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2007年08月31日

これは本当に、私個人と、このブログについてのお話です。

このブログを立ち上げた時に思っていたことは
「摂食障害で悩んでいる人の役に立ちたい」ということだった
私は何か方法を知っていて、
それを知れば誰でも「治る」ことができるのではないか
と思っていたからで

だから最初の方の記事は結構そんな口ぶりになっている
今は読み返すのも恥かしいのだけど

「私は方法を知っていて、その通りすれば”治る”のに
どうしてこの人は私のアドバイスを聞いてくれないのだろう」
というふうなことを、私は実は何回か思ったことがある
そしてその中で気づいたことには、私はそうやって人を傷つけていたのだ
傷つけてしまったことだけはわかるのだけれど
どうして傷つけてしまったのかが、
本当に全く分からなかった

今になって、少しわかったような気がするのは
「治った人」と「治ってない人」という二分法そのものが
「治ってない人」という側に押し込まれてしまった人の気持ちをそもそも傷つけうるということだ。
「治った人」というのは、つまり「ノーマルになった人」であって
「治ってない人」というのは、つまり「改善の余地のある人」であるという
私は自分で知らないうちに、そうやって同じ悩みを持つ人を二種類に分けていたのだ
(私自身も「太りたくない」という気持ちを現在なお持っている「気持ちを同じくする人」なのに。)

傷つけてしまった人に対して、今でも恥かしく申し訳なく思っていて
でも、同時にとても大きなことを教えてもらって、
だからこのサイトは新しい可能性を見つけることができたんじゃないかって思っている
そうやってぎりぎりの思いで教えてもらったことはとても大切にしていたいと思う

でも、本当のところは
かつて摂食障害という苦しみを持っていて、そこから自由になった人が
今苦しんでいる人に手を差し伸べたい、というのは
それ自体、凄く自然な気持ちでもある。
過程がどうあれ、そういう自然な気持ちの発露がなければ今のこのブログも存在しなかった。
それにどんなものであれ悩みの中に居る人が
先行く人の話を聞きたい、というのもとても自然な気持ちだ

人を分断したくない、という気持ちを強くすると
その「自然な気持ち」の行き場が困る

「同じ仲間を分断したくないというあなたの気持ちはどこへ行きました?」
「同じ仲間の役に立ちたいと思ったあなたの気持ちはどこへ行きました?」
いつもどちらか一方に固執すると、必ずもう一方を傷つける

このブログに書かれていることは、私が思うにたぶん時々細かいところで少し矛盾している。
それは私が2つ抱えてきた「異なるもの」のそれぞれの側面で、
それはもう、そのままとっておくしかないような気がしている。

もしかしたら、時に誰かを傷つけながら気づき考えていくしかないのかもしれない
でも私が思ったのは
「一つを選択することによって、もう一つの選択もありえた、という事実を忘れてはいけない」
ということだ。

誠に私事ながら、このブログの歴史のお話でした。
おかげさまでこのブログも、色々な転機を迎えているなあ、と思う。
私がここで悩みながら、これからの歴史をみんなで作っていけたら、こんなに幸せなことはない。

2007年08月30日

プロアナ(1)から続いています

「病気ではなく、私たちはこうして居たいだけ」

という主張はとてももっともで、
「拒食という行為をしてはいけない倫理的な理由」
というものは全くないし、
それほど誇り高く自己主張をする人たちのことを
「精神病」というふうに決め付ける権限というのも、
誰も持っていないだろうというふうにも思います。

「痩せ続ける」ということで安心して生きていく方法を見出した人たちの選択は
個人の選択として断固尊重されるべきだと、私は思います。
安心して生きるために痩せることが必要である人たちから
痩せる権利を取り上げることは絶対に誰にもできないはずです。

私はダイエットはしていないし、今後もするつもりはないけれども
「あと三キロくらい体重が落ちるのは歓迎するよ」
というふうには思っていたりもします。
なぜなら体重が軽い方がこの社会で生きやすいと信じ込んでいるからであって、
高さこそ違え、彼女たちと同じ滑り台に乗っかっているのは確かで、
食を拒み、プロアナという立場を頑張りぬく彼女たちは
「たまたま私ではなかったけれど、
もしかしたら私だったかもしれないこの社会の中の誰か」
に他ならないということでもあります。

だから、私が個人として
「あと三キロくらい体重が落ちるのは歓迎するよ」
ということを考える権利は当然ある、
というのを信じるのと全く同質のこととして
ライフスタイルとして食を拒み、それをアイディンティとして主張する権利というのも
誰にでもあるはず、と思います

ただ、彼女たちが自らの立場を「治療される病気」ではなく
「選択可能なライフスタイルである」
というふうに主張するためのボキャブラリーを手に入れたからと言って
「自ら栄養失調になっていかなければ安定した居場所を見つけられない社会」
というものまでが同時に正当化される、ということにはならないということもまた思うんですね

周囲から見てどれほど頑なで気難しく、傲慢で、馬鹿げてみえるとしても
心を閉ざすということは、どんな場合でもつらい。
彼女たちはもっと生き易くなっていいのじゃないかと思うし
彼女たちの生きやすさは、私の生き易さにもそのままリンクするものです

彼女たちがプロアナを主張するのは
「痩せていることは良いことだ」という社会の共同幻想に沿うように
それこそ身を削って加工した自分の身体のもたらす効果を
少しでも長く多く持続させるために
痩せていることを今より強固に崇拝の対象とさせておこう、
という試みであるように私には見えます
苦労が深ければ深いほど、その報酬も高く競り上げたい、という
それは自由な選択というよりも、苦しい束縛ではないのだろうか。

プロアナでも、過食でも、ダイエット依存でも
人はどのような生き方をする権利もある
でもその上で、なぜ「社会で居場所を見つける」ことと
「痩せること」が強固に結びついてしまうのか、
というカラクリについては、問いつづけられるべきではないか、
と思う、それが私のことのプロアナ、というムーブメントに対する感想です

皆様いかがでしょうか。

関連記事
プロアナ(1)
プロアナ(2)
プロアナ(3)

mixiコミュ「ボディ・フリーイング・サミット」、
誤解、賛同、怒り、安堵、気づき、色々巻き起こしつつ
とても有意義な話合いができているように思います。
(あ、阿鼻叫喚の事態じゃないですよ^^;
おだやかに、でも真剣に本音が語られております。)
迷っていらっしゃる方、ブログにはコメントを書き込みにくい方、
よかったら深いお話をしにきてください。
mixi未経験の皆様もお待ちしております。
-----

mixiメンバーの方から「プロアナ」というムーブメントについて教えていただきました。
アノレキシア(拒食症)を支持(pro)という意味の言葉だそうです。
(参考サイト→[摂食障害]プロアナ
興味深かったので、ちょっと色々と考えてみました。

上記参考サイトより解説部分を引用します。

歴史的に見ると、プロアナ・サイトは拒食症からの復帰を勧めるサイトのアンチテーゼとして登場した。痩せることは精神病ではなく、オルタナティブなライフスタイル(alternative lifestyle)である。そして、病気ではなく、回復しないことを選び取る(choose not to recover)と主張することによって、極端に痩せた体型を得る欲望を正当化する試みである。

自分は「拒食症という病気なのではなくて、摂食をコントロールするという生き方をしている」
という主張をする人たちが社会的なムーブメントとして出てきている、ということです。
拒食をする人が「自分は病気でない」というふうに主張することは珍しいことではないのですが
「プロアナ」という言葉を発明し、インターネットなどを使って情報の発信をすることにより、
社会に対してその立場をより明確にしている感じですね。

プロアナというのは今のところ海外のムーブメントであり
日本語で直接読めるものがなかったので、
誰かの手によって解釈された情報しか読めなかったのですが(いつも思うが英語の勉強しないとネ・・・)
プロアナビデオというものがあります
(参考サイト→プロアナビデオとは
プロアナサイトなどで流通している画像で
「超スキニーなモデルや拒食症の女性の写真ビデオを見て、自分もやってみようと思ったり、
あるいは持続するための勇気づけにしている」ものだそうです。
上の参考サイトから閲覧できます
(キレイにとってあるモデルさんたちの写真の羅列ですが、
たしかに体つきは紛れもない拒食症のものです。個人の判断で観てくださいね)。

そのビデオの中で流れる字幕がこのプロアナという立場の生の声に近いものか、
と思いますので稚拙ながら訳してみました。

痩せていなかったら、セクシーじゃない
痩せるためならなんでもしなくちゃ・・・そう、何もかも。
罪の意識なしに食べることは許されない
カロリーを計算しなくちゃいけない
体重計は友であり敵でもある
私たちはお腹が空かないの
ビタミンを飲んで
スポーツをして
水とお茶を沢山飲んで
眠る前には食べず
毎日体重を量り
翼を広げて飛んでいく
完璧は成功への力

部屋では食べてはいけない
食べ物はアートに似て
それはただ見つめるためだけにある
完璧でないボディは完璧でない人をあらわす
口の中にあるのは一瞬だけどヒップにつくのは永遠!

力を手にしていよう
それはとっても価値があること
痩せすぎるなんてことは絶対にない!
(画像URL→http://www.youtube.com/watch?v=hplN3IEuuo4)

関連記事
プロアナ(1)
プロアナ(2)
プロアナ(3)

2007年08月29日

もう一度、mixiの宣伝をさせていただきます^^
ご参加くださった皆様ありがとうございます。
このブログでコメントを書き込みにくかったみなさんにも
本音で話しあってもらうことができるように、
非公開で運営することにしました。

「ちょっと様子を見に行く」ということができなくなってしまってごめんなさい。
でもみんなでじっくり話しあうことで深い経験をしませんか。

今のところ、こんなトピックを立ててみました、
という宣伝です。
興味もたれた皆様、語りにきてください。

ちょっとずつ、お世話になってる方に招待状をお送りしていきたいと思います。
すでにmixi登録済みの方、ご不要かと思いますが、お許しくださいませ。

↓ボディ・フリーイング・サミット
ボディ・フリーイング・サミット

**現在のトピック**

○痩せたい理由は何ですか?
「痩せたい」と思った時に
痩せる努力をするよりも、なぜ痩せたいのかを考えてみることの方が
役に立つ場合も沢山あると思います。
自分はなぜ痩せたいのか、みんなはなぜ痩せたいのか
目的と手段は一致しているのか、ちょっと考え直してみませんか

○それでも痩せたいというため息
「痩せたって人生が変わるわけじゃない」
と頭で分かっていても、やっぱり痩せたいというジレンマ。
「ダイエットをやめたい」「でも痩せたい」という終わらない思いについて
言葉にして表すことが、何かの助けになるかもしれません
先入観なしで率直な気持ちを話し合いたいです。

○摂食障害と経済
「働けない」という恐怖心や
「働いても全て食べ物にお金を使ってしまう」という罪悪感
一見健康なのに親掛かりになっているという焦燥感
「お金がなくて節約しなけらばならないのに食べたらとまらなくなってしまう」など
摂食障害とお金の話は、切り離せない面があるような気がします。
そのもやもやを語り合いたいです。

○摂食障害の治療施設に関する情報
摂食障害について、どこでどんな治療が受けられるのか、
というのを患者目線で集めた情報が全くなく、
悪質な治療者の話も沢山聞きます。
どうぞ客観的なクチコミ情報をください。
もしある程度集まれば地域別に整理もして、活用できるようにしたいです

○配偶者・恋人に痩せてと言われる
好きな人から痩せてといわれる、
傷つくけど、傷ついたといえない。
こっそりダイエットするけど、うまく行かない。
言葉にしてうまく伝えられない悔しさ、悲しみを感じたことがありませんか。


※どんな話題で話しあいたいか、というご意見もお待ちしています。

2007年08月28日

このサイトは私が主に私が記事をご紹介していくことで
どっちかというと「読み物」として成り立ってますが、

自由に「語り合う」場が欲しかったんですね。
「こういう話って、してもいいんだ」
「こんなことで悩んでるのって私だけじゃないんだ」
ってのが、確認できる場所
差別意識なしできちんと公平に物が言えて聞かれる場所、
そういうものが欲しい

と思ってたんですが、

みなさん、mixiやってみませんか?

