んでいるという点で
「お星さまどころの騒ぎじゃない」苦悩を持っている、
という風に私は思っている。

そういう印象を持って読むとどうもこの文章は、
彼女たちが持っている苦しみが理解されないまま
子供じみたファンタジー愛好にすり替えられてしまった文章なんじゃないか
というふうにも感じられてくるのだ。

という、
これは私が私がちらっと疑問に思ったこと、のお話。
私は自分で病識をもつほどに
はっきりと生存上危機的な拒食期というものがなかったし
色々なタイプの摂食障害があるのだろうから
私にはわからないことの方がはるかに多いのは知ってるんだけども
それを踏まえても、なんだか釈然としない気持ちが
残ってしまったんだな

(それで、くだらない言い訳ですけども、この記事は
臨床家の書いたものに対して素人が
「嘘でしょ」って言ってるわけではなくて
これは一般にかなり読まれている本であるってことを考えて
「こういうのが拒食症の一般的なイメージだって思われてるんだったら
ずいぶん違ってる気がするの」
ということを、経験者の立場から言いたいだけの話です。
なんでこんな長い言い訳をしてるかっていうと、
広く読まれている本だけにこういうことを書くと
当然批難が予測されるので、あらかじめビビっってしまったの^^;)

ちなみに件の本そのものは、どうにも他人事に思えて
読み通すことができなかったので、
また時間をおいて再挑戦してみたいと思ってあきらめることにした。

子供のころの記憶だ
私は小学生だった
テレビのニュースで死刑廃止論をたまたまやっていたのを見て
幼いながらに「人間が人間を極刑で裁く」ということに対する不安を
おぼつかなくも口にしたことがある
一緒に見ていた母が答えた
「でも生きていてもしようがないようなやつは殺したほうがいいのじゃない?」

そのとき感じた漠然とした暗い気持ちを
どうやって言葉にしたらよいのかわからなくて
私はずっと長い間、そのときの不安だけを覚えていたのだけど
今ならあのとき感じたことを正確に把握できる

「自分が”生きていてもしようがないやつ”のグループに属していない
という判断はどこからくるの?」
ということが、そのとき私にはまるでわからなかったのだ
私自身も「生きていても仕方ない」という理由で
母のような「絶対正しい人たち」に死刑にされるのではないか

「生きていてもいいやつ」と「生きていてもしようがないやつ」の見分け方を
この世界の誰かが知っているのだ。そして私は知らない。
・・・私はどちらだろう?
「生きていてもしようがないやつ」は決して救われないのだろうか?

母はもちろんいつも「正しいこと」を知っている側であり、常に「裁く側」だった
私はもちろんいつも「悪いこと」をし得る側であり、常に「裁かれる側」だった
その構造は、ただひたすら私が「こども」であり母が「大人」である、
ということに由来するのだと信じていたのだ。
「大人」になれば私も「正しいこと」を知る側になり「裁く側」になるのだろう
というふうに、幼い頃の私は理解していた。
「大人になれば全部わかって、何も間違えなくなるのだ」と。

しかし違うのだ
この「死刑」というやつは「大人」が「大人」を裁く
しかも「こいつは生きていても仕方ない」という
存在そのものに対する裁きが下るらしい、
つまりは「裁かれる側の大人」というものも存在するのだ
そして自分がそれにならないという保証は、今のところない。

一体どうやって母が「絶対正しい側の大人」になったのか
その根拠がわからないことが私をいつも怖がらせた

「大人」と思っていた年齢に近づいていくにつれ
私すこしずつわかったことは
母が「絶対正しい側」でいられたのは
「自分の価値観以外の多様性に対する想像力を持たない」
という自ら決めた思考のルールのゆえに
自分の価値観に自信をもっていたからだ。
「自分は正しくないかもしれない」ということを
考えなければ良いだけだったのだ!

一方でこの私は幼いころから
「自分は正しくないかもしれないということに対する想像力」を
悲惨なほどふんだんに持っていた
その想像力ゆえに私は待っても待っても
「絶対正しい側の大人」に仲間入りできる機会はなく
常に「裁かれて」いて「裁かれること」が不安なままだった

のちには摂食障害、リストカット、売春まがいの行為、
あるいは精神科通いなど
両親の価値観の許容範囲からから遠く百万光年離れた行為を繰り返しながら
私が彼らに「死刑」を宣告されないのは
たまたま血縁にあり20年近い年月をともに暮らしてしまった、
という記憶からくる情状酌量に過ぎないのだろう、
とひしひしと感じていた

「私」が「私」だからではない
「私」がたまたま「娘」だから
だから「絶対正しいこの人たち」によっても、
ぎりぎり生きることを許されているのだ
娘であるという権利によってのみかろうじて生きながらえたこの「私」が
「他人」であれば、きっと今頃「死刑」だっただろう

しかし今度は、持ち前の想像力の中から
ことさら彼らに対する想像力を発揮して見るならば
彼らが生きることは
私が生きる延びることとは全く違った点において
私よりはるかにサバイバルだったのかもしれないのだ
「自分が正しくないかもしれない」などと、
ひ弱な娘と同じようなようことを呟いてひるんでいては
ほかならぬこの弱虫を育て上げることなど到底できないほど
彼らは最初に見つけた道だけを力のかぎり精一杯走り抜けることを
余儀なくされていた人たちなのかもしれない

「私」が「私」だから守り育てたのではない
「私」が「娘」だから守り育てたのだ
好きであれ嫌いであれ、理解できない生き物であれ
良かろうが悪かろうが
とにかくそれは間違いなく「娘」ではないか

私は他でもない「想像力の欠如」と「多様性の否定」によって
強固に安全に守り育てられたこどもだ
彼らは沢山のその他の可能性を暗に否定したのだ

ありえたかもしれない色々の道を否定し
ただひとつありえた今の道だけを唯一と信じ込むことによって邁進した
その長い苦闘の産物がこの娘、
いつも「彼らの価値観に合致しない」ことにおびえていたこの娘、
摂食障害という深い溝の底から、もっと新しい価値観
自分が生き延びていけるほどの多様性への想像力を引きずり出そうとして
かくも暴れまわった「想像力の欠如」の子だ

破壊されて断絶し、何かが新しくなる
ここにあるのは
「死を宣告される病」ではなく
新しい「可能性の病」

2007年06月20日

鏡の中の孤独
鏡の中の孤独

以前ご紹介した「鏡の中の少女」の続編にあたるものです。

鏡の中の少女ではフランチェスカが重度の拒食症になり、
入院し高カロリー輸液の助けでなんとか安全体重にまで増やして退院にこぎつけたところまででしたが、
ここではさらに退院後、実生活に戻ったフランチェスカが太ることの嫌悪の中で、
カウンセリングを続けながら回復にむけて困難な生活を送っていく、という内容になります。

前編のほうが表面的な症状は重く、殆ど死に掛けているのに対して
後編では一応「ぎりぎり安全な体重」で大部分を暮らしているのですが、
それでも本全体としては後編の方が重いように感じます。

前編では「大嫌いなフランシェスカ」を殺し「強い自由なケサ」が生まれ
ケサの思うままに人生を突き進んでいけばよかったので
フランチェスカの心の中では一応辻褄があっている、というのが
危ういながらも一つの安定感なんですが、
後編では、「今のケサ」では生き延びること自体ができない、
でもなんとかして「生きていかなければならないのだ」という
とんでもなくやっかいなジレンマに四六時中ぶつかることによって
フランチェスカの自己同一性そのものが危機にさらされます。

退院後の生活の中でフランチェスカが出会っていくのは
家族療法によるあたらしい家族関係の模索、
カウンセラーとの面談による自分自身との直面
過食嘔吐の友人の突然死、
異性との交流、
など、かなり広がりをもっています。

今回は家族面接の場面について、長い引用になりますが取り上げてみます。

フランチェスカのカウンセラーであるサンディ・シャーマンと
父ハロルド、母グレース、姉のスザンナ、そしてフランチェスカで行う家族面談です。
家族の一人一人がフランチェスカの拒食症によってどのような影響を受けたのか、
が面接の話題とされます。

「シャーマン先生、妹は自分がどんなふうにみえるかわかっているんですか?」
スザンナが尋ねた。
「それはケサが狂っているんじゃないかという意味かな?」
「そうは言ってないわ」
スザンナは抗弁した。
「いや、あなたはそう言ったんですよ。それにその指摘は間違っていません。」
 サンディはみんなの顔を見渡した。誰もが焦点の定まらないような目になった。もうこれ以上直視できないと、このいまわしい論争の場から退却してしまったのだ。ケサは誰よりも、静まり返ったこの場の静けさを感じていた。
 シャーマンはしばらくの間をおいてから、おもむろに口を開いた。
「確かにケサは気が狂っているように見えるはずです」
沈黙。誰もがひと言も発しないということが、シャーマンの指摘を認めるかたちになった。
「ケサが狂っていると認めてしまえば、あなたがたはあまりケサに多くを望まなくなります」
彼は説明を続けた。
「そして、その方がみなさんはもっと我慢強くなれるでしょう。ケサが脚をなくしたのであれば、走れるなんてことは期待しません。ケサは一時的に正常に食べることができなくなっています。生命に関わることであってもそれができない」
 シャーマンは患者の方に顔を向けて言った。
「そうだね、ケサ」
家族の面々はケサが『狂っている』という指摘に反対してほしいと願いながら、ケサが口を開くのを気づかわしげに見守った。
「違うわ。違うと思う。とにかくまだ狂ってなんかいないわ」
「そうか、だったら今のところ、ちょっぴり狂っていると言っていいんじゃないかな」
「そう言えるかも・・・」
ケサは口ごもった。屈辱感も敗北感も感じなかった。それよりすべてが明るみに出てうれしかった。
「娘は、狂ってなんかいない、ただ問題を抱えているだけなんだ」
ハロルドは反発した。
「お父さん、もしお嬢さんが狂っているとしたら、あなたは違った接し方をしますか?」
「ほとんど期待しなくなるでしょうな。救いようがないと感じるだろう」
「私がお尋ねしたいのは、そういうことじゃありません」
サンディはおもむろに続けた。
「お父さんがおっしゃったことは、どう感じるかですよね。わたしがお聞きしたいのは、どう接するのか、もしお嬢さんの気が狂っていると思ったら、あなたはお嬢さんにどういう態度で接しますか?」
結局のところは、娘は狂っているのだろうとハロルド・デートリッヒは思った。涙で目が潤んできた。
「そうですな、おそらくそんなに腹も立たなくなって、もうちょっと辛抱強く・・・しかし、わしは娘を狂人扱いしたくないんだ・・・そんなことをしたら娘を本当に狂人にしてしまうことになるんじゃないのかね?」
「ちがいます。むしろお嬢さんを守ってあげることになるんですよ」
シャーマンは質問したときと同じように穏やかに答えた。
「守るってなにからですか?シャーマン先生」
グレースが聞いた。
「あなたがたの怒り、あなたがたの失望、あなたがたのお嬢さんに対する拒絶からですよ」

