手に入らないものが欲しいということ
実は十年片思いしていた人がいる
・・・可愛いですね、こう書くと。
全然可愛い話じゃないんですけどね。
十年の間には
いわゆる「性的逸脱行為」にふけっていた時期もあるし
気を引くために別の人と付き合っていたこともあるし
他の人と共依存関係に没頭して殆ど片思いのことは忘れていた時期もあるし
摂食障害で片思いどころではなかったこともあるし
何かのはずみで他の人と付き合いはじめてウキウキルンルンのときは
うまくいかないもうひとつの恋愛のことなんかはなっから忘れてるもんだし
ようするに、
十年間綺麗なところでシンデレラのような恋をし続けていたわけではないのだけど
それでも、まあとにかく結果の方からさかのぼって思い起こすと
永きにわたって人生のメルクマールであった人、がいた
「十年間ひとりの人のことを好きだったんです」
というと、どうかすると「美しいこと」であるような錯覚がおこる
片思いという「十年間の執着」というのは
文化的にはわりと「良し」とされる範囲のもので
「十年間ひとりの人のことを好きだったんです」
という台詞はあんまりおぞましいイメージはしない
(私にとっては「十年間摂食障害やってるんです」というのと、
意味はあんまり変わらないんだけど、
社会的なウケは極端なほど違う。
片思いは医療費かかんないからか?^^;)
私がその恋愛に疑いを持ち始めたのは
いつまでたってもその無花果な恋を思って泣くのがあまりにも楽しかったからで
よく考えてみるとその号泣の儀式の間思いをめぐらせているのは
「素敵な彼」のことではなくて
「なんて可哀想な自分」のことのみなのだ。
もう自分が可哀想で可哀想で仕方ない、と思うと
いくらでも泣けたし、泣くと気持ちよかった
相手のことはどうでもよくて
ひたすら、「自分、可哀想」という儀式に徹するこの状況について、
「これが愛情か?」という疑問に対する答えは、さすがに明らかだ
摂食障害から離れていく過程で
「どんな体格であってもとにかく自分は自分なんだからしょうがない」
という、「あきらめ」を飲み込んだときはえらく苦い味がしたけども
長くこじらせた片思いを整理する過程で
「これは恋ではなくて、単に現実から目をそむけているだけだ」
ということを認識するのも結構苦かった
片思いを「アディクションのひとつ」という風に理解するよりも
「きれいな花園」としてとっておきたかったのは
やっぱりそこに没頭していた10年間というのは
私にとって長いものだったからで
「それは単なる現実に対するいいわけだったんだよ」という風に思うと
その10年間のためにとても辛い思いをするのだ
だけどその一方で
人生をいつも「片思いをめぐる号泣」に隠れることでやり過ごしてしまうのは
やっぱり何か惜しいものがある
人生には手にはいらないものがたくさんあるけども
手に入るものも、実際たくさんあるからだ
私にとって意味があったのは
その片思いが「明らかに不可能」であって
「自分の意志ではどうにもならない」ものであるからこそ
「絶対安全地帯」だったからだ
「手に入らないものだけを執拗に欲しがる」
ということには、それなりの意味がある。
十年片思い
今はどうしているのかというと
やっぱり時々思い出して泣くことにしている
たまにね
酒を飲んでちょっと昔のあれこれを思い出すと簡単に泣けて
抜群のストレス解消になる^^
自分で「そのことの意味」を分かってる限りは、
現実から逃げるくらい、いくらやったってかまわない
っていう風に私は思っている
何か悲しいことがあって、
それをうまく受け入れることができずに
正面から悲しむ勇気がないとき
おなじみの傷心を回想することで代わりに悲しんだって
それはそれはそれでいいじゃないか
「自分の悲しみの筋」がわかっているかぎりは、
現実の世界でも大した迷子にもなりはしない
時が来たら正面から立ち向かうために
「昔好きだった思い出」は今もゆりかごになって私を守ってくれる
そしてその恋を思い出す頻度が強くなるほど
つまり「今の現実は自分にとってそれほど目をそらせたい状況になっている」
という指標でもある
それからもうひとつ
「アディクションである」というふうに言い切ってしまうと
恋愛そのものの意味が死んでしまうのでは非常につまんないんだけども
とにかく彼は非常に素晴らしい人であった、というのは
やっぱり特等席でとっておきたい事実でもあるわけだね
でも「私の意志では手に入らん」
ということについては
「それはそれ。」
「手に入らないものが欲しい」
ということには、それなりの理由がある
それは
「手に入るものから目をそむけたい」
という、悲しみの表現。