私は夏目祭子さんのコミュニティ「ダイエットやめてもスリム生活!」に
おじゃまするためにアカウントだけとって放置してあったんですが、
これ、語り合いの場としては従来の掲示板より使いやすいかもしれない、と思ったんですね。

それで私も作ってみました

↓ボディ・フリーイング・サミット
ボディ・フリーイング・サミット


ボディ・フリーイング(身体を解き放つ)という言葉は
cafemmeさんに教えてもらったもの、
サミットという言葉はみやさんのメールから頂いたものです。
凄いでしょ、身体を解き放つための”首脳会議”ですから^^
最強です。

このサイトも英語文献講読メーリングリストとか、
大規模な企画倒れ出してきましたが、(また出直す気ですけど^^;)
性懲りもなく、今度はmixiコミュ(笑)

大切なのは「治療者、学者がそれをどう解釈するか」ではなく
「当事者が何を感じ何を語るか」をそのまま知るための場所だと思うんですよ

普段お世話になってるみなさんをちまちまとお誘いしていこうと思ってます。
「参加する!」と思って下さった方、
mixiご利用になったことがない方は招待状をだしますので
「mixi招待状求む」というふうにメールください


このブログではコメントを書き込みにくかった人にもお話してもらえるように外部非公開で運営することにしました。
守られた場所で、安心して話せるようにしたいと思います。
参加お待ちいたします

2007年08月27日

「コーラダイエット」という、こんな方法があるらしい。

ある女子高生が一ヶ月で五キロ減を達成した方法。 朝、昼は普通に食べ、夕飯をダイエットコーラ一缶にします。 炭酸でお腹がふくれるため、意外と空腹感はないとか。 銘柄によりますがダイエットコーラは一缶で30キロカロリー未満。 発案者は山田邦子さんだそうですが『トカクニベルト』以来かなり飛ばしてますね。
どんどんヤセグセがつく本―絶対ヤセる・100通りの超ダイエット法 」より引用

私は沖縄の離島で住み込みでアルバイトをしながら暮らしていたことがあり
その頃、もうすっかり回復したと思われていた摂食障害がまた戻ってきていた、
そのときダイエットコーラをよく飲んでいたことを思い出した。

自転車で北海道から沖縄まで行って、
初めての土地で仕事を探し、家を探すうちに
それらの急激な環境変化で数日で顔つきが変わるほど痩せてしまった
その反動が、環境になれるに従い少しずつ出てきて、
私は普段よりよく食べるようになったのが少し気になり始めていた

寮の自動販売機に、ダイエットコーラがあり、とても手軽に手に入れることができたので
お腹がすいたら、食欲を抑えて食べる量を調整するために
まず、これを飲めばいいんだな、と思った
別に「行き過ぎた」何かをしようと思ったわけではなく
食べ過ぎないために食間にダイエットコーラを飲もう、とふと思っただけだ

ダイエットコーラは
舌にべたっと甘い味が残り
お腹には完全に空っぽの感覚を意識させた
飲むと決まって舌の甘い刺激に相当する分だけの
「本当の食べ物」が欲しくなる

食欲をセーブするためにダイエットコーラを飲むのに
飲めば飲むほど、はっきりと食べ物を渇望し
ますます強く頭から食べ物ののことが離れなくなるのを
私はまさかダイエットコーラのせいとは思い至らずに
自分の腹の感覚が信頼できない動きをするのだと思い込んでしまった

食べたくなればまずダイエットコーラを飲み
ダイエットコーラによって、はっきりと食欲が刺激される
期待を裏切られた私は自分の身体など信頼できないと思いこみ
自分に屈して、実際に食べるまでの間、延々に食欲との喧嘩を続ける

たかが、「食べる」というだけのことが
自分自身との永遠の死闘の末に、「屈服する」という形によってしか行えなくなっていた
もう食べ物のことなど考えたくないとへとへとに疲れきる
自分は信頼できずない、意地汚い生き物なのだと思い込む
もっともっと、ますます自分の食欲など、信用しなくなっていく

「食べたい」と思ったときに最初に考えるのは
いかに自分をだますか、ということになった
いかに低カロリーのもので「食べた気」になるか
欲望が強く放っておけば何をするかわからない凶暴な自分を飼いならし、騙すために
どんなものを使えば良いか、
食べ物は「食べ物」でなく「食欲を抑えるための道具」となり「闘いの場」となっていく

勿論、ダイエットコーラが全てではない
環境を変えるだけで人生が変わるのではないかと思い込んでいた、
その幻想が現実にぶつかった時に
まだ夢を託す先は「痩せた体」にしかないような気がした
体型は人生に直接関わると思った
自分を無力だと思い、そのことに絶望していた
不毛な鬼ごっこに気づいて冷静に途中下車することなく
没頭し、継続させる下地を、確かにその時私は持っていた

だけど、そうは言っても
あの時食欲を最終的に完全に狂わせたのは
記憶を手繰り寄せる限り、
ダイエットコーラやその他の
舌だけを刺激して腹にはなにも入らない、食品のフェイクだったのも
また確かなのだ

絶食、下剤、ダイエット食品、甘いものの過食、過剰な運動
数ヶ月で立ってるだけでも辛いほど、身体は弱った
本当にあっという間だった

ダイエットコークというのは今でも毎年発売されるけれど
発売元も気づいてないはずはないと思うのだ
舌だけを刺激する「空っぽの味覚」が
実は恐ろしいところに続いていきかねないというところに

2007年08月25日

「・・・つまらぬものを見てしまった」
というのが、全員一致の昨日の感想だったみたいですね。
(参考記事:フジテレビ放送「人類と食のミステリー」感想求む
どうも、真剣に語るほどのものでもなかったようですが、
たまにはつまらぬものをつまらぬと言って切るのも暑気払いかと・・・^^;

そういったわけで
暑気払い企画「ダイエットの悪口」です。
ほんの怪談話の一種として。こんな本。

どんどんヤセグセがつく本―絶対ヤセる・100通りの超ダイエット法
どんどんヤセグセがつく本


FOOD系、LIFE STYLE系、SPORTS系というふうに三章に分けてダイエットを紹介してる本なんですが、
一番数の多いFOOD系を、怖いものみたさで見てみます。
いくつくらいご存知でしょうか。

ウォーターDIET/コントレックスDIET/ココアDIET/きなこココアDIET/杜仲茶DIET/コーン茶DIET/リンゴDIET/パイナップルDIET/バナナDIET/プルーンDIET/トマトDIET/寒天DIET/ゼリーDIET/ナタデココDIET/チョコレートDIET/ヨーグルトDIET/プレーンヨーグルトDIET/ハチミツDIET/アロエDIET/DIET/ゆでたまごDIET/こんにゃくDIET/オオバコDIET/ギムネマDIET/30品目バランスDIET/飲尿DIET/野菜スープDIET/ダイエット茶DIET/食べ合わせDIET/ダイエットガム DIET/チーズDIET/スパゲッティDIET/鍋DIET/カレーDIET/おかゆDIET/断食DIET/シリアルDIET/キムチDIET/根こんぶDIET/ベビーフードDIET/糖尿病食DIET/ルイボスティーDIET/バナバ茶DIET/ハーブティーDIET/アイスクリームDIET/間食DIET/カロリーメイトDIET/黒酢DIET/酢大豆DIET/きなこ牛乳DIET/ヤセるコーヒーDIET/コーラDIET/玄米コーヒーDIET/お菓子DIET/一週間のメニューDIET/

なんの秩序もなくひたすら食品の名前が並んでいる感がありますが、
懐かしいものもありますよね。
この本を読みながらタイトルどおり「どんどんヤセグセ」がついてしまったら絶対拒食症ですね。
恐ろしい本が出版されているもんです。
(興味本位で読む私も私なのか?不思議とこういうものは妙に面白い気がします)

基本の流れというのが、4つくらい
一つは「この食品は痩せる働きがあるから大量に取ろう(お茶とかきなことか)」というものと
それから「カロリーさえ減らせばいいから食事をやめて何かに置き換えよう(コーラとかバナナとか)」というものと、
「低カロリーでボリュームのある食品を大量に食べて腹を膨らませよう(キャベツとか寒天とか)」というものと
「毎食基礎代謝を下回るカロリーのメニューを考えて食べよう(カロリー計算)」というもの
ですよね。
あとは色々組み合わせたり、理屈が一緒で食品名だけが変わったり。

ちょっとどこで読んだ文章なのかうろ覚えなものですから不正確で申し訳ないんですけども
以前、椎名誠さんがどこかで
「ダイエット食品なんてあんなまずそうなもの平気で食べられるのは普段からうまいものを食べてないからだ」
っていうふうに書いていたのを読んだ記憶があるんですよね。
もっともな意見だなあ、と思って変に感心したのでよく覚えているんですが。

たしかにそうなんですよね。
「うまいものを食べる」という非常にもっともな地平を突き抜けてしまっているからこそ
これほど壊滅的な食事療法が次々と出てきて、
みんな「おかしい、おかしい」と感じながらもちゃんと流行ってしまうわけで。

何か魔法の食品を大量に食べて痩せるなんて話あるわけないじゃないか、とか
おやつみたいなものをご飯の代わりにし続けたら体壊すに決まってるじゃないか、とか
何でもいいから腹さえ膨らめば満足するなんてことあるわけないじゃないか、とか
生活ぶりや体調に構わず修行僧みたいなものを食べるなんて不自然じゃないか、とか
本当にね、そういうことは確かに普段からうまいものを食べていれば
生きることと食べること、というつながりにおいて
感覚の中のどこかでわかることではあると思うんです。

ただ、そういう「馬鹿馬鹿しいダイエット」を始めてしまう人たちってのは
流行かぶれで思慮が浅いからそういうことが分からないのかっていうと、
はっきり言って決して気まぐれで始めるのではないんですよね。

この本にも書かれていますが、
それぞれのダイエットにはきちんと綿密な科学的な説明というのがついていて、
「これこれこういう理由で健康に痩せられる、あなたは美しくなる、
全く安全、栄養バランスも大丈夫
(もしくはバランスを崩さないように○日間だけ行えば大丈夫)」
というふうに、それぞれ全部お墨付きがついているんです。

真面目な人がきちんと調べて、「安全」と保証のついているものを
ルールどおりにきちんとやってカラダを壊していったりする。
問題なのは、その「保証」がいつもまるっきり嘘っぱちだってことなんです。

「ダイエット」といいさえすれば人の関心が集まるからと
それぞれ適当にでっちあげたダイエットにもっともらしい理屈をつけて宣伝する。
方法どおりにきちんと正しくやっているうちに「うまいものを食べる」という
生きるに最も大切な機能のうちの一つが壊滅的な打撃を受ける
そうするとその人は何かしら「間違ったこと」をしでかしたんだ、というふうに断罪され
「間違ったほうのグループ」に押し込められる
ダイエットの方は手を変え品を変え、脈々と続いていく

じゃあ、その似非科学的な情報の浅薄さを見破れない方が悪いのか、と言えば
そうは言ってもそれはティーン向けの雑誌にも堂々と載っているのだし、
まさか誰も、人々が何の悪意もなしに、
ただ利己的な理由だけからそんなに決定的な結果を呼び起こす嘘を
あんなに親しげにつくわけがないじゃないかと、
よほどのことがない限り普通は思うわけです。