この文章は、ちょっと面白いことになっています。
回復を確信して、とんでもなくこんがらがってしまった糸を辛抱強く解きほぐす
という気の遠くなるような忍耐のいる共同作業をしている当事者二人、
サンディ・シャーマンとフランチェスカが、「狂っている」と主張し、
一方、その周りで「治る」という確信をもてないままオロオロして
フランチェスカをもてあましている家族が「狂ってない」と言いたがっている、
という一見あべこべに見えるような状況なんですね。

以前、「摂食障害は病気か」という記事を書いたことがありますが
それに近いところがあるように思います。
この記事で取り上げたのは、摂食障害者に「病者の役割」を着せることで
自分と周辺の人間の中の役割意識を変えることを大切なことなのだ、という意見です。
患者にとっては「治す」ことがその人の責任となり
周囲の人は「治療に協力して早く回復してもらうこと」が責任となります。

おそらくはこの一幕でシャーマンが狙っていること、というのも
役割意識のずれを明らかにし、それを調整することではないか、と思います。
家族の「「もう一度食べるようになればまた元通りのいい子になって何もかもうまくいく」」という期待と、
フランチェスカ自身の「いい子でなければならないというプレッシャーから自由になりたい」
という役割意識に対する根本的なズレを
単純な「食べないことと痩せていること」という表向きの症状だけの問題に縮小してしまわないために
「狂っている」という言葉を持ち出したのかな、というふうに思います。
「うちのフランチェスカは狂ったりする子じゃありません、私たちの誇りですから」
というスタンスから、そもそもすれ違いの原因でもあるわけで
(焦点が「この子はどういう気持ちで狂ったんだろう」というところではなく
「この子に狂ってもらっては私が困る」というところにフォーカスされてしまう、
という位置関係そのもの)
「役割期待の変更が必要になっている」ということを明らかにしたのだろうな、
というふうに私は読んだのですけども。

「もしお嬢さんに根本的なところで変わって欲しければ、つまり自分自身や自分の行動しか信じられないのではなく、人のこと、家族のことが信じられるようになるためには、みなさんが新たなエネルギーをケサとの関係に注ぎ込まなくてはなりません。もしお嬢さんが自力でこの病気を克服したとしたら、もう二度とケサはあなたがたと親密になることはないでしょう」

私自身は、家族とはほぼ無関係なところに摂食障害を位置づけたことによって
もしかしたら「自立」の機会を「孤立」の機会にせばめてしまったのかもしれない、
ということは思うことがあります。
当時の私のキャパシティーを考慮するとそれ以上の選択肢がなかった
という点においては、後悔はないのだけれども、
それでも、持続的で安定した人間関係を築くのが困難である、
という今現在の自分自身の対人関係の特徴は自覚していて
それは人間関係の広がりにおいて土台のところが欠損しているからだなあ、
という風には思うのですね。
改善することは離れてしまうことよりも苦労を伴うけれども、
大切な関係を大切なまま維持できるのであれば
それはやっぱり非常な大きな意味を持つだろう、
というふうには思います。

だから、私にはわからないから、ということもあって
今まであんまり家族療法についは詳しく取り上げてきていないんんですが
自分自身の経験を踏まえたうえで
ちょっとこの言葉には思うところがあったし
今、自分の大切な人が摂食障害という問題を抱えている、
という状況にある人がいらっしゃれば、
ぜひ考えてみていただきたいなあ、というふうには思いました。

「もしお嬢さんが自力でこの病気を克服したとしたら、 もう二度とケサはあなたがたと親密になることはないでしょう」

2007年06月17日

せっかく食べ物にこだわりある人生なのだから
食べ物が持つ感情とか、物語とかに
敏感になるともっと心の動きがよく見えてくる
っていうことを、私は結構思っていまして
だから食べ物にまつわる思い出なんかも、
思い出すとほつほつ書いたりするんですけども、
他の方のブログからとっても美しいと思った
(と言ってもよいのかしら、ご本人様にはつらかったことのお話なんですが)
食べ物物語をご紹介します。

表現力の多彩さの面においてひそかにお慕い申しあげる
芙蓉さんのブログなんですけども
「びわを振る舞われるまで」というエントリです。

先に読んで→「びわを振る舞われるまで」

孤独の怒りと悲しみとともに食べかけのチョコパイが窓から飛び出していって、
そうしてしばしの時を経て、仲裁のびわが玄関から入ってくる、
っていう一幕ですよね
凄いな、演劇だな、これ
と思って、その感性にかなり感激しました。

摂食障害、ということをやっていて
やっぱり気持ちの中の色々なことを凄く食べ物に託してしまう、
という生活になるわけですけども
「病気」とか「なおさにゃならんこと」として暗い場所にばかり押しやっていると
その食べ物の持つ物語ってなかなか目が向いていかないんですが
実は食べ物って凄くイメージの広がりがありますよね。

形、色、香り、イメージ、思い出、温度、肌触り、とか
物凄く複合的に色々な要素を持って気持ちを受け止めてくれるものなのであって
メチャクチャ口に押し込んでいるように見える時でも
その時、その食べ物が自分の目の前にある、
というのはひとつひとつにきっと必然性があるんだ
っていうことは、なんとなく思うんですね。

チョコパイって、実は私、思い入れがかなりあって
過去に思い出を書いたことがあるんですが
私にとってはあれは「恥ずかしい食べ物」なんです
物凄く甘いでしょ、そして、多分栄養ってのはあんまりなくて
ただやたらハイカロリーでべたべたしてる
「幼稚な」「理性的でない」「役に立たない」っていうイメージ、
それから人と分け合うものでなくて「プライベートの味覚」で
「こっそり自分だけで甘ったれてる」っていう感じの食べ物なんですよ。
「チョコパイを欲しがる」ってことは私にとっては恥ずかしいことで、
だからこそ時々凄く欲しいんです。

びわの方は、私は生粋の北海道っ子なので
殆ど食べたことないんですけども
でも果物ってことで、イメージ的にはぐっとヘルシー度アップですよね
あとあのお日様のような外観とか、非常に日本的なおだやかな感じのイメージ
一個一個でちゃんと完結しているもの、
っていうようなことを連想したりします。

だからお前は人のエントリを勝手に引用して何を言いたいんだ
といわれると困るんですけども
チョコパイが激しい感情と一緒に窓から飛び出していったのも
孤独が諦めに変わっていくころに冷静なびわが玄関から入ってきたもの
ちゃんと食べ物たちは話の筋をもってそこに存在してたんじゃないのか
みたいなことを読んで感じたんですよね。

そう思って見ると
食べ物で気持ちを表現するのって
別に醜くはない、
ちゃんとストーリーがあって、感情があって、必然性があって
そうして出来上がっている生活なんだよ、っていうのを
芙蓉さんのエントリは綺麗に表現されていた気がしたので
読んでもらいたい、と思って引用してみました。

2007年06月16日

実は十年片思いしていた人がいる

・・・可愛いですね、こう書くと。
全然可愛い話じゃないんですけどね。


十年の間には
いわゆる「性的逸脱行為」にふけっていた時期もあるし
気を引くために別の人と付き合っていたこともあるし
他の人と共依存関係に没頭して殆ど片思いのことは忘れていた時期もあるし
摂食障害で片思いどころではなかったこともあるし
何かのはずみで他の人と付き合いはじめてウキウキルンルンのときは
うまくいかないもうひとつの恋愛のことなんかはなっから忘れてるもんだし

ようするに、
十年間綺麗なところでシンデレラのような恋をし続けていたわけではないのだけど
それでも、まあとにかく結果の方からさかのぼって思い起こすと
永きにわたって人生のメルクマールであった人、がいた

「十年間ひとりの人のことを好きだったんです」
というと、どうかすると「美しいこと」であるような錯覚がおこる
片思いという「十年間の執着」というのは
文化的にはわりと「良し」とされる範囲のもので
「十年間ひとりの人のことを好きだったんです」
という台詞はあんまりおぞましいイメージはしない
(私にとっては「十年間摂食障害やってるんです」というのと、
意味はあんまり変わらないんだけど、
社会的なウケは極端なほど違う。
片思いは医療費かかんないからか?^^;)

私がその恋愛に疑いを持ち始めたのは
いつまでたってもその無花果な恋を思って泣くのがあまりにも楽しかったからで
よく考えてみるとその号泣の儀式の間思いをめぐらせているのは
「素敵な彼」のことではなくて
「なんて可哀想な自分」のことのみなのだ。

もう自分が可哀想で可哀想で仕方ない、と思うと
いくらでも泣けたし、泣くと気持ちよかった
相手のことはどうでもよくて
ひたすら、「自分、可哀想」という儀式に徹するこの状況について、
「これが愛情か?」という疑問に対する答えは、さすがに明らかだ

摂食障害から離れていく過程で
「どんな体格であってもとにかく自分は自分なんだからしょうがない」
という、「あきらめ」を飲み込んだときはえらく苦い味がしたけども
長くこじらせた片思いを整理する過程で
「これは恋ではなくて、単に現実から目をそむけているだけだ」
ということを認識するのも結構苦かった

片思いを「アディクションのひとつ」という風に理解するよりも
「きれいな花園」としてとっておきたかったのは
やっぱりそこに没頭していた10年間というのは
私にとって長いものだったからで
「それは単なる現実に対するいいわけだったんだよ」という風に思うと
その10年間のためにとても辛い思いをするのだ

だけどその一方で
人生をいつも「片思いをめぐる号泣」に隠れることでやり過ごしてしまうのは
やっぱり何か惜しいものがある
人生には手にはいらないものがたくさんあるけども
手に入るものも、実際たくさんあるからだ

私にとって意味があったのは
その片思いが「明らかに不可能」であって
「自分の意志ではどうにもならない」ものであるからこそ
「絶対安全地帯」だったからだ

「手に入らないものだけを執拗に欲しがる」
ということには、それなりの意味がある。

十年片思い

今はどうしているのかというと
やっぱり時々思い出して泣くことにしている

たまにね
酒を飲んでちょっと昔のあれこれを思い出すと簡単に泣けて
抜群のストレス解消になる^^
自分で「そのことの意味」を分かってる限りは、
現実から逃げるくらい、いくらやったってかまわない
っていう風に私は思っている

何か悲しいことがあって、
それをうまく受け入れることができずに
正面から悲しむ勇気がないとき
おなじみの傷心を回想することで代わりに悲しんだって
それはそれはそれでいいじゃないか
「自分の悲しみの筋」がわかっているかぎりは、
現実の世界でも大した迷子にもなりはしない
時が来たら正面から立ち向かうために
「昔好きだった思い出」は今もゆりかごになって私を守ってくれる

そしてその恋を思い出す頻度が強くなるほど
つまり「今の現実は自分にとってそれほど目をそらせたい状況になっている」
という指標でもある

それからもうひとつ
「アディクションである」というふうに言い切ってしまうと
恋愛そのものの意味が死んでしまうのでは非常につまんないんだけども
とにかく彼は非常に素晴らしい人であった、というのは
やっぱり特等席でとっておきたい事実でもあるわけだね
でも「私の意志では手に入らん」
ということについては
「それはそれ。」

「手に入らないものが欲しい」
ということには、それなりの理由がある
それは
「手に入るものから目をそむけたい」
という、悲しみの表現。

2007年06月15日

「鏡の中の少女 1」の続き
小説後半部分の紹介です。

高カロリー輸液によって医学的な危機をなんとか乗り越えながら、
カウンセラーのシャーマンは病院と連携を取り、
フランチェスカの強迫観念をなんとか解いていこうと話し合いを続けていきます。

