どうせ私なんか症候群
「私はこんなにも自殺したいのに、どうしてみんなは許してくれないんだろう」
というようなことをある年齢まで結構本気で考えていた。
今思うと随分見通し悪い思考回路だったなあ、と思うけど
でも、とにかくそういう風に、かなり長い間思っていた。
不思議なことに
「自殺願望」というのが自分の唯一最大の良心だ、
と信じ込んでいて
それによって自分は特権階級であるのだ、と思っていたようなところがあり。
(本棚には太宰治全集が並んでいたりする青春の日々^^)
「自殺」という、こんなにも人の迷惑にならないこと(←明らかに認知が歪んでるけど)
くらいしか望んでないんだから
せめてそっとしておいて貰える権利くらいあるはずだ、
というかなり閉じた思考。
実際のところは「死にたい」わけじゃなくて
「生きる方法」が見つからなくて途方に暮れてただけで。
・・・まあ、恥ずかしいですよね。
でも生きるってのはそもそも恥ずかしいから仕方ないですけどもね。
あれは何かというと
「自殺したい」という気持ちを手放さないことによって
「可哀想」で「気の毒」で「悲劇的」な人になりたかった
そういう風に周りの人に思ってもらうことで
いろいろな問題を解決してしまいたかった、というのがあった
どういうわけだか
そのとき自分を取り巻く「問題」は自分の手には負えない、と思い込んでしまって
そうであれば「自分で動く」のではなく
「人の気持ちを動かす」しかないのだ、
と信じこんだからこそ
「自殺したい」とできるだけヒステリックに思いつめることは
なんとなく自分にとってのお守りだったのだ
実際のところどうなのか、というと
第一に、自殺願望といのは
ゼッケンみたいに背中にぶら下げて歩くわけにはいかないので
なかなか「わかってもらいにくい」
この時点で「自殺願望」を
コミュニケーション手段、交渉手段として使おうというのはかなり無理がある。
第二に、誰かに自殺願望を伝えたとしても
「可哀想」で「気の毒」で「悲劇的」という風にはまず思われない。
「この人は自殺したい人なんだな」ではなくて
「この人は”自殺したい”と言いたい人なんだな」と認識される
(そしてこの認識は多くの場合実際正しい)
人の気持ちを操作しようという努力は不毛なもんだ
第三に、自殺って正気ではなかなかできない
デモンストレーションで手首をちょっと切ってみるくらいでも
びっくりするくらい集中力を使う。
なんとなればできるだけ危険のないように注意して切っていたりして
人間ってのは、普通にしてれば生き続けるようにできているらしい。
そういったわけで
私は結構長い間「死にたい」と考える癖があったし
未だにヒトリゴトでいきなり「シニタイ」って言うことがあるんだけど
でも、考え方の癖として「死にたい願望」を判断したときに
今ではその効果を評価していない
「死にたい」という自動思考に陥る前に
もっと他にできる効果的な楽になる方法が一杯あるからだ
以前、北杜夫が自分にはみっつのヒトリゴトの癖がある、
と対談で言っていたのを読んだことがある
「助けてくれ」と「神よ」と「愛してる」という言葉を、
知らないうちに口走るのだそうで。
似てるよな、と思ったのは、
私は「死にたい」と「帰りたい」とそれから、
”成就しなかった昔の片恋の相手の名前”というみっつのヒトリゴトを
意識しないで口走る癖があるからで
なんだかバリエーションとしては
殆ど北杜夫のヒトリゴトと一致しているような気がする
「死にたい」「帰りたい」「昔の男の名前」って
それだけ聞いてるとなんだかめっぽう陰惨な人生みたいだけど
「助けてくれ」と「神よ」と「愛してる」というのと
同じような願望の表現なんじゃないかな、と思って考えてみると
どれも全体の中に戻っていくイメージの願望なのであって