私たちは痩せてるほうが価値がある、というふうにすでに決まっている社会に生まれ、
物心ついて以来、身体は自由に作り変えることができる、という情報を浴びながら生きてきたわけで、
いずれかのダイエットの情報に決定的つかまるより先に
「このダイエットは似非の情報なのじゃないか」と疑う機会というのは
よほどの運に恵まれないかぎりは、まずない。

成長の段階で親に友人に「痩せたら?」と言われながら育ち、
痩せればあなたも幸せになるというスローガンに取り囲まれて暮らし、
このダイエットは絶対安心うまく行く、という情報の中に生き、

それで、一体、私たちが何の悪いことをしたと言って
新奇な目で眺められねばならないのか
あの、非現実的で裏づけのない危険なゴミ情報は、
一体、本当に無罪なのか

ダイエットという、
全く完全なるホラーのお話。
・・・涼しくなりますねぇ^^;

2007年08月24日

24日21:00放送 金曜プレステージ
「サイエンススペシャル・人類と食のミステリー・それでも食べずにいられない!!」 「体重154キロ無限に食べ続ける少女涙の入院治療で母恋し▽世界的モデルが絶命魔のダイエットで求めた家族愛▽飢えをしのぐ奇跡の植物を求め父苦難の旅へ▽肥満女性は美しい!?」
(フジテレビ週間番組表からそのままコピー)

私、テレビを所有してないので見られないのですが
このサイトを見てくださってる方がわざわざ教えてくれました。
見た方、よかったら感想教えてください。
私が自分で見てないので話題に収拾つけようがないんですけども、
思いつくままに語っていただけると嬉しいです。

ちなみにタイトルだけ見るとホラー扱いだな、という印象を受けますよね。
内容はいかがでしたでしょうか。

2007年08月23日

「できるだけうまいものを食おうと思って」

という言葉が好きです
妙な座右の銘だな(笑)

なんで好きかって
好きだった人の好きだった事だからなんですけども

・・・そういう可愛らしい話は今更いいですか、そうですか。

26歳、札幌で会社員をしていたときの私のブログ記事から
「できるだけうまいものを食おうと思って」というタイトルのものを見つけたので
それを転載します。

未だに思い出すたびになんていい言葉なんだろうか、
と思うことです
「できるだけ美味いものを食おうと思って」

(なんでそんなふるいネタ持ってくるのかっていうと、
記事ネタが夏枯れだからなんですけども、
でも話としてもとても愛着あるんですよ、ワタクシ)

あるところに一人の青年がおります

その人はまともな食べ物を食べません
会社のお昼の時間にもお菓子みたいなものを食べています
いつ見ても甘いお菓子やソーセージやからあげくんみたいなものしか食べません
ちょこちょこちょこ一日中食べています

入れ子細工のようなココロをしています
中を開けても開けても同じ形の箱ばかりで
本当は中がどうなっているのかさっぱりわかりません

冗談ばかり言っているのですが
言葉にさっぱりココロが見えません
自動販売機式に「ここをおしたらこれが出てくる」という冗談しか言いません

テレビのついていない部屋に居ることができません
おしゃべりはできるけど、お話はできません
テレビの音の中でできる程度以上の会話はしません

「コーヒーを淹れようか」というと
必ず、「いや、いいです」といいます

まれに真剣な話をしようとするとワイドショーをパッチワークしたようなことを言います。
何をしても本人の心は入れ子細工の奥深くに、小さくなったままです。


もう一人青年がいます

学生です
すごくお金がありません
よくこの部屋へ遊びに来てくれました
たこの頭とか、ちかとか、袋いっぱいのニンニクとか
不思議なものを手土産にやってきました

そしてふたりで夕食を作って食べました

面倒くさがらずに揚げ物もするし
食べたことない食材を面白がってわざわざ買ったり
二人でスーパーへ行って
おままごとみたいに「何食べる?」と相談したりしました

「料理好きなんでしょ」と聞いたことがありました
「別に好きじゃないよ。面倒くさいからできればやりたくないけど
できるだけ安くできるだけうまいものを食おうと思っているだけ」
・・・と彼は言いました

「できるだけうまいものを食おうと思っている」

彼はそのときすごく金がありませんでした
でも「できるだけうまいものを食おう」と思っていました

私が選んだ食器を、安いものでも、気に入れば「これ、いいね」と言いました
自分がどんなものを好きなのかちゃんとわかっていました

ご飯は一遍に三合食べました

私が食べる事にすごく拘るのは
食にまつわる病気を長くしたからです

前者の彼も後者の彼も
私の心の鏡です
どちらの生き方も自分の心の中で見つけることができます

前者の心は怪我をした子猫みたいに見えて
後者の心は森の中に一人で住んでいる鹿みたいに見えます

「できるだけうまいものを食おうとおもって」
というその言葉は
そのまま花束にして
この部屋に飾っていいくらいの
私にとっては
好きな言葉です

2007年08月22日

「自分が太っていて醜い」
という感情の嵐が心の中で吹き抜けるとき、
それに対して可能な思考回路が
何通りかあるんじゃないかな、というふうに思います。

「自分が太っていて醜い」というふうに感じるときに
自分がどれくらい太っていて自分がどれくらい醜いのか、
ということを考える、
というのは、ひとつのよくある自動思考の回路です。

実際のところは、
体重計を乗ったり降りたりわき腹をつまんだり、鏡を覗き込んだりしても、
それは延々にループするだけで、終わらないし、
どこにも行き着かない思考なんですよね

でも、思考はかならずそこに行くしかないか、というと、
私は他にも選択の可能性というのはたくさんあるように思うんです。

「自分が太っていて醜い」というふうに感じるときに、
たとえば「なぜ、今このとき、自分が醜いと感じるのだろう」ということとか
たとえば「誰に対して、自分は太っていて醜いと感じているのだろう」とか
そういうことを考えていくのも可能なのであって、
それらであれば、考えてわかる可能性のあることだというふうに思うんです。
答えが分からないとしても、少なくても
「どうして自分を醜いと感じるのだろう」という問いを立てることによって
「自分がいかに醜いか」という終わりのない自動思考はパッと消えます。

「自分が太っていて醜い」と感じるとき、
本当に役に立つのは
どれくらい醜いのか、を延々考えることではなくて
どうして醜いと感じるのか、を考えてみることではないか、
と私は思うんですよね。

どうして自分を醜いと思うのか、ということを
自分に問いかけるということに慣れていけば、
それによって「醜いと思わなくなる」ことまではできないかもしれませんが
「自分を醜いと感じる自分の気持ち」を
受け入れることができるようになるかもしれない、
っていうふうに思うんです。

「私は醜い」
「いいや、醜いはずなんかない」
という相反する気持ちを心の中に見つけるときに
そのどちらか片方だけが真実で、
真実でないほうのもう一方を殺してしまわなければならないと思うと大変に苦しいものですが、
実際のところは「私は醜い」「いいや、醜いはずなんかない」
という、どちらの気持ちも本当の気持ちなんじゃないかな、
っていうふうに思うんですね。
どちらかの声を無理に殺そうとしても、やっぱりその気持ちは存在する以上
断末魔の叫びを上げて無視されることに抵抗するんじゃないかって思うんです。

ふたつの気持ちがある以上、
どちらかが、自分にとってつらい気持ちだとしても、
それは引き受けて胸のうちに収めていく方法を考える方が
無視して「なかったこと」として生きていこうとするより
ずっと希望に近いんじゃないのかなあ、って

私はそういうふうに考えています。

2007年08月20日

ヘルタースケルター
ヘルタースケルター


以前ご紹介した安野モヨコつながりで紹介してもらったものですが、
これも、全然ハッピーな気分にはならないマンガです^^;
非常に興味深いけど、読むの辛いです、
と思いつつも二回読みました。
読むのつらい以上に書くの辛かったろうなぁ。

へルタースケルターってビートルズの曲らしいですね。
そうとうに騒々しい曲だそうです、
私も聴いたことあるかもしれないけども
ちょっとピンとこない、どんな曲だったかしら。
もともとの意味は
でっかいらせん状の滑り台のことだそうです。
それから、混乱、狼狽、というような意味もある。

物語の方は、超売れっ子のモデルであるりりこが主人公です。
実は彼女は全身くまなく整形手術して無理に作り上げた人造の美女であり、
その非常な無理のある手術の後遺症と、
その後遺症を消すための強い薬の副作用、
絶え間ないメンテナンスのための再手術によって
着実に精神と肉体が崩壊していく、
その過程を描いています。

売れっ子モデル、全身整形、
というところだけとると、とても極端な話で
一見遠い話のようでもありますが
「みんなから気に入られる」ために身体を加工し
精神と肉体を少しずつ壊していく、
というのは、私たちにちっとも遠い話ではなく、
まさに巨大滑り台の上の方と下の方、
という程度の違いしかなのかもしれません

ちっとも愚かな話でも極端な話でもなく
ただ、素直に「できる限りの努力」をしただけ、
の、その結果としての、ヘルタースケルター

私はこのサイトから発信して
「女性が生き易くなるにはどんな社会になればいいと思いますか」
という意見を募ってみたことがあるんです。
これに対して、実は一番印象的だったのが、十代の女性が寄せてくれた意見で
「整形手術への嫌悪感がなくなり、安く安全に受けられるようになれば生き易くなる」
というものがあったんですね。

非常に意表をつかれた気がしたし、やっぱりショックでもあったんですね。
「今より生きやすい社会」への夢が
「自分を作り変えること」として現れてしまうのがね。
ただ、もう本当に分かりますよね。
ソレもダイエットと何も変わらないわけで、
人々の偏見がなくなって
後遺症も副作用もなくなって
安くなったら、
あとはそれを思い悩む理由はどこにもないでしょ、と言うのは
確かに本当にもっともな意見で。
「こういうものが美しい」という決まりが社会の方に常にある以上
その中に住む個人が「それにあわせたい」と思わずにいることは
よほどのことがない限りほぼ不可能ですよね。
決して何も特別な願いではない。

本文の中でりりこの整形手術を行ったクリニックの院長について
こんなふうに書かれています

彼女は錬金術師になろうとした
この世に存在しえないものを求めた
女たちの欲望そのものを「かたち」にしようとした

女たちが「美しさ」を求めるのは「欲望」なんだろうか
十代の少女が「生きやすい社会」について語るとき
「美容整形手術の一般化」に話が向かうのは彼女が「貪欲」だからなのか

体の加工から少し話がそれますが、もうひとつ私が興味ひかれたところについて。
りりこは(薬の影響もあるけれども)非常に情緒不安定で
我が儘で傲慢で残酷な性格をしているのだけれども
中でも富にセックスに関する感覚の異常さが目だっていて
倫理観みたいなものがほぼ完全に欠如しています。

マネージャーの女性に同性愛的行為を強要したり
彼女の見ている前で彼女の恋人と性行為をしたり
自分の見ている前で性行為をさせたり、
あるいは三人で関係することを強要したり、
それらはりりこのもともとの性癖としてではなくて、
単にセックスの神聖さみたいなものを壊すという目的のためだけに
ひたすら目の前にある性的なタブーに片端から全部手をかけて引き摺り下ろしていくんですね
それが非常に執拗なので不思議な感じなのですが

私がこういうのを読んで引き込まれることのうちのひとつには
割と自分にも似たところがあるからであって
過去にテレクラで知らない男と会い続け
嫌なセックスを我慢し続けたということの意味が
実は未だに消化しきれていないというところが多分にあるせいでもあります

セックスの問題についは自分にとって公平なボキャブラリーって殆ど持っていなくて
だから摂食障害について語る以上に、語るのが難しいことでもあるんだけど
テレクラに電話をかけていた頃、私が考えていたのは
「たくさんやれば、傷つかなくなる」
という意識があったんですね
たくさんの人とたくさんセックスをすれば
人生の中における一回のセックスの持つ重要度というのはどんどん薄れていって、
だからやればやるほどセックスで傷つかなくてすむようになるんだ、
という、そういう意識は結構はっきりありました。