「自分を守るために、今言ったようなトリックを使い出すとするだろう。
そしたら、もっと守りを固めるために、トリックを増やしていくだろう。
トリックをいっぱい使おうとしたら、そのための時間を前よりももっとたくさん使わなくちゃいけない。
そのうち、なんのためにそんなトリックをしていたのか、わからなくなってくる。
でもやめることもできない。
だって、やめたら、もう安心できなくなっちゃうからね。
トリックをが増えると、トリックをこなしていく時間が増えて、ほかのことをする時間がなくなる。
それで、すぐに僕の生活はトリックだらけになってしまって、ひとつでもやり損なえば恐ろしくってしかたなくなってしまうんだ。」

「体重が増えすぎるのを怖がるっていうのは、すごく理屈に合っているような感じがするかもしれないけれど、ケサ。
でも体重を凄く減らしすぎて、死ぬところだったよね。
じゃあ、肥りすぎるのを怖がるっていうのは理屈に合わない。
理屈に合う恐れっていうのは、危険が消えたら消えてしまう。
きみは、すごく危険だったけど、その危険はもうすっかり消えている。
なのに、まだ怖がっている。
だから、きみが怖がっているのは、肥ることとは違う別のことだと思うんだ。
ねえ、体重が増えすぎるのが怖いって思い込んでいるだけなんだよ。
だって、本当に恐れていることを考えるより、体重を恐れていることの方が楽だからね。」

「さあ、鏡をみようよ」
ケサはびっくりした。
シャーマンはケサをドアの裏についている鏡へ引っ張っていくと肘をつかんで持ち上げた。
「この腕。これがそんなに太いかい?ちょうどいいかい?それとも、やせすぎている?」
「ちょうどいいのと、やせすぎの間くらい?」ケサは答えた。
「じゃあね、十人に公平な意見を訊いたら、なんて答えると思う?」
「やせすぎ?」
「なんでそのひとたちはそう答えるんだと思う?」
「なんて言わせようとしてるかわかってるわよ
そう答えるのは、私が凄く痩せすぎているから。そう言わせたいんでしょ?」
「じゃあ、きみは痩せすぎてて、みんながそう思っているのに、どうしてきみだけがそう見えないんだろうね」
「なぜなら、わたしが狂っているから。そうなのよ。もう答えたでしょ。わたしは狂ってるのよ。さあ、気がすんだ?」
「狂ってるって、どういうことだか知ってるのかい?」
「クルクルパーでいかれてるのよ。これで気がすんだ?」
「狂うってことは感情がちゃんと働かないってことだ。
狂うってことは、自分の頭が自分自身にトリックをしかけ、自分自身についてまちがった情報を流し、それから、いつまでも消えないまちがった恐怖を与えることなんだ」

ケサの治療のために家族間の葛藤を明らかにすることが必要と考えたシャーマンは
父ハロルドと母グレース、姉のスザンナを交えて家族面接をします。
そして家族はいつも問題児だった姉のスザンナをめぐって言い争いをする間
フランチェスカが一人家族から離れて、その争いには絶対にまきこまれずにいるということを指摘していきます。


「でも、フランチェスカは心配なんていらない子です。いつだってすばらしくいい子です」
ハロルドはくいさがった。
「すばらしいというのはどういうことなんでしょうか、デートリッヒさん。
そのためにケサが無視されるとしてもですか」
「でも、悪いことで、関心をひくのとはちがいます。」
「関心をひくというのは、正当なことです、デートリッヒさん。
無視されるというのは不当なことです。
最近のケサがどうしているのか、見てください。
この数ヶ月、ケサはこれまでの人生の中で絶対なかったほどの関心を集めました。
じゃあ、それを失ったら回復する意味ってのはいったいなんなのでしょう?
実際、みなさんがやっているのは、ケサを病気のままにしておくものです。
ケサが良くなれば、みなさんは、またケサを忘れ、もとどおりスザンナを心配し、 スザンナと言い争い、スザンナに関心を向けるでしょう。
みなさんがケサに良いことも悪いことも、関心をむけるようにならないなら、 ケサが回復して健康な少女にもどる可能性はありません。」

「強迫観念や強迫行為については、わからないこともたくさんありますが、
はっきりしているのは強迫観念に駆り立てられる人というのは、ほかの人が自分をどう思っていても、そして自分をどんなふうに扱っても、じぶんからは全然影響を与えられない、どうしようないと感じていることです。
そういう人は、人間関係に救いがないと感じています。
それで、自分の内的世界に追い返されてしまい、
その中でまわりの人が自分についてどう感じているかをコントロールするために魔術的な儀式をするのです。
そして感情的に孤立して、自分の欲求にも他人の欲求にもふれ合うことなく生活することになります。
 ご家族として、ケサが危険を犯して自分の欲求を表現するのを助けてあげなければいけません。
ケサが精神的に頼ってくるのを励ましてあげねばなりません。
簡単なことじゃないし、一夜でできることでもありません。」

高カロリー輸液で体重を増やし、
自ら食べる努力も少しずつ進め、
そして家族面接により感情をおもてに出す、ということも学び始めたフランチェスカは
なんとか退院までこぎつけます。

シャーマンが部屋から出ようとしたとき、ケサが呼び止めた。
「サンディ」
「なに?」
「これからも電話していいの?」
シャーマンはケサのそばに戻って、まだ薄い頭をなでた。
「いつだって電話していいよ、ケサ。どうしてか、わかるかい?」
ケサはにっこり笑った。
シャーマンが待っている答えがわかっていたからだ。
「わたしは人の関心をひくために、病気にならなくてもいいから、じゃない?」
「君は人の関心をひくために、病気にならなくてもいいからさ」

鏡の中の少女
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フランチェスカという15歳の少女の拒食症を追った小説です。
分析ではなく、ひたすら心を追って描かれている点でとても貴重なものだと思います。

思春期の少女が家族という小さな単位の中で抑圧され続けた感情を吐き出すために
無言の抵抗として、自らの意志で飢えていく。
これだけで全ての拒食症を語りきることはできないのだろうと思いますし、
私が読んだ感じでは結末の回復に向かうあたりなどは特に
問題が単純化されすぎているのではないか、という印象も受けたのですが、
それでも非常によく書かれた小説であり、
いかに周囲から理解しがたくとも、一人の人間が自ら飢える、というその行為には
それなりのもっともな筋があり、理屈にあった行為なのだ、
ということがきちんと描き出されているという点において
学ぶところも多いように思います。
引用しながら流れを追ってみます。

ある日、自分のことを「太っている」と感じたフランチェスカは
自分の中に、痩せて、自由で、強い人格「ケサ」という少女を発見します。
強いケサは誰にも告げないまま気に入った体を獲得すべくダイエットを初めました。

みんな、エネルギーを得るためには、食べることが必要だと考えているけれど、それは違う。
エネルギーは意志の力から生まれてくる。
ケサ、この新しい名前にあわせ、もう殆どスキップしながら思った

あの人たちも、秘密を知っているんだ。
やせているのは、いいこと。
やせているのは強く、やせているのは安心だということを、あのひとたちも知っている。

モデルよりやせたら、そのモデルの写真を捨てていこう。
すぐにあなたたち全員よりやせてみせる、ケサは誓った。
それで、わたしの勝ちよ。
痩せている方が勝ちなのよ。

ケサのダイエットは家族の目に留まります。
父のハロルド、母グレースはどんどんやせ細っていく娘になんとかして食べさせようとし、
家族の中では「良い子だったフランチェスカ」を囲んでいさかいが起こり始めます。

「お母さんが減らすなといってるんだから、フランチェスカ、
やせるのをやめればいいんだ。たべなさい」
こう命じれば、ことはすむとハロルドは思っていた。

ほうっておいてよ!今までわたしがなに食べようと気にしたことなんてなかったじゃない。
わたしがなにをしても、気にしたことなんてなかったくせに。

「おまえが自分でベーコンエッグがいいといったんじゃなかったのか、フランチェスカ。
なのに、口もつけていないじゃないか」
ケサはその声に怒りを感じ、さっきまで皿の上にあった食べ物への恐怖と、父親の怒鳴り声に対するいつもの恐怖心が入りまじるのを感じた。

「入院したいの?こんなことしておもしろがるほど、あなた、おかしくなってしまったの。餓え死にしたがるほど、気が変になってしまったの?」
ケサはうつろな目で母親を見ていた。
ケサはこれまで母親が怒るのを見たことがなかったし、少なくともこんなに怒こっているのを見るのは初めだ。それでも、気にもしていなかった。
ケサは指で桃をトントン叩き、魔法のおまじないをした。
ケ・サ、ケ・サ、ケ・サ。安心感がわいてきた。
安心感と、それから母親の怒りなんかものともしない優越感。

「おまえが何をなやんでいるかいいたくないなら、フランチェスカ、
わしが悩んでいることを話そう。
お前がこんなにやせてしまったことだよ。
また前のように、食べて欲しいんだ。
以前のようなフランチェスカにもどってほしいんだよ」
以前のようなフランチェスカ。
弱虫でおどおどしていて、いつも子供みたいに誰かに頼ってて、自分で自分をコントロールできず、他人に振り回されているフランチェスカ、フランチェスカなんて、大嫌いよ。

かかりつけの医師、精神科医などに掛かりますがフランチェスカは周囲の大人を翻弄し操作しようとするばかりで体重はどんどん落ち続けます。
拒食症に詳しいシャーマンというカウンセラーと出会い治療を受け始めますが
体重を増やすには至らず、フランチェスカは抵抗しながらも強制入院させられます。
病院の食事もとらないフランチェスカは三十キロを下回り、
胸に管を差込み高カロリー輸液を強制的に流し込まれる治療を受けるに至ります。

私は怖くっておぼれかけているんだ。
だけど、誰もわかってくれない。
誰もわかってくれないし、誰もたすけてくれない。

肥らされちゃう。胸に管を刺しこまれちゃう。
マーナが跡をみせてくれたわ。
三度もやったって言ってた。
どんどんカロリーを入れられて、身体はふくらんでふくらんで、
まんまるの大きなバケモノになってしまう。
爆発するまで大きく大きくふくらんでいって、もう素敵な骨っぽい身体じゃなくなってしまう。
ケサはこの世からいなくなってしまう。
なんにもできない、わたしのできることはなにもない。
私の身体は私がコントロールしてきたのに、あの人たちが奪っていってしまった。


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2007年06月14日

嫌な番組だな、と思いつつ
やってるとなんとなく見てしまうテレビ番組って時々ありませんか。
文句言うためにまじまじと見てるんだから好きなのかもしれないんですが
耐えられなくて最後まで見られないんだから嫌いなのかもしれないという
そういう番組がありまして

そういうものの中のひとつに
容姿に悩む素人の女の子をつれてきて
エステティシャンやら美容整形の医者やら
ヘアスタイリストやらなにやらかにやらのプロたちが
よってたかっていじくりまわして
雑誌のモデルそっくりに仕立てて、
変身ぶりをみんなで喜ぶという非常に無邪気な番組があります。

この間お風呂屋さんに行ってテレビをぼーっと見ていたらたまたまやっていて
「こんなのまだやってるんだなあ」と思いながら
文句言うためにじっと見てきました(暇人)