別に悪いことでも恥ずかしいことでもない。
そういう意味では「自殺願望」もあるならあるで全く構わないじゃないか、と思う
ただ実際生きていくうえで
「自殺したい」に多くを頼る考え方の癖というのは
あまり効果的ではない、ということを知っていたほうが
「生きる」というイメージも結構伸びやかになるのかもしれないなあ、
ということを考えてみたり。


コメント
ものすごぉぉくわかる気がします。
私は太宰治ではなくひたすらCoccoでした(笑)
「死にたい」=「できるだけ生きる苦しみから逃れて生きたい、できることなら赤ちゃんに戻りたぁ~い」
が本心だったと思います、私の場合。
そうして被害者でいるうちに、なんでもわかってくれてどんなときでも助けてくれる、私を最優先に考えてくれるドラえもんが現れるって信じてました。
死んでやるといいながらも、家族の帰る時間を計算しながら大量服薬したり(笑)
手首切ったあとの血だらけのティッシュをこれ見よがしに置いてみたり。
生きるってことをとても大層なモンだと思ってたから、私は他とは違う特別な人生を歩まなければとか思ってたから、ちょっとの辛さにも失敗にも耐えられない。
私は他とは違うの~弱いから助けてよ~助けてくれて当然の人間なのよ~って。。う~ん、甘ったれ。
その思考のまっただ中にいたときは、正直に言うと、障害を持ってる方を心底うらやましいと思ってました。無条件で守ってもらえそうだから。自分が恥ずかしい。
最近になってやっと気づきはじめました。「みんな自分を生きてるんだ。私と同じ様にみんな自分で精一杯なんだ。ドラえもんはアニメなんだよなぁ」って^^;
「死にたい」気持ちは悪じゃないと思います。そんな選択肢も選べないとガチガチに縛りつけてしまう方がきっと、ツライですよね。
投稿者: みきねこ | 2007年06月08日 23:05
みきねこさん
Cocco懐かしいなあ。
私も凄く聞いてました、そういえば。
どこかでかかってるのを偶然耳にした時に
「なんか今トンでもないこと歌ってなかったか?」と思って
気になって仕方ないので、わざわざCD買って歌詞カード見ながら聞き直したら
やっぱり聞こえたとおり歌ってて
「なんちゅーとんでもない歌、歌うんだ」
と思いながら手帳に歌詞書き写したりしてね(笑)
声の美しさと言い、歌唱力といい、歌詞の強烈さといい
絶望だか希望だかわからないところが凄かったです
多分絶望は希望なんだな、と納得した歌声でした。
いやあ、懐かしいこと思い出してしまいました。
ありがとう、ありがとう。
それはとても晴れた日で/泣くことさえできなくてあまりにも/大地は果てしなく全ては美しく/
って、これリストカットの歌だったよね
すげーよねー。(って蓮っ葉ですいません、懐かしくて軽くコウフン、笑)
投稿者: ノラ@管理人 | 2007年06月10日 00:18
おぉRaining、大好きです。一番。
綺麗なメロディと声に騙されるけど、ホントにとんでもないこと歌ってましたよね(笑)
「さぁ目を閉じて 撃ち殺してあげる」
とか普通歌えないよなぁ。
でも一番怖かったのはベビーベッド。この人狂ってるわぁと思った。あの頃平気だった歌詞を今じっくり読んでみると震えがきます(笑)
影を背負った歌姫って感じがウケたのかな。
今は割と穏やかな歌を歌ってるみたいですねぇ。
投稿者: みきねこ | 2007年06月12日 00:58
歌ったCoccoも凄いけど
あの詞でレコーディングした会社も凄いよね(笑)
当時「口デカイ系」とか言われてた
UA、チャラ、Coccoあたりみんな好きだったですね。
ベビーベッドってたぶん私の知らない歌だなあ。
でもCoccoとベビーベッドって組み合わせですでに身構える^^。
投稿者: ノラ@管理人 | 2007年06月12日 14:08