それは、ひっくり返せば完全な無力感であって
「誰だって好きなときにやってきて私の身体を好きなように扱って、
私だけを傷つけて自分は無傷なままで帰っていくもんだ」
という意識があったからこそ、
セックスというものは何の意味もない、
ということを自分の身体に繰り返し刷り込んでいくことで身を守ろうとした
という側面はまずあったんです。

それから一方では「自分には力がある」という幻想ですね
セックスできるかもしれない、
と思えば、何のとるべきところもない何者でもない女の子としては
ちょっとありえないくらい機嫌とられたりするわけで
それは男の側からすると
「ただでヤレるなら少しくらいは機嫌とってやる」
という状況ではあるんですが
自分が完全に無力だと感じて居るときって
その「無力な私」の機嫌を伺っているたくさんの誰彼をコントロールしようとすることって
凄くそのときの気分にマッチするんですね。
セックスをちらつかせる限り自分には力があるんだ、という幻想は
無力感の中にぴったりはまりこむものがあるような気がします

だから、そういうことを考えると
身体がすでに自分自身のものではない、という感じがしているりりこが
とにかくセックスを醜悪なものとして扱いたがるところとか
美しさの持つ幻想の力を可能な限りの人々に対して振りかざしたがることが
もの凄く自然に理解できたりします。
彼女が全身整形という極端な方法で出来上がった美女だからではなくて
彼女が日本中の女の子の憧れるモデルだからではなくて
彼女が同じヘルタースケルターに乗っかっている一人の女の子だから、
という、ただその点において
理解せずには居られない部分がたくさんあるんですよね。

りりこの独白

ただあたしは体を使って遊びたいのよ
んでもって他人をめちゃくちゃにして遊びたいだけ
だって仕方ないじゃない?
あたしだって他人に
めちゃくちゃにされてるんだから

ヘルタースケルター
私たちのよく知っている巨大滑り台について
考えてみることのできる一冊
ヘルタースケルターを降りる道はあるや否や

私は、ある、と信じる人。

2007年08月18日

リニューアル「ダイエットをやめて自由になる」です。
アドレスが変わりました。
またお気に入りに登録しなおしていただけると嬉しいです。
→http://antidiet21.com/

まだ移行が完全に完了していないため、
一部画像表示されていないところと、記事内のリンクが表示されないところがあります。
見苦しくてもうしわけありません。
一週間をめどに全て張り替える心積もりではありますので
どうぞしばらく大目に見てくださいませ。

コメント周りの不具合、これで少し様子みます。
あゆさんのコメント、まだ出てきてないですね。
私の方で確認できてますし、失われたわけではないんですけども
もうちょっと調べますので、もうしわけありませんがお時間ください。

「ダイエットをやめなくても摂食障害は治るのではないですか?」
というご意見に対する参考文献紹介シリーズです。(勝手にシリーズ化)
参照記事
摂食障害とダイエット
鈴木式

摂食障害の治療にあたって「ダイエット」という要素には全く注目しない
治療理論のご紹介です。

過食症からの生還―私は絶食療法で克服した (ビタミン文庫)
過食症からの生還―私は絶食療法で克服した (ビタミン文庫)

タイトルを見ただけで
「絶食って、一番やっちゃいけないことじゃん」と一瞬思ったのと
過食症から「生還」とか「克服」とか言われると
なんだか過食症が救いのない絶望の淵みたいな感じがしちゃうよなー、
と思ったので、最初のひと目からなかなか印象深い本でした。

まず絶食療法について
11日間の水分のみ摂取する絶食期と
重湯などの回復食をとっていく5日間の復食期からなり
その期間、並行して内観日記を書くことで自己洞察をしていきます

絶食によって中枢機能の改善と心の成長が合わせて達成され、 さらに食事の正しい習慣が得られ、困難を乗り切ったという達成感を体得することによって、 多くの難治性の心身症やその他の関連疾患がよくなるのです(本文より)

この著者が「過食症が治る」というのはどのような状態だと考えているのかということは
治療効果の判断基準からみることができますが
「過食症状か社会適応性のどちらか、あるいは両方が改善する」
という状態と考えています。
過食をしなくなって家庭や社会で普通にやっていけるようになれば、「回復」
という判断になり、
食や体型に関する強迫観念やダイエットなどについては言及されていません。

社会適応性に対する治療後の経過(最短で半年以上経過後の調査)をみると

仕事や家事に前向きになった 64パーセント
自分を好きになった 71パーセント
人とうまくやっていけるようになった 71パーセント

過食症状に対する治療後の経過は

再発しなかった 1例
再発したが治った 7例
現在も続いているが軽い 5例
現在も重い症状が続いている 1例

との調査結果が掲載されています

私はこの治療後の調査アンケートを見て
「過食症に効果あり」と判断できるのかどうかが全く分からないのですが
うーむ、どうなんですかね、これ。
調査自体がかなりラフであるように感じることと、
観点がちょっとピンとこない、と言うのか
「不安やストレスが食行動に出る」とか
「食べ過ぎることがある」とかっていうことは
誰にでもあることでそれ自体は問題がないですよね。
本当に注目されていくべきは
その行為が生活や自己評価にどのような影響を及ぼしていくか
というところだと思うんです。
なので「過食するか、しないか」というところにポイントを置かれてしまうと
治療によってその人が生きやすくなったのかどうかか
見えてこないような気がするんですね。

(あ、でも上下のアンケートを合わせてみると、
過食の症状自体がなくなったわけではないけども
それが自分や、仕事、周囲の人々との関係に悪影響を及ぼさずにいられるようになった、
というふうにも読めますね。
著者さんは全く別々のアンケートとして提示していますが。)

本そのものも絶食療法に関しての説明と
その治療の中で実際に書かれた内観日記などが主で
症例として
「こういう症状のこういう人でこういうことを内観して、
過食症についてこういう感情をいだくようになり、
これから先の生活についてはこのように考えるようになって治療を終えました」
という、治療期間中のことに関して多く書かれています。

治療者以外には誰にも会わず食事もとらないで自分を見つめる、
という特殊な環境から出て、
自分が生活していく本来の場に戻ったとき、
食べ物とストレスに溢れ、
痩せを崇拝する社会に戻っていったときにどうなったのか、
という本来一番大切な部分に関する観点が薄いように感じたんですね。

「過食をしなくなればいい、
そして社会で普通に見えるようにやっていければいい」
というのは、
摂食障害であったことを今もまだ大切に考えている私からすると
何か少し違和感のあるところです。
やっぱり「もっと解き放たれる地点を目指したい」
というようなことを思うのですよね。
で、そうなると本当に自己の「内」を「観」ることのみでなくて、
「痩せてるほうが勝ちなのよ」という社会の価値観のことも
「痩せたら?」ということばで何かがうまく行っていないことを表現する人たちの存在も
「自分を慰める手段」として最も身近にある食べ物との関係も
全部「観」るべき要素のうちに自然に入ってくるんじゃないかな、って思うんですよね。

単純に内観とか絶食とかであれば、私もちょっとやってみたいです。
そういう経験が生きていくにあたって今までとはまったく違う視野を与えてくれる、
っていうのはあると思うんですよね。
そしてそういう「新しい視野」によって摂食障害という症状にも何か変化が出てくる
っていうのは、確かにありうるなあ、とは思うのですが

それでもやっぱり私は凄く大切なところを見ないでいて
「やっぱり食べ物がないと過食はできないですね」
というところで話を済まされてしまうような印象も持ってしまうんですよね。

・・・そこに社会の価値観という観点は必要ないのだろうか?

※これ、ひょっとして経験ある方いらっしゃたらお話伺ってみたいです。

2007年08月16日

やせる!デルデル呼吸ダイエット―らくらく呼吸で便が出る!おなかがへこむ!


デルデル呼吸ダイエット

「ブログの記事読んで試してみただけで即効効果ありました」
というメッセージ頂きました。
ふえぇ、記事を書いた私が驚きます。
(参照記事→デルデル呼吸

もうひとつ私が呼吸の仕方を忘れるほど驚いたことには、
著者様より直接アドバイス戴きました。
大変嬉しいです。荒木先生ありがとうございます。
喜び勇んで引用。

とにかく「楽に吐けて、おなかがしぼんでいく、縮んでいく」これさえ分かればまずまずだと思います。慣れてくると、いつも楽に息を吐いている、そんな感じです。お腹・腰周りの力・圧がいい感じで緩む。そうするとお腹の中の胃、小腸、大腸などの内臓が‘快適’だと喜んでくれる環境になる。そう考えています。多くの人は、普段お腹を圧迫しっ放しであることに気付いていないように思います。冷え性や腰痛、肩凝りなどには、またそれぞれ私なりの理論がありますが、これらも皆が気がついていない(と私が考えている)だけの、ごく単純なものなのです。とにかくお腹は意識的にふくらませたり、へこませたりしない。吐いたらしぼむ、吸ったらふくらむ。吸う方はあまり意識しない、ただ楽に吐いていられるようになれば、しめたものです。

パソコンの前でちょいと試してみてくださいませ。

この展開の何が嬉しいかというと、
このサイトを見てくれている人が「こんな方法あるよー」と教えてくれて
それを私が紹介することができ
さらに「ああだった、こうだった」という体験談があり、アドバイスがあり、で
効果ありなし含めて、自分たちで何がいいか、ってのを検証していけるのが嬉しいですね。
「摂食障害に対して、こういうアプローチもあるんじゃないかな」
っていうのを考えて試してみるのは、何もお医者さんじゃなくてもいいんですもんね。
それが私はとても嬉しいです。

食と体型に強迫観念持って生きてたってええではないか。
摂食障害という貴重な経験をみんなで生かそうぜ(゚∇^d)

試してくださる方、デルデル呼吸体験談待ってます。

デルデル呼吸関連記事一覧
デルデル呼吸
デルデル呼吸2
デルデル呼吸3
デルデル呼吸4

2007年08月15日

以前「ダイエットをやめなくても摂食障害は治るのではないですか?」
というご意見をいただきました。
(参考記事→摂食障害とダイエット
たしかにそういった考え方もあるのですが、これまで殆ど紹介してきていなかったので
過食症から回復することと、ダイエットに成功することをあまりわけて考えていないタイプの
参考文献をひとつご紹介いたします。

過食・拒食からの脱出―トキノ会10万人のデータからの処方箋 (ノン・ブック)
過食・拒食からの脱出―トキノ会10万人のデータからの処方箋 (ノン・ブック)

間違ったダイエットはかならず過食・拒食を引き起こす、
だから正しいダイエットをしなさい
正しいダイエットとはつまり鈴木式食事法である、
というふうに書かれた本です。

とにかく「摂取カロリー」を減らせばいい
という”誤ったダイエット”が
”もう一人の自分(脳と自律神経をさすのだそうです)”をいじめることで
過食や拒食が起こってくる、としています

過食症、拒食症を治すのは薬やカウンセリングではなく
生命活動を維持する”もう一人の自分”であり、
この自分を大切にすることによって治る力が目覚めてきます。

筆者によると肥満は病気であり
健康であれば、痩せる、という考えですので
鈴木式を実践して健康になれば
”もう一人の自分”が健康な力を取り戻して拒食や過食がなくなり
「健康で美しく」痩せる、というふうに考えられています。

”もうひとりの自分”が何を好きか、ということを
あなた以上に良く知っているのは、私です、
という筆者が提言する過食、拒食への処方箋は次の五つ

1、絶対吐かない
2、ご飯を一定量食べる
3、食べ物はエサと思う
4、規則正しく食べること
5、粗食にすること

という原則です。
そして鈴木式食事法の基本は「ご飯食と油抜き」「一汁1菜」であり
ご飯の量、副食の種類、油料理は食べない、調味料や間食についての細かいルール
素材の下処理としてたとえば赤身肉は必ず一昼夜水につける、などの
かなり厳しい食に関する規則が述べられています