やってることそのものはとっても面白いんですけどね
今まで自分が思ってもなかったようなものを
超一流の腕で色々飾ってもらって
それで「へんしーん!」みたいな、ね
面白いですよね。
ヘアサロンに行ってセンスのよさそうな美容師さんに「おまかせで」
って言うときのワクワク感と一緒です
ああいうの凄く面白いですよね

でも、なんでこの番組は気分悪いのだろう
っていうのを私はやっぱり考えたくはなるんですよ
(好きな方ごめんなさいね。)
いやなのはね
女の子を写真使って「使用前」「使用後」で横に並べて
みんなが「おーっ!」というわざとらしい驚きの表情をするのを
毎回丹念に放送するんですよね。
それから変身前はどれほど悲惨な人生だったのかというのを
およそ敬意も何もないような表現の再現VTRで流した後で
今度は「綺麗になった」女の子に
「これからは自信を持って生きていきます」みたいなことを
勿体つけてわざわざ言わせたりとかね。
なぜ一人の人間が「使用前」と「使用後」で分断されてるんだ?
しかも「使用前」は「人権なし」?・・・バカニシトンノカ。

最初は質実剛健な格好をして出てくる女の子が
どういう風に変身させられるのか、
ってのがワンパターンなので面白いんですけども
ひらひらしたどうやって洗濯するのかよくわかんない服を着て
くしゅくしゅした、一見さりげなさそうな猛烈に手の込んだ髪をして
ライトの下ではよくわからないけれども、繊細な小技のいっぱい効いたメイクをして
エステでの食事指導による(おそらくリバウンド予定の)スリムな身体をして
「あんなにダサかったこの子がこんなにキレイになりました!」って。

見え見えの欺瞞をつつかないのが暗黙の了解なんですね。
「生活」ってのは自分で着る洋服なら洗濯方法も考えなきゃいけないっていうこととか、
雨の日も風の日も、毎日ふわふわしてくしゅくしゅした
さりげないボサボサヘアを守り通すというのはおよそ非現実的だってこととか、
見られることが商売じゃない以上は毎日一時間かけてメイクしてるわけにはいかないっていうこととか、
急激に減らした体重はダイエットと同じ時間をかけてまたもとに戻るってこととか、
そういうのは、目をそむけておいて
ライトがあたっている今だけお人形みたいなかわいらしさで
「これからは自信を持って生きていきます」って言わせて
「キレイになったねー、表情が明るいもんねー」って
喜んでりゃいいもんですかね。

たしかに手間隙お金かけてみんなに注目してもらう
ああいう変身がとっても楽しいワクワクすることだってのは事実です
みんなが自分に賞賛のまなざしを注いでいるとその瞬間は自信を持ちます。
芸術みたいなプロの技術を見るのも楽しいです。
あれが総力結集して完成された「キレイ」の一つの形だってこともわかります

でも、ところで
女性が「キレイ」に生きていくためには
「自分の身体と気楽につきあう」っていう選択肢は
まったくないのでしょうか
洗濯のことと雨風のことと低血圧のこととダイエット後の食生活のことを考えるような
女は最初から「キレイ」の権利もない?
え、女が生きるのってそんなに大変なんですか?

「自信を持って生きていきます」ってのは、ようするに
その身体で「自分が何をするか」ってことでしょう
そのふわふわドレスとさりげなヘアとバンビのまなざしとカモシカの身体を
守り通すためだけに生活のありったけの時間を使うのは
「自信を持って生きていく」とは言わんじゃろ。

実際は、
たまっていくしわくちゃの洗濯籠の中にため息つきながら
雨にも負けず風にも負けず雑用をこなし
化粧するかあと五分寝るかの葛藤を毎朝続け
落ち込んだときにはあと五キロやせたら何もかもうまくいくのに、と思い、
そういう生活の限界の中で「何をやるか」ってのが
自信をつけたり失ったりするってことでしょう。

自信の根源は、そのバンビのうるうる目じゃない!!

っていうことから、
みんなあまりにもそらぞらしく目をそらしていくることに怒りを覚えまして
怒りながら見るのが好きなんですかね、私。あは。

(ところで私今年で30になりますが、
未だにまともにメイクしたことがありません。
だってしなくても綺麗なんだもん。
・・・・。
顔見えないのを良いことに嘘つきました。すいません。
化粧品の匂いで頭痛がするんです。気楽です。
素肌に風が吹き付けるのって気持ちいいよー。
「気持ちいい」ってのは充分「キレイ」のバリエーションの一つだと思う私。)

2007年06月12日


ちょうど私が18,9歳のころ、思春期やせ症のことがようやく話題になりかけたころで新聞に記事が載ったんです。
その記事には、この病気は極度に容姿を気にする若い女性が、やせたいという一心でムチャクチャに減食をする結果、後もどり不可能なくらい体を壊してしまう、とあったんですね。
私自身そういう思いは少しもなかったんですが、そこに描かれる少女は否定的なイメージでしたからね。
非常にショックだったんです。
その日に書いた日記をいまでも覚えています。
それは差別と偏見に満ちた言葉ではありますが、そのままいいますとね
--愚かな女のかかる病気にかかった--とあるんですね。
私はこの愚かな思い込みを乗り越えるのに半年、いや一年はかかりましたね。
いや、今も完全には乗り越えられず、私の人格構造の中にきちっとはまりこんでいるようです。
「私の嫌いな私像」の根っこになっていますからね。
そういう形で、周りから自分像を作られる。
しかも悪しきイメージをもったおしきせの像ですね。
(「「女」なんていや!―思春期やせ症を追う 」より引用)

摂食障害から離れていける人というのは
いったいどうして回復できたのだろう、という疑問、というのがあって
それはもう考えれば考えるほど謎だ

もし摂食障害が「愚かな女のかかる病気」であれば
「愚かだった女が賢くなったから治った」ですむ
とっても簡単な話になるのだけどね。
でもそれは自分自身の経験を考えてみても
自分以外の人を見て考えても
明らかに正確ではないわけで。

自分の経験について考えてみて
「摂食障害前後」を比較したときに
使用前/使用後みたいに愚かだったもんが賢くなったのか、
っていうとそういうことはまるでなくて、
ただ単純に同じ人格の中で
過食という現象がなくなっただけの至極単純な話であり
一個の人格としては別段どこも賢くなってないことは明白だ
(ある種の考え方の癖について自覚するようになった、とか
自分が「結構おバカ」であることを認めて和解した、とか
そういう「生きるための知恵」ってのを
いくつか習得したってのはあると思うけど)

自らの女性性を受け入れたってこともないし
家族関係が改善した、ってこともないし
母子関係で癒しがあったってわけでもないし
未発達だった自我をどうこうしたってはなしもないし
とくにコミュニケーション能力も向上してない
依存体質も別に変わってないし
衝動制御がうまくなったわけでもないし
本当にただ単純に過食をしなくなっただけだ

なぜ過食をやめたのか。
私は過食の症状は出たり消えたりしながら
大雑把にいってだいたい三期くらいに分かれた過食を経験した。
最後に回復していったときの状況というのは
過去の記事で少し触れたことがあるのだけど

そのときは明らかに人格破綻した男に金を搾取されながら暮らしていて
周りには知った人もなく、
頼るあてもなく、出て行く先もない、というような
「このまま放っておくと私の人生がヤバイ」という状況にいた。

心的状況についていえば
その目も当てられない状況に心をつぶされないようにするために
過食をしていたんだけども
一方で「食べたい、食べちゃいけない」という葛藤にだけ没頭していると
いつまでたってもその生身の危険な男から離れていけない、という
現実世界の方に明白かつ緊急の危機が起こっていて
さしあたり生きていくためにいったん「食べる食べない」のはなしは
棚上げするより他になかったのだ
持ちうるかぎりの精神力の全てをつかって
まず男から離れていくより他に、結局のところ生き延びる術がない

愚かなものが賢くなったとか
人として成熟した、とか
そういうレベルではなくって
とにかく生きるためにできることの数が
そのときそもそもあんまりなかったのだ
とにかく喰うなら喰え
それでも私は生きていくのだぞ、
というところで腹をくくるより他に
人生にたいして手のうちようがなくなっていた

過食をしなくなったというよりは
過食を問題行動として捉えておくだけの状況の余裕がなかった
ってのが正直なところで
別に過食なんていくらやってもそんなに悲惨なことではない
という、ある程度の底が見えてしまった、
ような感じなのかもしれない
考えてみれば自分でもよくわかってない

六年か七年くらいやってないからもう一生しないような気がするけども
それも考えてみればわからない話ではあって
ひょっとしてまたするのかも知れないし、
そうなれば苦しいだろうけども
遺伝子に書き込まれた人生がそういうふうになってるなら
それも仕方ないといえば仕方ないだろうし
恥ずかしがってもどうしようもないから諦めるしかないだろう
結局のところ食べてても吐いてても「自分」なわけだし
食べたり吐いたり食べなかったりするくらいで「自分」は変わらない。


以前、村上龍が女子高生51人に対してインタビューしたときの記録
という分厚いインタビュー集を読んだことがあったのだけど
そこに拒食症を経験した高校生の話があった
ちょっとはっきり覚えていなくて申し訳ないのだけど
一時医学的に危険な体重まで落ちてしまった女の子が
回復して元気に暮らせるようになった、という話があった。
「どうやって治ったの?」
という質問に対する答え、が、私ちょっと感動してしまったんだけど
「友達が楽しそうだったから」ということだった
友達が楽しそうで、私も彼女たちと一緒に人生を楽しみたい、
っておもったら回復していった
という、話で。
なかなか感動した。

私も思うんだけど
結局のところどうして回復するかって
やっぱり生きるのが楽しいから、しかないんじゃないだろうか
「人生って楽しいものだ」って思ったときに
やっぱり「食う食わない」のところにあまり長くい続けるってのは
あきらかに「損」なわけで

私も「食う食わない」の話で
なんとか高まった緊張を脇へそらしながら
明らかにくだらない生活の現状維持を目的に
息を潜めていることを良しとするには
「人生はもっと楽しいもののような気がする」って気持ちが強すぎたからこそ
結局は治っていく方向に頭が向いていったんじゃないか、とも思うし
それは「どっちの生き方がより高尚」ってレベルの話ではない

賢くなった、とか、成長した、とかいうことではなくて
やっぱり、最終的には
生きるのってもっと楽しいんじゃないか、って思ったときに
絶対的に「摂食障害」って損なんだって話だ

何が良いとか何が悪いとか
何が高尚、何が愚か、
何が成熟、何が未熟とかいうような
そういう区別ははっきり言ってわからないし
わからない話はしないでも、人生やっていけるわけで

結局
どっちが楽しい、とか
どっちが得、とか
そういう「分かる話」で人生すすめてもいいんじゃないだろうか

ようするに
私がしたいのは
希望の話で
人が回復するのは
人生が楽しいから、じゃないかな
という話、
なんだね

夢見るころを過ぎれば―村上龍vs女子高生51人 (ダ・ヴィンチブックス)
夢見るころを過ぎれば―村上龍vs女子高生51人 (ダ・ヴィンチブックス)