さてこの著者の論について私が比較的良心的に感じたところは

自分の本来の力によって治るんだ、
自分をいたわる、という発想によって治るんだ、
というところ
それから摂食障害(筆者の表現ではなぜか「摂取障害」)の原因を
個人の性格に帰さず、
普通の女性が普通に陥りうる状態であり、
極端なカロリー不足が直接の原因である
というふうに名言しているところ
などです

しかし、一方で私が全体としてこの本の主旨に賛成できないのは
"もう一人の自分”は「自分」なのに
自分自身よりも鈴木その子さんがその好みを良く知っている、
この人の言うことを聞いていれば安全だ、と信じることによって
その後の人生の自分との関わり方を
どうやって自立的なものにしていくことができるのか、という点があります。

こんな文章があります

ダイエットに入る女性一人ひとりに、それほどの差はないのです。 たぶんここに紹介する女性たちも、一つのことを除けば、ほかの女性たちと大きな違いはないと思います。一つのこと、つまり拒食症、そして過食症になったことを除けば。

私はこの意見には全く賛成です。
摂食障害になる女性とならない女性の間には殆ど差はないと思います。
しかし、それが本当であると信じるならば
なぜ一方の人々はかくも厳しいルールに従ってつましい食餌法をとり続けなければ健康を維持できず
なぜ他方の人々は自由に食べて健康であることができるのか
ということに対して、この鈴木式では答えられないと思うんです。

先に述べた食に関するルールのうちの(一番をはぶく)ほぼ全てが
私には現実的でも官能的でもないように感じます
一定量食べること、
決まった時間に食べること、
決まったものを決まった方法で食べること、
そして食べ物を必要な栄養を得るためだけのエサと考えること

私にとって食べることは人生そのものの比喩です
時には自分自身から食べ物を取り上げることも単なる減食ダイエット以上の意味を持っています、
食べても食べても満足しない、という状況も”食欲中枢の異常”というよりももっと深い意味があると思っています。
甘いものだけを食べたがることも、栄養にならないものを食べたがることも、
一度口にしたものを受け入れらないことも
みんな人生の中でしかるべき意味をもっているのではないか、というふうに私は思うんです。
もし「食べ物がエサ」であれば、
その食べ物をとりまく人生の縮図はどこへ行ってしまうのか。

諸々の「ナントカ式ダイエット」の中では比較的きちんと考えられたタイプのものではないか、
と思います。
それでも私の思う「食べることと生きること」のイメージにはそぐわないところがあり
全体としては私は賛成しない内容でもあります。

※この本の中には具体的な「鈴木式食事法」についてはあまり詳しく述べられていません。
食事法について詳しく知りたい人は、参考文献として
「鈴木式の極意」「やせる調理革命」の二冊が挙げられています。




鈴木その子のやせる調理革命
鈴木その子のやせる調理革命
時のダイエット・鈴木式の極意―肥満・成人病から自分を守るのはもう一人の自分 (ノン・ブック)
時のダイエット・鈴木式の極意―肥満・成人病から自分を守るのはもう一人の自分 (ノン・ブック)

2007年08月14日

安野モヨコさんの本は
「怖い」「トラウマ」「嫌い」
という声も実は結構頂いております。
これはこれで興味深いので、ちょっと引用してしまいます。
コメント、メッセージくださった皆様ありがとうございます。



美人画報
美人画報
美人画報ワンダー
美人画報ワンダー
美人画報ハイパー
美人画報ハイパー

以下、頂いたメッセージの引用

いかに金と時間をかけて美しくなるか
美しい女は無条件で勝者
だから筆者本人もかなり必死です
あらゆる手を尽して
「理想の体」を手に入れたようです
完全に男社会に迎合する女性を目指してますね
その必死な姿は天晴れと言えるかもしれませんが
この本を読むと確実に「手付かずの自分」に不安と不満を抱きます
絶対痩せなきゃ!!って思います

だんだん「自分の考える美への執着」が強迫的になって、おもしろおかしく書かれているのになんだか恐ろしいと感じました。

この作者の言う「生きやすい」って「男の人に庇護される」ことのような感じもしますが、 「周りよりも上に立つ」って感じも漂っていて、 私も考えていることなのに、この作者が言うと、受け入れられません

これ、三人ともそれぞれ別の方の意見です。
私はそれぞれ全部言ってること分かる気がするんですね。
わかる気はするんですけども、
私は別に怖くなかったし、かなり好意的に読んだんです。
絵が綺麗だしね、細々した女の子だけが分かる話って面白いしね。
(相当極端なところまで突っ走ってるな、と思う文章もかなりあったけど
そこまで含めて面白かった)

興味深いのは、みんな読んでるのよね、怖いって言いながらね^^;
熱心に読む、でも(だから)怖い。なにこれ。

これに絡めて思い出したのは、摂食障害のサイトでは
「かわいい女の子が苦手なんです」
っていう声も実は結構多いんですよね。
それからこのサイトでも頂いた
「女性の目が怖い」という意見もかなり多いですよね。
そういったものと「安野モヨコさん怖い」という感じというのは
似たところあるのかなあ、って思ったんです。

それから、これは最近私が自分で感じたことに関するお話になりますが
最近ダイエット掲示板みたいなところからトラックバックがきてたので
ちょっとのぞいたのですけど(このTBはもう削除してます)
唖然としたのが

「162cm 49Kg(体脂肪率:25%以下) 男性から見て、私はぽっちゃりですか? それともデブの部類に入れられてしまいますか?? この体型でミニスカートは見苦しいですか?? 」

「女です。158センチ、56キロってデブですか~?? 」

「私の身長は158センチです。標準体重は52キロぐらいですが、私は46キロなので、「痩せぎみ」の判定です。 つまり標準よりも6キロ痩せているわけですが、私は20代なので、美容を気にしています。 いわゆる美容体重であるとは思うのですが、病気になってしまうかと思うとこれでいいのか不安です。 病気になりにくい標準体重と、美しく見える美容体重、どちらかを選んだら、美容か健康のどちらかを犠牲にしなければならないなんてすごく困ります。 私は今、婚約者がいて、もうすぐ結婚するのですが、結婚したら標準体重まで太っておこうかと悩んでいます。 ですが、嫁が結婚したら6キロも太ったなんて、そんなオバタリアンみたいな嫁でいいのか?という疑問もあります。」

-全てyahoo知恵袋からの引用-


こういう書き込みが延々と続いていたので、
あまりにもびっくりしてまじまじと見てしまったんですけども
そのとき、一瞬不安になったんですよね。
「私ってもしかして凄いデブで恥かしくって人前に出ちゃいけないのじゃないか?」
という想いが瞬間駆け巡った。
(って冷静に考えると、この書き込みしている人たちが体型に関する強迫症なのであって、
読んでいるうちに一瞬ふわっと症状が移ってきたわけなんですけどもね)

ありとあらゆる体型の人が
見ず知らずの他人に対して自分のベスト体重を聞く、
「何キロになったら自分は安心していいのか」ということを
匿名の他人に対してお伺いを立てる、という
この強迫観念の放牧地は何なんだ~、と思いました

しかも回答読むと、
答えてる方も重症の摂食障害者か、少なくてもダイエット症候群か
もしくは病的なマゾヒストなんだよね。
自分には「他人に対してその外見で安心して生きていっていいかどうかを判定する権利」がある、
というふうになぜかみんなとても無邪気に信じていて
「デブ」とか「ちょうどいい」とか、ジャッジしている、
まあ、それこそ「怖い」場所でした。

そういったわけで少し話が脱線しましたが
そのあたりの恐怖って全部同じなのかなあ、というふうに私は思ったんです
「美人になるためならなんでもする安野モヨコさんが怖い」
「かわいい女の子が怖い」
「女性の目線が怖い」
「無法地帯のダイエット掲示板が怖い」
というのは、それぞれ、根っこに同じものがあるんじゃないのかなあ、
というように考えてみたんですよね。

安野モヨコさんは、面白いことに
連載中に、恋人と別れたり付き合ったり、結婚したり、ということが起こってるんだけども
自分が美しいかどうかの基準を結構はっきりと「モテるかどうか」というところにおいています。
だから自分には定まった人間関係があるのだけども
それとは別に「美の基準」に合格しているかどうかは、
「関係の深くない人たちの判断」にゆだねるんだよね。

これがなんとなくね
「自分がこの外見で良いのかどうか」を
身近な人でもなく、あるいは医者とか友人とかでもなく
いきなり魑魅魍魎うごめく掲示板で
(悪意を持った人も考え方歪んでいる人もたくさん居るだろうということは容易に想像つくのに)
わざわざ身長体重を公表して宣託を乞うてしまう不安感と
似たところがあるのかな、って思ったんです。

結局一番怖いのは
「関係ない人」
「一般大衆」
「顔のない人たち」
であって、彼らこそが自分を傷つけうる、
彼らのお墨付きをもらえれば安心、みたいな
そういうところがあるのかな、と思ったんです

だから「安野モヨコさん」とか「可愛い女の子」とかは
そういった「顔のない人たち」に気に入ってもらえる術を知っている
でも自分は知らない
というふうに思うと、
それこそ「武装した彼女」に対して
自分は「丸腰」の感じがするわけで、
熱心に読んで研究するかも知れないけども
本心では怖いよねえとは思うんだよね
あるいは「気に入られる術」を知っているが故に
つまり彼女の方が強い立場であるから
自分をジャッジする権利を彼女もまた持っている、
のだと思うとそれも怖いよね

それから
「女性たちの目」とか「掲示板の人たち」とかっていうのは
「顔のない人たち」そのものであって
「向こうからこっちは見えているけども、こっちから向こうは見えない」
というところがすでに暴力構造であって
一方的に見られて選別される、ということは、それは怖いよね。

一番怖いからそこを基準として決めてしまう、
彼らに気に入ってもらえれば、どこにいっても安全だ、という
そういう安全地帯の基準として決めてしまうからこそ
「誰にも文句いわれないように、あらゆる女性よりも細くなりたい」とか
「親身になって心配する人などいない掲示板で自分の理想体重を聞く」
とか、そういうことになってしまうんだと思うんだけど

だからそういう怖さ、
「顔のない人たちに気に入られないといけない」
という怖さ、っていうのを
安野モヨコワールドは掻き立ててしまうのかもしれないって
そういうふうに私は考えてみました。

(ちなみに私がなぜ全く怖くなかったかというと
私はようするに化粧しないし、ダイエットもしないし、
ファッションの流行もあまり関係ないので
安野モヨコさんとは完全に別ワールドに住んでいるから、
楽しいところだけ読めたんじゃないか、と思うのですね。)

「美人画報」関連記事
モヨコ・ワールド考 
キレイな方が女は生きやすい?