2007年06月11日

広く読んでもらいたい摂食障害の良書の中で、すでに絶版になったものを
復刊リクエストしております。
良かったらご協力お願いします。

みんな、やせることに失敗している
みんな、やせることに失敗している
「みんな、やせることに失敗している」復刊リクエスト投票ページ

「やせ願望」の精神病理―摂食障害からのメッセージ
「やせ願望」の精神病理―摂食障害からのメッセージ
復刊リクエスト追加しました。→「やせ願望」の精神病理復刊リクエスト投票ページ

復刊リクエスト投票してくださった方、
本当にありがとうございます。
最後に確認した時点で15票集まっていました。
あと85票で復刊できるかもしれない、というところです。

もし主旨に賛同してくださる方がいらっしゃって
摂食障害に多少関連あるブログなどお持ちの方いらっしゃいましたら
投票ページへのリンクを貼って投票の呼びかけご協力いただけないでしょうか。
「みんな、やせることに失敗している」投票ページのアドレス→http://www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=38555

(どうしても読みたい方はアマゾンマーケットプライスで、中古がまだ手に入るんですけど。
私は復刊してもっと色々な人の目に触れるようになったらいいな、という気持ちがあるんですよね。)

↓「みんな、やせることに失敗している」関連記事
1 パターンを変えてみる
2 やせたらしたいことリスト
3 過食症からの回復
4 体重セットポイント説
復刊リクエスト

----------復刊リクエスト追加しました。----------

「やせ願望」の精神病理復刊リクエスト投票ページ

読みたい、との声を多く頂いた下記の本も復刊リクエスト出しました。
ご協力いただける方はあわせて投票おねがいいたします。
復刊ドットコムは一度会員登録してしまうと、あとの投票はかなり手軽です。
宜しくお願いします

「やせ願望」の精神病理―摂食障害からのメッセージ
「やせ願望」の精神病理―摂食障害からのメッセージ

「やせ願望」の精神病理 関連記事一覧
 1 紹介
 2 なぜ女性はやせたがるのか
 3 破綻したやせ願望
 4 摂食障害の治し方
 5 対人関係療法
 6 コミュニケーション分析の実際
 7 回復へのプロセス
 8「やせ願望」とジェンダー
復刊リクエスト

2007年06月10日

こんな悲しい話を聞いた

同棲しているカップルの彼女が摂食障害
何年も一人で苦しんでも治らないので
彼に協力を頼んで一緒に病院へ行ってもらう
初めて二人で行った病院で
彼が治療者に言った言葉は
「彼女は過食を我慢できないんでしょうか?」
聞いたとたんに彼女は泣き出してしまった、という話

勇気を出してはじめて一緒に行った病院で
彼が一番知りたがったことが
「彼女は我慢できないのかどうか」ということだったというのは
辛かったろうな、と思う

ひとつの家で、密接な関係の二人が暮らす中で
食べることや、吐くことや、食べないこと、が行われているのであれば
それに対して「どうして我慢しないの」ということは
「この関係をよくするのは君の仕事なんだ」と言って
コミュニケーションから手を引いているのに等しい

なぜ、彼女が
「言語でコミュニケーションをとることが難しい状況にいる」
ということについて、共に暮らす彼が疑問を持たないのか

彼女がその家の中で
自分に許されていると感じる僅かな手段を行使して
何かを表現しようと試みているという
その必死の努力と苦しみそのものを、なぜ彼は無視しているのか
そして「彼女の我慢」というところに全ての問題を隠蔽しようとしているのはなぜか

彼女の苦しみをあえて「分かりたくない」という、その気持ちは
彼女の病気の問題ではなく、彼の心の問題だ
もしも二人の関係をよくしたいと思うのであれば、
それはどちらか一人だけの仕事として押し付けることはできないはずだ。

摂食障害はそうして隠蔽されてきた
危険なほどつめこむ、全てを吐き出す、異常なまで痩せようとする
という、特異な表面だけをあげつらい
「自分の意志でなんとかするしかない」
「わかって欲しいことがあれば言葉で言えばいい」
といえば問題は完全に個人だけに帰されてしまう
間違いなく重要度を持って関わっているもう一人の存在については
巧妙に隠され、症状を出した者だけが有罪を宣告される

隠蔽された問いかけは
「なぜ彼女はあなたと暮らす生活の中で
よりつらい表現の方法を選ばなければならなかったのですか」

摂食障害さえ治れば何もかももっとよくなると決めて掛かることによって、
二人の関係のために「彼女だけ」が変わることを待っているのであれば
「摂食障害の症状」に頼って、ありのままの現実から目をそむけているのは
実は彼女ではなく、彼なのかもしれない

2007年06月09日


私はずっと小柄でやせっぽちの子供だった
その頃はだいたいひとクラスに一人ずつくらい恰幅のいい子がいて
他の子より成長が早かったり、力も強かったりして、
ちょっと目立つ存在だった

自分自身が太りやすい体質だった母はよく
太った子はそれを「気にしてるかもしれない」から
からかってはいけない、と私に言った
そんなもんかな、と思った

「太っている」というのは単に「太っている」ということでしかなく
それを「気にする」というのはどういうことなのか
その頃の私はまるで見当がつかなかったのだ

思春期になって身体つきが変わってくるころ
ある日私の写真をなんとなく見ていた母が突然
汚いものを触るように写真を二本の指でつまみ上げて私にみせた
「これっ、背中に肉ついて」と
母は本当に嫌そうに言った

私の写真だ
たしかにそれまでの棒のようだった体が
厚みを持ち始めていて
数年前の写真に比べると違いは顕著だった

つまりそれが
私が自分の身体を非常に不吉なものだと思った一番最初だったかもしれない
背中についた肉は独立した悪しき物体で、
私自身とは異なる存在なのか?
あってはならない恥ずかしいものだったのか。
自分の写真をじっと見る。
そうか、これは見るもおぞましい姿なのだ。

「太っている」ということを「気にする」とはどういうことなのか
私はこのとき初めて理解したのかもしれない
自分の肉体のゆえに、こんな風に嫌悪されねばならないものだとは。

身体とは
単なる物体であり、
見られ、測られ、
摘み上げられ、眉をひそめられ
恥ずかしい、と断罪される
それほど恐ろしいものだと知り始めた
それが最初だった

私にしたってその写真一枚あってもなくても
どのみち人生のどこかで痩身崇拝という社会的価値観に巻き込まれはしただろうが
そうは言っても、確かにあの時の母がしたことは酷く想像力に欠けていた

おそらく母は案山子のような姿の娘が羨ましかったのだろう
いつまでも男の子のような体つきをしていると思い込んでいた娘が
自分の姿形に似てきたと思ったとき、
母はそれまでの人生で自分の身体を嫌ってきたのと全く同じやり方で
即座に娘の身体に嫌悪を示した
娘は「身体を嫌悪する」ということを発見する。

太った子はそれを「気にしてるかもしれない」から
からかってはいけない
と子供に教えてきた母が、そのとき知らなかったことが一つある。

自分の身体を「気にする」というのは、
それは実際に「太っている」ということを意味するのでなく
「身体は嫌悪される対象だ」
ということを信じ込んでいる、ということを意味しているのだ

身体を戦いの場とする葛藤は
次の世代に戦場を移した

2007年06月08日

「私はこんなにも自殺したいのに、どうしてみんなは許してくれないんだろう」

というようなことをある年齢まで結構本気で考えていた。
今思うと随分見通し悪い思考回路だったなあ、と思うけど
でも、とにかくそういう風に、かなり長い間思っていた。

不思議なことに
「自殺願望」というのが自分の唯一最大の良心だ、
と信じ込んでいて
それによって自分は特権階級であるのだ、と思っていたようなところがあり。
(本棚には太宰治全集が並んでいたりする青春の日々^^)
「自殺」という、こんなにも人の迷惑にならないこと(←明らかに認知が歪んでるけど)
くらいしか望んでないんだから
せめてそっとしておいて貰える権利くらいあるはずだ、
というかなり閉じた思考。

実際のところは「死にたい」わけじゃなくて
「生きる方法」が見つからなくて途方に暮れてただけで。
・・・まあ、恥ずかしいですよね。
でも生きるってのはそもそも恥ずかしいから仕方ないですけどもね。

あれは何かというと
「自殺したい」という気持ちを手放さないことによって
「可哀想」で「気の毒」で「悲劇的」な人になりたかった
そういう風に周りの人に思ってもらうことで
いろいろな問題を解決してしまいたかった、というのがあった

どういうわけだか
そのとき自分を取り巻く「問題」は自分の手には負えない、と思い込んでしまって
そうであれば「自分で動く」のではなく
「人の気持ちを動かす」しかないのだ、
と信じこんだからこそ
「自殺したい」とできるだけヒステリックに思いつめることは
なんとなく自分にとってのお守りだったのだ

実際のところどうなのか、というと
第一に、自殺願望といのは
ゼッケンみたいに背中にぶら下げて歩くわけにはいかないので
なかなか「わかってもらいにくい」
この時点で「自殺願望」を
コミュニケーション手段、交渉手段として使おうというのはかなり無理がある。

第二に、誰かに自殺願望を伝えたとしても
「可哀想」で「気の毒」で「悲劇的」という風にはまず思われない。
「この人は自殺したい人なんだな」ではなくて
「この人は”自殺したい”と言いたい人なんだな」と認識される
(そしてこの認識は多くの場合実際正しい)
人の気持ちを操作しようという努力は不毛なもんだ

第三に、自殺って正気ではなかなかできない
デモンストレーションで手首をちょっと切ってみるくらいでも
びっくりするくらい集中力を使う。
なんとなればできるだけ危険のないように注意して切っていたりして
人間ってのは、普通にしてれば生き続けるようにできているらしい。

そういったわけで
私は結構長い間「死にたい」と考える癖があったし
未だにヒトリゴトでいきなり「シニタイ」って言うことがあるんだけど
でも、考え方の癖として「死にたい願望」を判断したときに
今ではその効果を評価していない
「死にたい」という自動思考に陥る前に
もっと他にできる効果的な楽になる方法が一杯あるからだ

以前、北杜夫が自分にはみっつのヒトリゴトの癖がある、
と対談で言っていたのを読んだことがある
「助けてくれ」と「神よ」と「愛してる」という言葉を、
知らないうちに口走るのだそうで。

似てるよな、と思ったのは、
私は「死にたい」と「帰りたい」とそれから、
”成就しなかった昔の片恋の相手の名前”というみっつのヒトリゴトを
意識しないで口走る癖があるからで
なんだかバリエーションとしては
殆ど北杜夫のヒトリゴトと一致しているような気がする

「死にたい」「帰りたい」「昔の男の名前」って
それだけ聞いてるとなんだかめっぽう陰惨な人生みたいだけど
「助けてくれ」と「神よ」と「愛してる」というのと
同じような願望の表現なんじゃないかな、と思って考えてみると
どれも全体の中に戻っていくイメージの願望なのであって
別に悪いことでも恥ずかしいことでもない。
そういう意味では「自殺願望」もあるならあるで全く構わないじゃないか、と思う

ただ実際生きていくうえで
「自殺したい」に多くを頼る考え方の癖というのは
あまり効果的ではない、ということを知っていたほうが
「生きる」というイメージも結構伸びやかになるのかもしれないなあ、
ということを考えてみたり。

過食と女性の心理―ブリマレキシアは現代の女性を理解するキーワード
過食と女性の心理


著者は摂食障害の専門のセラピストで、
主にグループ療法を使うことで摂食障害の治療にあたっている人です

この本の中に治療に参加したクライアントが書き取った
治療の本質となる行動上の原則、が記載されています
これら原則を心にとめておくことによって回復へ向かった、ということです

プチ字引のようになっていて面白いので引用してみます
太字になっているのは私の気にいったところ

※ブレマレキシアという言葉が出てきますが、
これは過食嘔吐という「(病気ではなく)学習された行動」
をさすのに著者らがつけた名称です


【習慣】
ブレマレキシアは病気ではない。
それは学習された行為であり、学習しなおすことができる

【責任】
過食と浄化は、その行動を他人や状況のせいにしているかぎり続く。
つまり「私は過食をしたから試験に失敗した」というのは、本当は
「私は勉強をしなかったので試験に失敗した」という意味である。
行動に対して責任を持つこと

【過去/現在/未来】
<自分はどうしてこんなに緊張しているんだろう?>
昨日のことにこだわるのも、明日の悲劇を予想するのもやめること。
その瞬間にエネルギーと注意を投入すること。
自分の力が及ぶのはそのときなのだ。

【期待】
期待するのをやめて、正直な目標設定をすること。
期待は落胆につながり、ブレマレキシアを助長する。
結果でははなく、試みを実行することを目標にするのだ。

【苦痛】
苦痛を過食の前ぶれとしてでなく、変化の前ぶれと考えること。
過食から学び、苦痛を避けようとしないこと。
苦痛を求める必要はないが、それを勇気を出す動機づけとして活用すること。
起こったことに反応するのではなく、自分から行動することが変化するための鍵だ。

【リスクを負う】
結果に完全な確信がなくても、知れない領域に踏み込んでみること。
進歩は新しい生活を試すことから始まる。
もし結果がよくなければ、以前のやり方に戻ることができる。
人生においてやり直せないことは殆どない。

【毒のある言葉】
「不可能」「永久に」「決して」というような言葉を辞書から消すこと。
それは完全主義への踏み石で、究極的には自滅につながる。
スーパーウーマンはいない。

【力】
他人に自分をコントロールさせて、自分の力を諦めてしまわないこと。
本当は<いいえ>と言いたいのに<はい>と言ってしまわないこと。
誰の目を気にしているのかに注意すること。
みんなに気に入られようとするのをやめて、間違えるときは自分でまちがえるようにすること。

【失敗】
完全な人はいないのだから、失敗したときは、今この場にとどまって、考え直してみること。
そうしなければ何度でも同じ失敗をすることになる。

【妨害】
自己破壊的で、それでいて陥りやすい態度
(例えば孤立主義、完全主義、悲観主義、非活動的など)を避けること。
例の大騒ぎ--長期間のうちにはブレマレキシアを助長するような行動--
に自分で気づくこと。

【質問】
解釈しないこと!
自己評価が低いためにきっと最悪を予想してしまう。
分析するよりも質問することを学ぶこと。

【アイティンティティ】
二人である前にひとりでなければならない!
自分のアイディンティティを確立すること。
自分とは自分が行ったことそのものである。
自尊心は成功した経験によって養われる。
自分で強くなることを学び、他人との関係だけで成長するようにはならないこと。
ストレスに直面したときは自分をいたわり、
屈服して過食にはしるのではなく、それに対処できるようになること。

受け取るばかりではなく与えることを実行すること!

2007年06月07日

みんな、やせることに失敗している」の森川那智子さんの本です。
この方は摂食障害の治療にも簡単なYOGAを取り入れているんですね。
→参考:こころと身体クリニカセンター

摂食障害が、心と身体がばらばらに動いてしまう状態であることを考えると
その治療にボディワークが入ってくるっていうのは、
ユニークで非常に面白いと思っていました。

リラックスYOGAブック―こころとからだに効く
リラックスYOGAブック―こころとからだに効く

読んでみたんですが、これはいいですね。
非常に面白かったです。

寝てても立ってても座っていても、「最初に姿勢を整え、呼吸をととのえれば」
YOGAの始まりです

左手の人差し指を右手で握ってゆっくりとそらしてみます。
そうすると左手の人差し指の付け根がじわーっと伸ばされます。
このじわーっと伸ばされることで引き起こされる感覚に気持ちを集中すること。
それが「こころを身体に繋ぎとめるということ」です。

あー、そうですか、それがYOGAですか、じゃあやってみます。
と思った素直な私です(笑)

最初に出てくる足のウォームアップなんですが
座って右足を左あしのももの上に持ってくる
足の指の股を息を吐きながら前後にじわーっと開く
(親指を反らせて、人差し指を内側に引く。
それぞれの指を順次交互にしっかり前後させる)
左足も同じ要領で行う

これを本を読みながらやりまして
「気持ちいいです、これっ」と感動してました。

とにかく、普段伸びてないところを伸ばして「じわー」に集中する、呼吸に気を配る、
という、それだけでいいよ、というのであれば、できますからね

あともうひとつ感動したのが片鼻呼吸ですね。
右手の人差し指と中指を眉間にあてて薬指で左の鼻腔をふさぎます。
右鼻で吐いて吸います
そしたらこんどは薬指を離して親指で右の鼻腔をふさいで
左鼻で吐いて吸います
っていうのを数回繰り返すんですが
面白かったですよ。
まず呼吸量がゆっくりするから自然と腹式呼吸になって気持ちいいのと、
あと呼吸がゆっくりすると自分の中の時間の流れって
呼吸の速さに合うんですね。
片鼻で呼吸している間だけいきなり時間のテンポが変わったのでびっくりしました。

気にいったので、しばらくやってみようと思います。
気持ちよければ続くんじゃないか、と・・・。

2007年06月06日

自分のために心を込めて食事をしたいと思ったら
まず箸置きを選んでみてください、と私は思う

比較的安価で季節感のある
とても素敵なものが沢山ある
少したまると、食事のたびに気分で選べるようになる

食事のとき、箸を置く場がないと
手に持ったままになってしまいがちなもので、
あれはあれでなかなか気が散って
今の一口より次の一口に気が行きやすくなってせわしない

そのときの気分にあった箸置きがあると
自然にそこに目がいくから
なんとなく箸を置くし
そうすると今の一口を楽しむ余裕ができる

私は自分の好きなものを少し集めて
そのときの気分に従って自分のために選ぶ、というのが
そもそもとても好きだし、とても大切だと思う

気がつけば角がなくてつるつるした透明の箸置きが多く集まる
角のないつるつるした気持ちになりたいのかもしれない

夏なので、丸いガラスの中に金魚の泳ぐ箸置きを買った
夏の香りのする青い胡瓜のサラダを食べる
箸をそろえて置く
歯の間で胡瓜が砕けていく爽快な音がする
夏という季節が世界の方から私の身体に入ってきて
今日一日という日をまた生きるというリズムが
軽快な音の間に聞こえてくる

2007年06月05日

大量の下剤を常用し、やめようとしても
身体に感じる不快感のためにまた下剤使用に戻ってしまうという人へ、
下剤の習慣をやめるためのアドバイスをまとめました。

※参考資料
過食と女性の心理―ブリマレキシアは現代の女性を理解するキーワード
みんな、やせることに失敗している

○まず下剤乱用のリスクについて
・よく語られる話ですが長期乱用の後で括約筋が正常な機能を失い、
排泄のコントロールを失うことがあります。
・結腸の収縮リズムがくずれることで痛みを伴う腸のけいれんがおこります
・排泄物の除去のために必要な腸内のバクテリアが流れてしまい、
正常な状態に戻るまでに三日かかります。
・脱水状態になりやすいため身体が水分を溜め込むようになり、むくみやすくなります。
・カロリー除去効果については殆どなく、150錠の下剤を使用して100キロカロリーあまりの除去をする程度だといわれています。

○自然な排泄システムを回復させるために
下剤の習慣をやめると、はじめ
肩こり、のぼせ、集中力の低下、腹部膨満、だるさなどの症状がでるため
多くの人が「もう一回だけ」と下剤使用に戻ってしまいます。
まずは結腸が自然な働きに戻るのに十日間はかかることを認識する必要があります。
下剤をやめるには充分な時間と忍耐、健康に良い食事と、充分な水分が必要です。

大量に下剤を飲んでいた場合は急激にやめるのではなく、徐々に量を減らします。
急に繊維質の高い食事をとるとガスが発生して苦しくなるので
最初の1,2ヶ月は繊維質の少ない、消化の良い食事をとること。
むくんだ感じがするときは
身体が余分な水分を排出するのを助けるために沢山水を飲むことです。

お腹が張ったりガスがたまったりして苦しいのは、
便秘しているせいではなく、下剤の副作用です。
リラックスして腹式呼吸をすることで腹部の結構をよくしてやることで不快症状は和らぎます。

2007年06月04日

追記
現在企画倒れ中です。
理由は管理人が翻訳に使いやすいプログラムを作りきれなかったことと
みんな結構英語が苦手だったこと^^
中断してるんですけど、システムは生きているので参加はできます。
面白い企画だと思うのでまたもう一度復活させたいと思っています
-------------

数日前から言っておりますが

Unbearable Weight: Feminism, Western Culture, and the Body
Unbearable Weight: Feminism, Western Culture, and the Body


これを読もうとしております。
一人では読めないのでML(メーリングリスト)で輪読しよう!
と思いついたんです。
ここ数日四苦八苦したんですがMLの仕組みがいまいちよくわかりません。
よく分からないけど考えてもわからないので
よく分からないまま初めてみようという暴挙に出たりしました。

トップページの画面右のメニューに登録フォーム出してます。

MLの主旨としては
私がこの本をスキャナで読み込んで英文を流します。
それが参加者にメールで届きますので
わかる範囲で訳をつけて返信していただくとまた参加者全員に届きます
ここ違うんじゃないか、とか
ここわかんない、
とか言う話をみんなでしながら訳せるんじゃないか、と思ったんです。
そんなにうまくいくものかどうか
やったことがないのでわかりません。
ちょっとはじめさせてください。

活発度にもよりますがMLなのでやっぱりそこそこの数のメールが届くかとは思うんです。
管理上プライベートのメールが埋もれてしまうのが気になる方は
お手数ですが専用でひとつアドレスを取ってから
登録していただくと管理しやすいかもしれません。

それから著作権などの兼ね合いから、参加者のみへの公開になります。
訳がある程度すすんだら、このサイト上でいつものように章ごとの概要などは紹介したいと思っていますが、
誰の目にも触れるところに全文訳を掲載することはできません。

なので興味ある方は閲覧だけでも結構ですので、
この際参加してしまってください(←強引な勧誘)
でも、参加したからにはときどき一行でも二行でもいいですから訳に参加してくださると勿論私は嬉しいです。(←さらに強引な展開)
過去に英文訳を手伝ってくださった方には随時こちらから招待状を送りつけてしまおうかな、なんてことも思ってます。(←あくまで強引なまま貫く覚悟)

ご登録くださった方、ご招待させていただいた方ともに
私の承認後の参加となります。
(スパムメール防止のためです、すいません。)