2007年08月13日

美人画報ハイパー
美人画報ハイパー

読んでみました。


私ね、
化粧したこと無いし
顔は水で洗うし
銭湯行くときは手ぬぐいと固形石鹸しかもっていかないし(神田川?)
ヒールもブーツも履いたことないし
スカートも(ほぼ)履いたことないし
ようするに、こういう本読んでも
出てくる名詞がほぼ理解できない人なんですけども

いや、面白かったですよ。
お化粧する女の子ってたいてい化粧ポーチっていうのを大切に持ってるじゃないですか
小さい可愛いケースの中に
細々した色々な色と形の瓶とか容器とかいろいろいっぱい入っていて
他人には何につかうのかまったくわからないそういうのを
非常に独特のこだわりを持って大事にしている、
というあの世界が好きなんですよ
楽しそうだなあ、と思って

細々と好きなものを一杯持っていて大事にする、
という風景を見てるのが好きなんですよね。
この本はそういう楽しさありました。
殆ど、ドールハウスとか、何かのコレクションをみて
「楽しい」と思うのと同じ感覚なんですが。
どこのクリームとか、マスカラとか、とかね、
もうぜんぜんわからない固有名詞が大切そうに続いていく独特の楽しさね

ただ、それだけでもないですよね
作者さんは美というものに対する意識の非常に強い人なんですけども
それは当然、苦いもの痛いもの、建前、本音、色々含んでおりまして
ちょっと、そいうところだけ、選んでつなげてみますね。
(全編私が引用した文章みたいなのばかりじゃないですからね。
普通に、コスメの好きな女性の楽しみ、とか、お風呂、エステ、
お花、着物、建築、インテリアとか、楽しい話いっぱい入ってますよ。)

非常に興味引かれた一文は
「美人画報ハイパー」のあとがきからです

思えばもともとは「キレイになろう」とか考えたことのない人間だった私。
平均的だったからのん気なものです。
それが漫画家として忙しくなった24歳の頃、太って激変したのです。
この連載をはじめた頃にはスッカリ自分と「キレイ」を切り離して考えるようになっていました。
つーか「ブスでいい」ぐらい思うようになっていました。
仕事は楽しく、自信もついて来た頃でした。
逆に言うと、仕事できてりゃ文句ねぇだろ!!というおそろしい人になっていました。
そんなおそろしい人の私を、恐ろしい事態がおそったのは、マックスに太った年の冬。
男性誌のパーティーに行った時のことです。
マンガというのは、過酷な商売。
男性作家のみなさんも、編集さんたちもこんな時くらいカワイーお姉ちゃんと話したいわけです。
仕事はちゃんとやってたつもりでも、美しくなければまったく価値を持たない世界へ丸腰で飛び込んでしまった私はガク然としました。誰も相手にしてくれない。
ここではマンガ描けても何の武器にもなりゃしないんだ
・・・あきらかにキャバ嬢(19)の方が私よりも上!!なぜならカワイイから!!
もちろん、日常にもどればそこだけが基準になるわけじゃありません。
でもそういう世界があること、そこでは今までやってた仕事より、女子力の方が重要であることに気づいたのが、そのあとの美容道へのスタートになったことは間違いありません。
女性は仕事できてもキレイじゃなければ駄目なんです!!
それ以来、この連載にも本気でも取り組み努力の日々。
今も信念は変わりません。
女子は仕事はできてもできなくてもいい。
キレイなほうがいい。

非常に素直な文章なので衝撃ですが。

この作者さんは、自分で本文中に書いていますが
「趣味を仕事」とすることができた稀有な人なんですよね。
しかもその仕事で、大変な成功をしています。

それがある日その業界内のパーティに行って
(だからつまり、そこに居る人たちは基本的に自分の成功について知っている、
という場所だと思うんですが)
そこで突然自らの外見と価値を受け入れられなくなるわけですよね。
なぜか突如
自分を「丸腰」であるように感じ
自分のことを「仕事できてりゃ文句ねぇだろ!!というおそろしい人」である、と感じ始めるわけで
「女性は仕事できてもキレイじゃなければ駄目なんです!!」という
これまでしてきた「過酷な仕事」を自ら否定するかのようなことを考えはじめるわけで。

えー、なんだろう。ってやっぱり思いますよね。
ある日突然、何が足りないような気がしたんだろう?
何が否定されたような気がしたんだろう?と。

本編の中にこんなことが書いてあります

なぜ人はキレイを目指すのか。
でもキレイな方が、女は生きやすいんだよね。

超仕事できてもブスvs仕事でできなくても美人

最終的にどっちが幸せかっつーと・・・。
やっぱキレイな方なんじゃナイかなと。
まー ケースバイケースなんだけど。

これ、読むと、普通の感覚で行くと
なんとなく言いたいことの意味はわかるけどちょっと極論じゃない?
っていう感じ、しませんか?

たぶん本人もケースバイケース、と書いてあるとおり
これは一般論として言っている、というよりも、
作者がある日しみじみとそんな気がした、ということであり
それが前出の「男性誌のパーティの日」なんじゃないかって
いう感じが私はしたんですけども、

突然自分が「生きやすくない」ような気がして
そしてキャバ嬢を見ると自分よりも「生きやすい」ような気がしたんじゃないかしら
(ちなみにこの美人画報ハイパーの中には「キレイになった安野モヨコさん」の
写真が出ているだけど、奇しくもキャバ嬢風の外見になっている)

ちなみにもうひとつ

旅では「男の人に守ってもらえる服装で」が正しい。 というか旅に限らず、生活のどのシーンにおいてもその基準は結局美しいのです。

おお、批難ごうごう受けそうな文章、よくぞ書かれました(笑)

でも、これはファッションというものの一面を上手に表現しているのかもしれないですよね
凄く細い身体で高いヒール履いて華奢な服を着て
床に落とした紙が拾えない長さの爪をしていれば
確かに庇護が必要な感じしますもんね。
(いや、それが全てって言ってるわけではないですよ。
そういう面もあるかもしれない、と言っております。)

さらにもうひとつ

だいたい、自分も働いて疲れているのに、働いて疲れた男を癒せますか?
彼だって安らぎが欲しい。
けれど、自分も安らぎたい。

ということも、モヨコさんは考えているのであります。

で、ここまでで私が好き勝手拾った引用文なのですけども、
つなげてしまって良いかしら。

自分にとって非常に向いている仕事を見つけ
それで苦労して成功し
仕事や収入や社会的生活の面においては安定した、
という段階にまで来たところで
なんとなく自分には何かが足りないような気になる、
疲れている、疲れているのにいつも癒す側であって、安らぎがない、
自分が庇護を必要としていることを外見でアピールできれば
安らげるのかな?

というような
あの、一応筋道としてそういう風に辿っていけなくもないなあ、って
考えながら読んだのですけども

最近ちょっと「社会的成功と摂食障害」というテーマについて
このサイトで取り上げていたので
「美人画報ハイパー」を手がかりに試みに考えてみました。いかがでしょう。

※みやさん。参考文献ご提供ありがとうございます。切に感謝。


「美人画報」関連記事
モヨコ・ワールド考 
キレイな方が女は生きやすい?





美人画報
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美人画報ワンダー
美人画報ワンダー

2007年08月11日

やせる!デルデル呼吸ダイエット―らくらく呼吸で便が出る!おなかがへこむ!
デルデル呼吸ダイエット

この本、サイトを見てくださってる人が紹介してくれました。
彼女は摂食障害からの回復期の過程においての
胃痛や空腹感、満腹感が分からない、などの症状について
時々状況を報告してくれたり、知識のやり取りをしていたんですが、
「この呼吸で楽になった」ということで
このサイトのために本を紹介してくれたんですね。

送って頂いた体験談です

私には、この呼吸法があっていたようです。起床時や、机に向 かっている時などに何十回か繰り返すと、すぐにお通じがくる 場合が多いです。(この効果は、始めた直後に実感できました 。)それだけでなく、この呼吸をし始めてから胃の調子がさら に落ち着きました。先述しましたように、苦しくなるまで食べ ずにすむのです。たまたまそんな日があるのかとも思っていま したが、今の所、胃も落ち着き、だいぶ前からお腹が空くという 感覚を味わっています。

彼女がまとめてくれた「デルデル呼吸」のやり方

簡単に いうと、まずは息を止めずに深くゆっくりと吐きます。このと き意識しておなかをへこませないようにします。おなかか、わ き腹に手を当てて、自然におなかがへこむのを感じるのです。 そして、あとは自然にまかせて息を吸います。デルデル呼吸は この繰り返しです。


この頂いたメールだけを読んで試してみたんですね。、
「確かにこれは効く人には効くかもしれない」
と思える刺激が腹部にあるような気がしたんです。
効いたわけじゃないけど、ちょっと気持ちはわかった、という感じだったので
「本を買って試してよかったら紹介します!」
と返事をしてたんです。
で、昨日本が届いたんですね。

うん、私はやっぱり「始めた直後に実感」とはいかないんですが
ただ自然に深く深く吐いていく感じがなかなか気持ちよいですよね。

「普通にふーっと軽く息を吐いて
そのまま続けてさらに深くふーっと息を吐いていき、
それから自然に任せて吸う」
のですがこの「深く吐く」行為がポイントで、
身体の一番内側にある腹横筋という
普段はあまり使っていない腹筋の一部を使うことになる、のだそうですね。
お腹の一番内側を囲む腹巻みたいになってる筋肉なんですけど、
そういわれて意識してみると、深く深く吐いたときに
お腹の一番内側の筋肉がぎゅーっと縮む感じ、わかります。

この本に書かれていることによると
この腹横筋がぎゅーっと縮むことによって
腸が直接刺激されることが便秘解消につながる、という理論らしいんですね。
もしかすると
冒頭で引用させていただいたメールのように
筋力が落ちて消化器系がうまく働かなくなってしまっている
摂食障害暦の長かった人では
色々な形で効果が出やすいかも知れないですね。

呼吸や、自分の身体の深部に意識を向けるボディワークとして
取り組んでみると面白いかもしれないと思ったのでご紹介。

私は時々やってるヨガの中に取り込んでちょっと試してみますね。
調子良かったらまたご報告します。


いつもお役立ち情報くださる皆様ありがとうございます^^

デルデル呼吸関連記事一覧
デルデル呼吸
デルデル呼吸2
デルデル呼吸3
デルデル呼吸4

2007年08月07日

参考記事はこちら
幸せと摂食障害について

「幸せなのになぜ私は摂食障害なんだろう?」
という問いに対して、ひとつ
「自分なりの答え」を寄せていただきました。

私って昔から「~なりさえすれば」って思いすぎてたんじゃないかな。
と思うのです。
「痩せさえすれば」→「もてる)」
「結婚さえすれば幸せになれる」
とか、だけど結婚したからって毎日楽しくてしょうがない。
なんてことはないわけでして。
家族が増えるわけだから、いろんなストレスもうまれてくるんですなぁ...
そうすると、今度は「かわいい赤ちゃんがいれば」となって、
夜泣きに疲れ果てると「早く幼稚園へ通うようになってくんないかな」とか思っちゃう訳です。
で、今度はママ友づきあいで頭を悩ませたり。
すごく小さな悩みで「ぷっ」と笑われてしまうかもしれないんだけど、
要は「こうなりさえすれば」→「こうなる」
なんてことはないって思うんです。
悩みのない人間なんていないし、みんな自ら自分で悩みを見つけだしてっいうか、
そういうものを自分に課してしまうんじゃないか。って思うんですね。
私も本気で、痩せれば絶対幸せだって信じて疑わなかったし、そうして過食にな って今度は過食さえなくなればこんなにツラい思いもしなくていい。
と思ってました。
余りにも単純すぎておかしいんですけども。
今、思うことは痩せても太っても過食が無くなってもそれで全ての問題が気持ち よく片づくわけではない。っちゅうことぐらいですかね...