素人ばかりで読んでいってわけが分からなくなったらどうするんだ、
という時には正義の味方Cafemmeさんに泣きつくことも辞さない構えです。

そういったわけで
本当に見苦しい、といいますか、
どうなるか先がわからない状態で始めるんですけども
改良していきますので
ほんの興味本位でご参加いただけると光栄です。


「お前は頭が良いのだから、人前でものを言うときは気をつけろ」

ということを、私は母親からしばしば言われた
十歳になるかならぬかの頃からだ
分からない顔をするとこう言われる

「お前は頭がいいのだから、意味わかるだろう」

それ以上の説明はしない、ということだ。
頷く。
不吉な宣託はそれで終わり。
脅迫、というには確かに
そこには愛情が混じりすぎてはいた

私にはひとつ違いで兄がいる
幼い男の子は一般に言葉の発達があまり早くないものだと思う
語彙の増えるのが極端に早く、思ったことを自在に言葉にできた妹に比べて
兄はぐずぐずして見えるほどうまく喋れなかった
その兄について人に話すときは
「思ったことをもっと言えるようになって欲しい」と
母はしばしば語っていた

息子にはもっと喋るようになることを望み
娘にはもっと喋らないようになることを望んでいた
ということを
最近初めて関連付けて思い出したのだ

母はおそらく私が「女だから」というので
できるだけ喋らないようにさせたい、という意識はなかっただろう
ただ、きっと「この娘は当然自分と同じ生き方をする」と
漠然と信じ込んでいただろう、というふうには思う
そして母の生活にとっては
「自分の思っていることを極力言わない」
というのはとても大切なルールだった
だから、娘が苦労しないように
早くから黙り込むことを教えてやりたかったのではないだろうか

「気をつけろ」といわれ
「生意気だ」といわれ
たしかに自己主張というものは
私の中から首尾よく姿を消した

そして後になって
逃げ出すようにして強引に家族のもとから離れたとき
一人になった私は自分のしたいことがまるきり分からないということにひどく驚いた
誰かを見て、「その人が私に何を望んでいるのか」を
あの手この手を使って推測する以外には
自分がどうすべきなのか、ということを測る術をまるきり持っていなかった

私に対して、誰も何も望んでいない
そして私は、自分のために何も望んでいない

私の食行動の異常が始まった頃は、極端に金のない生活だった。
自分の収入を計算して、使える食費は一週間に2千円だった。
一日の食事を一回にした。
朝履いて出たジーンズが夜の帰宅時には酷くずり落ちるようになった
勉強のために図書館にいくとなぜか、
食べ物に関する本ばかり延々と読み続けた。
頭の中は食べ物のことで一杯。
今思えば、最初の過食のきっかけは
飢餓状態に対する健康な生物学的反応だった。

しかし不自然なほどの量の食べ物を貪り食べる、という生活は
おそらく自分の内的な絶望や抑圧されたエネルギーと
うまく共鳴してしまったのだ

私に対して、誰も何も望んでいない
私は、自分のために何も望んでいない

醜い行いは自分に対する当然の罰であるような気がした
そして当然の罰を受ける、という発想に強烈に惹かれた
私は罰を受けて当然だ、という思い。
なぜなら、私はそのとき、
それまで信じてきたものを殺してしまわなければならなかったのだから

確かに母は自分と同じ「沈黙」というプレッシャーに耐え
同じ苦労を分かつ朋友になることを
娘に対してとても強く望んでいた
そして娘は気の毒な母にいつも同情しながら
その不吉さに対して漠然と恐れを抱き続けた

だから私が一番最初に摂食障害になったときに
自分の中の最大のアンビバレントというのは
母子関係の中で育てた価値観だった
「自己主張」と「沈黙」が
「不吉な母」と「気の毒な母」が
「主体性の理想」と「自己犠牲の理想」が
有無を言わさぬ強さで私の中で解決を待っていた
それは確かに母がくれたものだった

それはそうなのだ
だけど私が摂食障害を母子関係が原因の全てと言いたくないのは
生きていくということそのものが常に
「自分が望んでいること」と「自分が望みたいこと」という
アンビバレントを不断に統合していく試みに違いないと思っているからだ
一番最初の大きなアンビバレントが
「母からの贈り物だった」というのは無理からぬことではないか
それはいったい母親の「せい」なのか?
私は摂食障害になったことで彼女の「母親としての価値」を貶めたのか?

2007年06月03日

「摂食障害は病気かどうか」という点については、
これまでどちらかというとあまり興味をもたずにきた
(わかんなかっただけだけど・・・^^)
私が注目したいのは、「病気かどうか」ではなく、
私たちが今おかれた個人的、社会的状況の中で
何を感じていて何ができるか、ではないか
と思っていたからなのだけど


この点について、最近ムムム、と思ったのは
「やせ願望」の精神病理の中では、積極的意味をもって
摂食障害は病気である、ということを強調し、
そして当事者にたいしても「患者」という言い方をしている
(摂食障害に関する一般書で「患者」という呼び方はあまりみかけないような気がする)

摂食障害を「病気」とする意味はこうだ

「摂食障害は病気ではない」と考えてしまうと、なかなか治療にのれず、治りが遅れてしまったり、周囲からの心ない言葉によって傷つけられたりしてしまいます。
(--中略--)摂食障害の人の責任は良質な治療を受けて、少しでも早く気持ちの良い自分を取り戻すことなのだということを、しっかりと心に留めておく必要があります。
専門的には、これは「病者の役割」と言います。
治療の第一歩は、患者さんに「病者の役割」を与えること、つまり病気であるというレッテルを貼るということです。
病気であるというレッテルを貼るというのは、一見酷なようですが実に重要なことです。
病気ではないと思うからこそ、「あの人は過食を言い訳にして仕事もろくにやらない」「せっかくステーキをご馳走してやったのに食べないのは失礼だ」などと他人から非難され、また自己嫌悪にも陥るのです。
病気であるというレッテルが貼られると、その瞬間から、その人の責任は、「治療を早く受けて早く回復すること」となります。
周囲の人の責任も、「治療に協力して早く回復してもらうこと」となるのです。

著者の水島広子さんの言うことはいちいち理論的で非常に分かりやすいですね。
なるほど。


私は自分自身の経験を振り返って、
「自分で何らかの必要があってやっていたこと」
「自分にとって必要な期間「維持」していたもの」
というような捉え方をこのサイトに繰り返し書いているのだけど

自分で書いておいてナンですが
そういう言い方にも問題があるな、と今思っているのは
一つには、「自分で維持した」というニュアンスの言い方そのものが
凄く「助けをもとめにくくさせる」ということがある。
結局自分で自分に責めを負わせ、
そしてこれまでほとんど全ての摂食障害の人たちがそうであったように
「また、ひとりで溺れていなければならなくなる」
誰にも言えない、というのは摂食障害の最大の問題でもあるかもしれないのに。
たしかに「自分で維持した」なんて言ったら
「つらい」なんて言ってはいけないという気になるだろう、これは由々しい問題だ。

それから、社会的要因というのが、軽視されてしまう、というのも問題だ。
この異常なやせ賛美社会が女性全般にどれほどプレッシャーを与えているか、ということが
摂食障害を個人の問題に帰すことで意味が薄れてしまう。
だから摂食障害の人は決して減らない
今この道を歩く人も、あとからこの道に足を踏みいれる人も
すれすれのところでこの道を歩かずにいる人も
みんなが同じ苦しみ方をして、苦しみを与えているソレ自体はのうのうとのさばってしまう
誰もがソレについては口をつぐむ

もうひとつ、
周囲の人間の対応が混乱する。
「治らないのは意志が弱い証拠」というような勘違いをされる可能性がある。
これはまず事実に反している。
意志で治るくらいならこの世に摂食障害なんてないはずだ。
それから治療機関にかかる機会を遠ざけてしまうことも考えられる。

と、つらつら書いていくとかなり弊害が多いじゃん、
と言えるのだけど、
ただ私はどうしても回復の道筋で「自分にとっての摂食障害の意味」というものを
確認する作業をしたい、という思いが強くある、
これほどに辛い思いをして自分の中に何がうまれ出たのか、
ということの意味を常に捉えていたい、という気持ちがあり、
「病気」と言ったときに付随するような
「なければない方がいいもの」
「少しでも早く治るほうがいいもの」
「ない方が正常なもの」
「コッチの世界の人々とは異質なもの」
というところに摂食障害を押し込めたくない、という気持ちがある。
社会や周囲の意識に、変えていかなければならないところはたくさんあるが、
「犠牲者」にまわりたくはない、という意識が私に
「個人としての摂食障害の捉え方」というものに凄く拘りをもたせる

わたしたちは「生きにくい世」を精一杯なんとかやりくりして
「生き抜いた」だけではないか
私たちは「異常」なのではなく
「非常に苦しい思いをとおして新しい何かを生み出そうとしつつある」のではないか?

という、
私はとっても、
「希望」についての話をしたいのだ

色々な捉え方ができますね
「病気かどうか」
そしてどこまでを社会に帰し、
どこまでを個人の生き方に帰すか、
そして私たちに何ができるか
このあたりはいつも手探りです。

2007年06月02日

「やせ願望」の精神病理」という本にからんで
対人関係療法という非常にユニークな治療方法について以前ご紹介しました。
→参考記事:対人関係療法

これは非常に興味深い、と思ったので
詳しい本をもう一冊読んでみました。

自分でできる対人関係療法
自分でできる対人関係療法

(非常に面白い本だったんですが、
もうちょっと文字量が多くてもよかった、という感じはします。
さらっと読んでしまいました。
でも「今、対人関係で出口の見えない思いをしている」人は
おそらく何らかの発見があると思います。なかなか面白いです。)

「やせ願望」の精神病理では、「重要な他者」との「現在の関係」に着目し
コミュニケーション方法を改善することを目指しており、
この本でももちろんそれがメインなのですが、

実は「コミュニケーションをとらないほうが良い場合」
に対する判断はどうなっているんだろう、
というのが個人的に気になっていたので
ちょっとその部分を注目してみます。

先に私がなぜその部分にこだわるのか、ということについてちょっと触れます。
私はコミュニケーション分析についての記事を書いたときに
個人的な注釈として「『モラルハラスメント』のケースに対しては
別の判断になると思います」という注を独断でいれたのですが、
それは実際私がモラルハラスメント的な関係によくひっかかっるからです。

モラルハラスメントとは単独の人の性質というよりも
「加害者・被害者」関係のある状況ではじめて使われる言葉で、
わかりやすくいうと「いじめ」のことです。
もともと性格の傾向として
「自己愛が極端に強く、自分のことしか考えられず、
人を傷つけることで自分の力を誇示することが好きな人」が
閉じられた空間の中で「被害者」を得たときに発展していく
はてしないいじめの状況をモラルハラスメント、という風に呼びます。

私は立て続けにモラルハラスメント的人間関係に陥り、
そこから抜け出せなくなった時に、はじめて
「これは単に運が悪かったってだけじゃないな」というふうに
自分に何が起こっているのかを考えはじめました。

私に起こっていたのはこういうことでした。
「自己評価が極端に低いために、相手が明らかに理不尽なことを言っていても、
自分が妥協すべき、あるいは努力してなんとかすべきだと思ってしまう」
そのため、より自立的な精神状態であれば「この人は何かおかしい」と思った時点で
やり過ごしたり、あるいはそれとなく疎遠となったりするはずのところで
「理解を求めてその関係に全力を注いでしまう」
そして気づいた時には加害者の思い通りに、
「閉ざされた空間の中でひたすらいじめに耐えることを役割とする」
という任務にしたがっている、ということを続けていたのです。

今詳しく述べたいのはモラルハラスメントのことではなく、
「人間、話せば誰でもわかるはず」と思い込んでしまうことの危険性です。
これが、私が経験の中で学んできたことの中でも非常に貴重なことのひとつだったので
この対人関係療法の理論の中でその点についてはどのように扱われるのか
ということが一つ知りたかったことです。

対人関係療法の理論の中では「相手との距離を見極める」という形で
このコミュニケーションの引き際について組み込まれていました。

まず判断すべきなのは
「相手との関係にどれだけのエネルギーを費やすのか」ということです。
対人関係は大きく分かれると三つのグループに分かれます

第一層・・「重要な他者」親、恋人、配偶者など
第二層・・親戚や親しい友人
第三層・・仕事上の関係者

「重要な他者」との関係には全力を注がなければなりませんが、
すべての人との関係を改善しようと力を入れてしまうと、
とんでもない目にあってしまうことがあります。

自分の悩みの元になっているのが、第二層の人なのか、第三層の人なのか、
つまり、自分と相手の距離はどの程度なのかを、まず見極めます。

第三層の人ならば、関係の改善に努めるよりも
相手の言動に鈍感になる、という戦略の方が楽です。

たとえば、「相手が嫌なことをいうこと」というのは
「自分が人間として相手よりも下であるということ」と考えたりせずに、
「相手が嫌なことをいいたいのだろう」という風に軽く受け流すようにします。
相手の言動と自己評価を関連づけない、という方針です。

本当に自分側に非で、何か対人関係の悪い癖があるのかもしれないと思う人は、
まずそのことについて「重要な他者」の意見をきいてみましょう。
第三層の人たちの顔色をいちいち窺うよりもずっと楽ですし早道です。


第二層の人であれば
嫌なら関係を絶つということもしにくい場合が多いですし
それだけ自分の心に与える影響も大きくなるため、
付き合い方は思いのほかむづかしくなるでしょう。

この場合、バランスが大切になります。
自分の心の疲れ方を観察するのがいちばんです。
問題を放置すればするほどストレスがたまる、と思えば、
問題解決に乗り出したほうがよいでしょう。
ですが、関係を改善しようとすると疲れてしまうと思えば
無理をせず、相手の言動に鈍感になったほうがよいでしょう。
相手に変わって欲しいところと、受け入れるべきところを
冷静に区別して考えることが大切です。

第一層の場合、自分の情緒に最も密接に関わっている対人関係ですから
これは全力を注ぐべき対人関係になります。
重要な他者との間の問題は、
「相手への期待が不適切であること」「コミュニケーションが貧弱であること」
という主にふたつの要素によって作られます。
解決のためには「期待を適切なものに変えるか」「コミュニケーションを改善するか」
が選択肢となります。

この役割期待のズレにたいする段階として
「再交渉」の段階・・お互い全く譲り合わずに言い争っているだけ
「いきづまり」の段階・・お互いの主張を飲み込んで沈黙している
「離別」の段階・・解決不可能なほどズレが大きい
という三つの段階があります。
それぞれで「ズレをあきらかにすること」「ズレを解決するための選択肢」
を考えることが必要になります。

例えば私が前述したモラルハラスメントの関係では
一方が「話し合い尊重しあえるパートナー」の役割を望んでいるのに
もう一方が「自分のための奴隷」の役割を望んでいるまま
その役割期待の譲歩がまったくできない状態のことですから
「離別」の段階となり、
「喪失を受け入れる」という作業に進むしかない状態だった、
という風になると思いますが
この場合も「ズレをあきらかにすること」と
「ズレを解決するための選択肢」を冷静に考えることができれば
解決できる問題となると思います

2007年06月01日

ダイエットの現代史です。
ごくごく最近のものだけ。
自分がどのあたりで生まれ、どのあたりで思春期を過ごしたか、
ぜひ眺めてみてください。
我々の生きる世はなかなかのサバイバルゲームです。

作っていて思い出したんですけど、
同級生が「あたし、本気でシェイプアップしようかなあ」
と言い出したのを聞いて唖然とした最初の記憶はなんと七歳の時でした。

※参考文献
みんな、やせることに失敗している
ダイエットやめたらヤセちゃった
「やせ願望」の精神病理―摂食障害からのメッセージ
女はなぜやせようとするのか-摂食障害とジェンダー

20世紀初既製服の生産が増大 ボディを服の規格に合わせるという発想がうまれる
1943アメリカ メトロポリンタン生命保険会社が初めての体重基準表を公表する。
1950アメリカミネソタ大学のアンセル・キーズ教授により大規模な飢餓実験が行われる
極端なカロリー制限によりどのような人にでも摂食障害と同様の症状が現れるという実験結果は近年の摂食障害、ダイエット研究などで多く引用される
1959バービー人形の発売。八頭身で極端にスリムという非現実的なプロポーションの人形が少女たちの玩具として世界中で大人気となる
1960アメリカで「ジム通い」が流行し始める
「肥満=自己コントロール能力の欠如」という図式が高学歴層を中心に認識され始める
1965英国のモデルトゥイギーが女性誌「ヴォーグ」に登場
167cm・41kgという拒食症を連想させるようなプロポーションが人々を驚かせる
1970年代アメリカのミスコンテストで明らかに低体重の女性が優勝するようになりはじめる
日本で始めてのタレントがらみのダイエット本「ミコのカロリーブック」発売
1979神経性大食症が始めて論文として報告される
西洋文明社会で「スリムな女性は美しい」という図式が定着し始める
1979日本の女性誌「アンアン」が「シルエット時代の到来」と称し、一冊丸ごとのシェイプアップの特集を組む。
日本のダイエットブーム勃発、女性の美しさは「スリム」に限定される。 健康対策としての減量からファッション対策としての減量へイメージ転換
1980年代日本において松本伊予、小泉今日子、工藤静香など、それまでよりも痩せたアイドルたちが次々に登場。
1980年代日本でパイナップル、キャベツ、ゆで卵、リンゴ、グレープフルーツなど、単品ダイエットが次々に流行
1980年「食べた~い。 でも、やせた~い。”」というダイエット食品「ハイマンナン」のCMがテレビに登場。全国で売り切れ続出
1982ハリウッド女優のジェーンフォンダがフィットネスに関する本を出版「シェイプアップブーム」起こる。エアロビクスの流行。「痩せることは健康で美しい」というイメージの定着
1983歌手カレン・カーペンターが拒食症により死亡
(催吐剤イペカインの副作用と嘔吐によるカリウム不足から起こる心臓発作のため)
1983/3月女性誌「アンアン」にて「アンアン・ルポタージュ『拒食症』にならないために」という特集記事。摂食障害になりやすいパーソナリティを「自我が未発達」「ストレスに弱い精神構造」であるとしたうえで、「間違ったダイエット」をしないように、という警告がなされる
1980年代後半日本においてコンビニの急増により食生活が変化
1985日本で「ボディコン」服が提唱されブームとなる
1980年代後半日本において摂食障害の自助グループが作られるようになる
1988エステサロンがCMに登場。従来の美肌のためのシステムとしてではなくダイエットに効果がある、という触れ込みでの展開しはじめる
1988植松 治彦著「寂しい女は太る」がベストセラーになる
1990年代一般女性とは大きくプロポーションのかけ離れたスーパーモデルたちが脚光を浴びはじめる
1994森川那智子著「みんな、やせることに失敗している」出版
1996時計メーカー「オメガ」が女性ファッション誌「ヴォーグ」への広告掲載を停止
「女性モデルがやせすぎの身体を強調しており、雑誌読者に対してやせることを奨励する恐れがある」というのが理由
2000/5月英国医師会が、テレビやファッション雑誌が異常なくらいにやせたモデルばかりを取り上げることが摂食障害の原因であるとする報告書を発表
2000/6月ロンドンで「ボディー・イメージ・サミット」開催
摂食障害とスリムなモデルをもてはやすメディアとの関係について意見交換を行う。
起用するモデルや女優に多様性を持たせるよう自主的な基準を作ることをメディアに求める

勉強のために参考文献は結構かき集めているんですが
せっかく手にいれて長く手元においているのに
どうもレビューの書きようがなくて放ってあるもの、というのもあって
これはどうしようかな、と思っていたんですけど
転んでもただでは起きないので、番外レビュー特集です。

これらは「悪書」である、という意味ではなくて
ポイントが私のとっかかりとずれているので
喰らいつきようがなかった、ということです。

(昨日からちょっとネタ枯渇中ですみません。
今、色々読んでおります^^。)

エリザベス・テイラーの挑戦―私が太った理由、痩せた方法
エリザベステイラーの挑戦


女優によるダイエット本のはしりで、
世界的ベストセラーになったものとして
ダイエットの歴史にまつわる記述によく出てくる本のなので買ってみました。
大規模なダイエット時代の幕開けを告げるもの、ともいえます。
内容はごく普通の「女優によるダイエット本」でした。
エリザベステイラーが27kg痩せた方法、というのを公開しており
一日三食分の細かい食事メニューがついています。
極端なカロリー制限によって反動の過食状態を招きそうな内容なのですが
実際リズはこの本の出版後に再び太り始め、
水とビタミンしか取らない極端なダイエットをして病院に運び込まれているそうです
(このエピソードは「みんな、やせることに失敗している」参照)
おそらく、このダイエット後の過食は
生物学的に健康な反応だったのだとは思うのですが
「世界的ベストセラーのダイエット本を出した後の自分」というプレッシャーもあって
酷くこじれてしまったのではないか、と考えると
「自分の身体」を「社会のもの」として扱わざるを得ない人の苦しみ、
というのが非常に辛く思えます。


美人論
美人論

美人論

不美人論が面白かったのでパロディ元と思われるこっちを読んでみました。
(参照記事→不美人論レビュー

これ、論旨としてはですね、
「美人とは得である。
だから昔は不美人を励ますために、美人は根性が悪い、と”たてまえ”で言われてきた。
民主主義が広がった現在は平等主義にそまって、
万人が美人になれる、なんていい始めたが、
それもやっぱり昔から延長している”たてまえ”論である。
面食い万歳!」

という内容の書なんじゃないかと思うんですが、
(途中で飽きて斜め読みしたからちょっと違うかもしれない)
なんだか微妙な本でした。
著者は美人万歳、面食い万歳という立場であるわりに
「美人」という人々に対する共感というのも語り口からはあまり感じないので
結局何のために書かれた本なのかがよくわからなかった。

著者は建築史の専門の方のようなので、
自分の中に「造形学的美人」というのが確固としてイメージできるのかもしれませんが
普通は人間は表情や仕草や感性を通して交流していくものなので
「造形学的構造」だけで、このグループは得、このグループは損
っていう言い方ってなかなか難しいんじゃないかなあ、っていう
まず前提のところから私は疑問を持っていたので最後まで話題に乗れませんでした。

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