私も人生の中で思った「~なりさえすれば」
たぶん一万個くらいあります。
人生で一番最初に思ったのは
「大人になりさえすれば」→「辛いことは全部なくなる」ということですね
これにすがって生きていた幼少期なのでよく覚えてます
それから
「大学に入りさえすれば」
「この家を出さえすれば」
「幸せの土地を見つけさえすれば」
「私が美しくありさえすれば」
「彼が愛してくれさえすれば」
「次の休みになりさえすれば」
「この会社をやめさえすれば」
「仕事がうまくいきさえすれば」

というようなことを考え考え、
もしかしてこれって一生、人生はじまらないんじゃないの?
と思い始めたときですでに人生始まって四半世紀はたってたわけだから
結構笑い話ですけども

私は、完璧な幸せがあるって、物凄くはっきり思っていたんですよね
人生のあらゆる地点からあらゆる辛さが消え去って
一年365日一日24時間一点の曇りもなく幸せ、という生活が必ずあって
自分はそれを諦めちゃいけないんだと思っていたんです
自分を辛い気持ちにさせるものの存在
自分を悲しい気持ちにさせるものの存在を
自分の人生の中に「あっていい」というふうに認めることができなかったんですよね

そういうものがあるのは「自分の中にどこか悪いことろがあるせいだ」と思っていたんです
「マイナスの気持ちを人生から一掃すべく何かをしなければならない」
というふうに思って、実際かなり色々と動いたんですね
で、ある時点で気づいたのが、この頂いたメールと同じなんですが
「人生のあらゆる時点から全ての辛さが消えるということはありえない」ということであって
「そもそも人生って時々辛いものなんだ!」という発見だったんですよね

「こうなりさえすれば」→「こうなる」と思いすぎていたんじゃないか
というのは
「幸せなのになぜ私は摂食障害なんだろう?」
という問いに対するストレートな答えではないですけど
「幸せなのになぜ私は摂食障害なんだろう?」という問いそのもの
に対する一つの説明にはなりますよね。
「自ら自分で悩みを見つけだして」というふうに書いてくださいました

なかなか興味深いです、ありがとうございました。

ところで、私、もっと他にもあるような気がするんです。
昨日コメント欄でちょっと書いたことなんですけども、ちょっと要約してみます

「自分にとって摂食障害とはなんだろう」
というような問いにはじまって
「自分が今いかに幸せであるか」という話で終わることが
よくあるような気がしたんです。
これが私にとっては話の筋として飛躍しているように感じるんですね。
そこでどうして「現在の幸せ度」が出てくるんだろうか、
というタイミングで幸せの話が出てくるように感じられることがあるんです。

「幸せなんだから、私が貪欲なんじゃないか」とか
「幸せなんだから、もう悩むのをやめます」とか
「幸せなんだけど、ただ太るのが嫌なだけです」とか、
「自分にとって摂食障害とはなんだろう」という探求みたいなものが
「幸せなんだから」のところで、いつもふつっと突然終わる、
というのが私が不思議に思っていたところなんです

なので、そういったご意見
「自分と摂食障害」というところを出発点にして考えると
なぜか「自分は今幸せなんだから・・・・」
というところでいつも終わってしまう、というような
そういった意見も聞いてみたいような気がします。

2007年08月06日

「ダイエットをやめなくても摂食障害は治るのではないですか」
というご意見を頂きました

これについては、この方のおっしゃるとおり
摂食障害についてはダイエットと本質的に結びつけて考える立場は
むしろごく少数派だと思います。
殆どの治療者、治療法では、論調では
ダイエットは「正しいダイエット法」であるかぎり問題がない、
女性であれば「少々のダイエットは当然のこと」
と捉えていますし、様々な治療努力をするうちに
「体型や食べ物へのこだわりは減っていないけれども、
傍から見てとくに問題に見える行動はなくなった」
という方も実際多いと思うんですね。

「治る」ということをどのような状態であると捉えるかにもよってくると思うのですが
「ダイエットをやめなくても摂食障害は治る」という主張も
根拠のあるものだと思います。


実はこのサイトで私が興味を持っていることというのが
「束縛から解放されて自由になる」ということであって
「摂食障害の症状をなくす」ということではなかったりするものですから
違和感を持たれたのではないか、と思うのですが

世間にあるさまざまな治療方法についても色々調べてみていただければ、
と思うんですね。
「過食症の治療」と「ダイエットを成功させること」を殆ど同義に捉えている
ような考えかたというのもあります。
(すぐ参考文献として挙げられるものがないので、また改めて調べますが、
一番先に思いつくのは鈴木その子さん。
過去にこのサイトで紹介した中では「過食症に負けないで」のさかもと 聖朋さんなど)
自分の目的とその方の治療目的がぴったりあっているのであれば
信じてみるという方法もあると思うんです。

このサイトで取り上げている主な話題というのは
「摂食障害の症状をなくすこと」ということではなくて
「体型や食べ物に対する束縛から自由になること」なんですね
だから「ダイエットをやめなくても摂食障害は治る」
というところにはあまり興味をもってこなかったですし
そういった参考文献は殆ど紹介していなくて比較がしにくかったのかもしれないですけども
「ダイエットをやめなくても摂食障害は治る」という主張も、あります。

2007年08月04日

「自分の身体が受け入れらない」ということと
「社会における自分のアイディンティティの不確かさ」について
記事を書いたときに
(参考記事:自分の身体を受け入れられないとき 2 「ハングリーセルフ」
同意の意見と、自分には当てはまらない、という意見
両方頂いたことから
ちょっと考えていて気づいたことがあるのだけれど

ひとつには私のようなタイプ、
つまりある程度はっきりした内的な葛藤、というのがあって
摂食障害を「なるべくしてなった」と考えている人々のほかに

そういう解釈はぴんとこない、という人が確実に居て
そういった人々が強く主張するのは、例えば
高学歴高収入で社会的ポジションが安定していてアイディンティティの問題はないし
家庭において信頼できる人間関係を築いていて
今までの人生で一番幸せな生活を送っているんだけど
(全部にいっぺんに当てはまるかどうかは別として、「万事順調」と感じている、ということ)
「でもなぜ私が摂食障害なの?」
という問い、であるということ

私は意見を聞かせてもらっていて
「こんなに幸せで、本当に摂食障害になる原因は何もない」と
説得されているような気になることもあるんですね
それくらい「摂食障害」でありながら「幸せ」でもある
ということに違和感を感じてるということだと思うんですが。


私がちらっと考えたのは
「こんなに幸せで、本当に摂食障害になる原因は何もない」
という、
つまり幸せであれば摂食障害になるはずはないという思い込みそのものが
摂食障害を支える原因のひとつになっているのではないか
というようなことを少し考え始めたのだけど


ただ、あの、私はあんまりそういう立場になったことがない、というか
職業上重要な地位にいたこともないし
安定した家庭生活を築いた、という経験もないし
たいして高収入を得ていたこともないし
社会的に華々しい何かを成し遂げたこともないし、
ようするに「こんなに幸せです」というふうに並べてもらった条件のうちの
殆ど全てが私には全く未知のものであるために
私の想像力がどこまで働くのか、というのがちょっとおぼつかないんですね。


それで、もし
「今私は幸せで摂食障害になる原因はないのだけども、でもなぜ私は摂食障害なの?」
という疑問を持っている方がいらっしゃいましたら
ちょっと詳しくお話聞かせていただけないでしょうか。

答えでなくっていいんです。
ただその問いかけ「なぜ私が?」という問いそのものについて詳しくお伺いしてみたいです。

よかったらお願いいたします。
メールやコメントお待ちしております。

2007年08月03日

実は前にも一度こっそり書いたことがあるんですが
私は「ダイエットをやめて自由になる」という主旨のサイトを運営するのに充分なほど
痩せてないんじゃないか、とずっと思ってた、わけです

あまりにも取り組むのがややこしい矛盾なのであまり意識には上らせないようにしてたんですけどもね
「ダイエットをやめて自由になる!」と、充分な説得力を持っていうには
(いや、説得したいわけじゃないけども、話をちゃんと聞いてもらうためには、だね)
「美容体重」で、私が「美人」で、そういう余裕(「私は完全に満足していて幸せよっ」)
をたっぷり漂わせてないといけないでしょう、
と思ってたんですね

だから論理的には言ってることと思ってることが完全に破綻してるわけで
でも、そういう矛盾を抱えたままものを言う権利もあるでしょう、
と思ったからサイトを続けたわけですけども。

みんなは凄く興味を持っているのに、
私がこのサイトであんまり具体的な数字というのを取り上げたがらないのは
ひとつには過剰に数字に拘るのが(何キロで何センチでBMIがいくつで今日は何をいくつ食べました・・・など)それ自体強迫観念的だから、
と思っているところがあるんですけども、
もうひとつ、数字を扱わなければ自分のボディサイズについても触れなくていいから
っていうのは、はっきり言ってあるわけですよね。
なんだ、この人私よりデブじゃん、と思われたら私の言ってることの半分くらいは信憑性がなくなるでしょう、
という観念もどこかにあったわけで。


そういうことを考えたときに思い出した、ひとつ面白い文章があるのでここに引用してみます



フェミニズムっていっちゃうと、むかしすごくイヤだったのは、ブスな女ががんばってムキになってやっているというイメージがあったこと。
自分もやっぱりブスだからそういうのにくわわるのはみっともない。
むしろ努力して、男の子に近づいて対等に扱ってもらったほうがいいって思っていた。
すごく興味があったのはたしかなんだけどね。

これのどこが面白いかっていうと
「フェミニズム」を「ダイエットをやめる」
「ブス」を「デブ」、
「男の子」を「痩せた女の子」
というふうに勝手に脳内変換して読んだから、なんですけども。
だからひと言で言ってしまえば
「私が真剣に言っていることに対して『デブがひがんでる』って馬鹿にされたらどうしよぅ」
という気持ちですよね。

この文章は「女はなぜやせようとするのか-摂食障害とジェンダー」という論文の中のものです
摂食障害を経験したことのあるFさんという女性が
フェミニズムに出会うことで精神的な回復に向かっていく過程を
著者が直接インタビューしてまとめた部分なのですが、
これについて続きをもう少し見てみます。

このように自分自身を差別し、おとしめる価値観に対して、Fさん自身が「異議申し立て」をすることをはばむ社会的な力が強く働いてもいた。
たとえば<ブスのひがみ>といわれても、自分がなかなか言いかえすことができない社会的なカラクリを理解していったという。
--中略--
そのような自分自身のうまく表現できない感情や違和感こそが、じつは「性差別」に起因しているものなのだということを、Fさんは認識していったのである。
Fさんはその発見を次のような言葉で表現している

「ひがみとかをふくめてものをいってもいいし、そういうことをふくめて問題にできるんだっていうことに気づかされたというか。
私はひがまされているんだ、からかわれているんだっていうふうに思えたことかなあ。」

それまでのFさんは<ブスのひがみ>という言葉に象徴されているように、自らの感情や経験をまっこうから否定させられるような解釈をあたえられていた。
摂食障害になってしまった原因についても<やせることがすべてを解決してくれるかのように>信じ込んでいた<自分の思いこみのはげしさ>によるものだとFさんは解釈していた。
このように<理不尽さ>や<もどかしさ>といった自らの感情を否定して、それをたんなる<ひがみ>や<思い込み>にすぎないのだと考えているかぎりは、人々の自分に対するあつかいには問題があることを、Fさんはハッキリと主張することができなかったのである。

それに対して<ひがみとかをふくめてものをいってもいいんだ>という発見は、そのような閉塞的な状況を打開する力をFさんにあたえてくれた。
いわば、Fさんは自分自身の感情をよりどころにしながら、自分のおかれている社会的状況を読みとくための認識の道具を獲得したのである。
「自分自身の感情をよりどころにして、自分のおかれている状況を解釈する権利が自分にはあるのだ」ということを主張することによって、Fさんは自分自身の感じてきた<理不尽さ>や<もどかしさ>といった感情を言語化する道をきりひらいたといえるのだろう。

そして以下はこのFさんから、この本の著者への手紙の中の文章、Fさん自身の言葉です。

結局、「私はブスだ」というコンプレックスは、ずっとうすいベールのように、私にまとわりついてきました。
悩んだり、ゆきづまったりするたびに、「私は美しくない」ということが大きな問題として浮かび上がってくるのです。
昔ほど病的にとりつかれているわけではないけれど、長びいた鼻カゼのようにすっきりしない、というった感じです。
私は、女として価値がないのだと思わざるをえなかった文化を認識できたとともに、そのような価値基準に自分をあてはめたくないと強く思っているはずなのに、なぜ容姿に関するコンプレックスをぬぐいきれないのか、ずっと自分でも不思議に思ってきました。
ましてや、私のことを人格も容姿も含めてあるがままにうけとめようとしてくれた人をみつけたにもかかわらず、私はこのコンプレックスを克服できなかったのです。周囲の人間はいろいろな形で私を認めようとしているのに、なぜ私ひとりが容姿にこだわるのか・・・?
そんな逆転した状況さえ生まれました。

ここ一年でなんとなく見えてきた答えは、私には「私はブスである」というコンプレックスが必要不可欠になっていたんだ、ということです。
私は自分をブスにしておくことで、何らかのメリットを受けていたのです。
すいません、この「メリット」がどういうものであるかについては、きちんとした分析が書けないのですが、私はいつの頃からか自分のおかれたマイナスの環境を糧に前身するというエネルギーの出し方をするようになっていたのは確かです。
(--中略--)
自分はみんなより一段低いところから出発したという自己陶酔が必要だったのかな?
こういうマイナスのエネルギーは初めは愛されない(もしくは愛された記憶のない)子どもの自己防衛策だったんでしょうけど、いつからか、「ブス」というのは私のアイティンティティの重要な一部となっていたみたいです。
解放されたいと思いながら、その特権(私の場合は何になるのかしら?)は手放したくないという、
一部の被差別者に見られる現象ですよね。

<ブスのひがみ><デブのひがみ>についてちょっと考えたわけです。
この社会にいて、(まあ殆どいかなる容姿であれ)
そういうことを言われる可能性がある、という事実はあると思うんですね。
じゃあそれらがあるとして、その可能性を引き受けた上で私たちはどう生きていくんだろう、
っていう、やっぱり話はそこにいくんじゃないか、っていうことを思ったんです。
で、このFさんのように「社会」という視点でものを見て、それを変えていこう、というふうに取り組んでいく、という方法とか
それから完全に「個人」の内的な問題として取り組んでいく方法もあると思うんですけども。

そういうことについて、何か思うところ在る人がいたら意見を聞きたいな、と。


女はなぜやせようとするのか―摂食障害とジェンダー
女はなぜやせようとするのか―摂食障害とジェンダー

2007年08月02日

脂肪と言う名の服を着て 完全版
脂肪と言う名の服を着て 完全版


レビュー1から続いています。


最後は「のこ」が通ったエステの担当者と久しぶりに会います

このときすでに再び太っていた「のこ」は言います
「やせてたときあたし・・・
あんまりいいいことなくて
周りの人も太れ太れってすごくって
あたしがやせたことでバランスくずす人とかいて
見てるのつらくて」

それに対するエスティシャンの言葉
「太ったのはそうやって人のせいにしているあなた自身のせいなのよ」
「たぶん繰り返すわね
身体じゃないもの
心がデブなんだもの」

そして「のこ」が最初と同じように
「食べて力をつけるんだ」といいながら大量の食物を詰め込むシーンで物語は終わります

このエステの担当者の台詞で
視点は「周囲にとっての、のこの脂肪」ではなく
「「のこ」にとっての、のこの脂肪」に変わるわけですが
「心がデブ」というのは
タイトルの「脂肪という名の服をきて」に戻ってきていて、
おそらくは心が脂肪という名の服を着ている、
ということなんじゃないかなって感じがしました

もしも、いわれなく軽蔑されなければならない状況の中で
「のこ」の方に何か非があるとすれば
「自分を大事にできなかった」という点でしょう
おとなしくしていろ、
安らぎの存在でいろ、
劣った存在でいろ、
虐げられるものであれ、
という周囲の期待に対して
「そうではなくて私はこうしたいのだ」と宣言するよりも
周囲の期待に添うてしまうことの方がずっと簡単、と思って
「自分はどうしたい」という思いを食べ物とともに飲み込んでしまった
そうして心に脂肪という名の服を着こんで本当の自分というものをすっかり隠してしまった、

「心がデブ」という言葉は賛成しませんけども
「のこ」は自分自身に対する評価を変えない限りは
ヨーヨーダイエッターでいるしかないだろうと、確かに思います

「痩せれば解決する」と思い、ダイエットをし
実際に痩せてしまうと、「裸の心」で苦しみや悲しみを感じることに耐えられずに
もう一度「脂肪という名の服」を着る
みんなの平和のために一番有意義な方法は自分の心を殺すことだ、と信じることをやめない限り
「のこ」の心には「脂肪という名の服」が必要であり続けるのではないか、

というふうに考えさせるラストです
(でも読むのが辛いことのひとつには最後まで読み通したときに
どうもこの本そのものが「太っていることへの断罪」であるように見えなくもないなあ、
ということが多少感じさせられるからで。
非常に独特で面白い切り口だな、とは思いつつも
たぶんその点でなんとなく気分が暗くなるのだと思う。)

脂肪と言う名の服を着て 完全版
脂肪と言う名の服を着て 完全版

コミックです。
タイトル読んだだけでも凄い感じがしますけど
中読んでも凄かったですね。

うん、明るい気分にはならない。
というか、本当に身に覚えのある人はちょっと辛くて読めないのじゃないか、
という気もします。
悲しみを心に押し込んで無茶食いするシーンは私もやや気分悪くなりました。
非常に興味深い一冊なんですけど、
イメージによってトラウマ刺激されやすい人にはあまりお勧めできないので
私のレビューだけ読んでください^^

以下ネタバレです

簡単に言うと「太っていて地味な」女の子が
痩せて、また太る、という話です。

子供のころから太っている「のこ」という名前の主人公なんですけども
「食べていれば何も考えなくてすむ」
「食べて力をつけるんだ」というおとなしい人です

話を深めているのは、「のこ」が太っているのは
「のこ」にだけ関係したことじゃない、というところですね。
彼氏、女友達、職場の同僚、上司、
みんなにとって「のこが太っていること」は
実は非常に意味がある、ということが、
「のこ」が痩せることによって白日の元に晒されます。

「デブ」と根拠もなく差別されても納得し、
「やすらぎを与える存在」でなければといつも優しく、
「太っているから」なんでも我慢する、
そういう役割をみんなが「のこ」に押し付けるために
「のこ」の脂肪を必要とし、利用しているんですが
実際にその「脂肪」の重さを背負って「デブ」といわれるのは「のこ」で
一人で傷つき、癒されんがために食べ続けます。


一番面白いキャラクターに見えたのが
サディスティックな性格でスリムで美人の同僚マユミなんですけども
殆ど強迫観念的に「のこ」を差別します
性格異常者といえるほど、嫌がらせに徹する人なんですが
実は「のこ」が「負け組み」であると、宣言することによって
自分が「勝ち組」である、という意識をやっと保っているんですね
こんな独白があります

「昔からデブが嫌いだった。
モタモタしておびえているのも
堂々として自信ありげなのも同じようにイラつくの。
そんなときは容赦なくたたきのめしたものだわ
うちひしがれたデブを見ると不思議ね
心が落ち着いて浄化されてますます自分がキレイになる」

マユミが「あんたみてるとイライラするわ。デブ」という風に言うとき、
その言い方はまるで太っていることは明らかに道徳的な悪で
痩せているマユミは無条件で太った「のこ」より良い人間であり、
当然の立場からものを言っている、
というような雰囲気さえ漂わせているんですが
実は病理を持っているのはマユミなんですね
誰かに「デブ」と言うことでしか自意識を保てないのはマユミです。
でもその病理によって傷つくのは何の関係もない「のこ」なんです

この構図が実に全編に渡って色々な形で現れています
みんながそれぞれ内に抱えているものを
「のこ」をデブだ、自分より下の、つまらない人間だ、
と決め付けることで「浄化」しています
そして「のこ」だけが全員の病理によって傷ついているわけです

吐くことを覚えてやせた「のこ」は
今まで言い返せなかった同僚のイヤミに言い返すことができるようになったり
綺麗な服を着て「他の女の子たち」のような外見になったり
少し自信を持って彼氏に話かけてみたりします
しかし、みんなは「のこがやせた」という現実から頑なに目を逸らします

「のこ」の独白
「一度ついた脂肪はとれないのか
人の頭の中についた「デブな人」という脂肪
彼らのイメージの中であたしは永遠に太ったままやせることは許されない」

ちょっと話が脱線しますが
これはまさに林真理子さんが大幅に痩せて、その後リバウンドしたときに言ったことなんですよね。
「二十キロ痩せても相変わらずマスコミにデブと言われ続けた」から
また太ったんだ、という風に雑誌アンアンで語ったそうです。
(参考文献:「寂しい女は太る」)
これがまさに、マスコミこそがマユミの化身だと思うのですが
要するにみんなが安心しているんですよね
「林真理子って人はブスでデブで、あれに比べたら私の方がマシ」
という、
それはもとは彼女自身がナイーブなサービス精神からから作り上げた
親しみやすさのイメージなんですが、
その居心地良さに安心した周囲がそれを取り上げることを許さなくなる、
「あんたはデブでブスで私より格下の人間でいなさい」という無言の威圧を持って
20キロ痩せたということから目を逸らす、
という、暴力的な構造が林真理子さんをもう一度太らせています。
(古い話ですが、この話自体が林真理子さんをモデルにしたんじゃないかと一瞬思った)

だから、かなりはっきりマゾヒスティックな性格に書かれていますが
マユミはちっとも特殊な人ではないし、
誰の中のにも居る人格、
私の中にもいるでしょうし
「デブ」といわれて傷ついている人の中にさえ往々にして存在し
そして社会全体の中にも顔のない形で存在している特質だと思います。

その正体は「あんたに比べたら私の方がマシよ」という根拠のない差別、
病理を持っている者がその痛みだけを人に押し付け、
そしてその痛みを「もっと弱い人」のところに持って行こうとはしない人間が
結局一人黙って傷つく、という暴力構造だと思います。

レビュー2へ続く

2007年08月01日

「自分の身体を受け入れられないとき 1 掲示板から」より続いています


ハングリーセルフ
ハングリーセルフ

家庭から、仕事のために外へ出ようとしたとたんに突然
今まで受け入れてきた体が恥ずかしくなった、
という大柄の女性の話が出てきます。

家庭の中では「ゆったりと仕立てた服」を着て家族のために食事を作ることで
長い間を過ごしてきた女性です。
あるとき、職業訓練をする会社の所長になることとなり、その初会見に出かけるとき
突然「恥辱の服--垂れ下がった色あせたもの」が一杯詰まった洋服ダンスの前で
一時間も立ち尽くしてしまいます。

信じてもらえるかしら?
私は一度も寸法を計ってみようなんておもいついたことがなかった。
食べるんだけど、自分のことをデブとは言わずに、丸ぽちゃと言っていたの。
主人は”寛大な女性”が好きなの。
それに子供にとっては、母親は当然いつでも世界中で一番きれいな女性でしょう。
私がどんな風に生きてきたかというと、朝から晩まで手を口へ、という生活で、クッキーの缶に手をいれ、その手を口へ入れ、とやっていました。
私が家にいるのなら、それで何の問題もおきないわけでしょう?
でもこれからの人生について専門家の女性と話す予約をしたその日に、突然私はサックドレスやムームーを着る丸ぽちゃさんではなくなったの。
一瞬にして、私はデブで、太りすぎて、グロテスクになってしまったの。
後になって振り返って、私はその時自信がなくて、何か足りない気がしていたんだ、そこが私には場違いな気がしていたんだとわかったわ。
五十四歳の太った女が、自分よりも半分も年下で、やせて、きっちりした服を着て、悠々と生きている女性の学部長に会いにいけるわけがないでしょう。
そう、今なら、長い間体を大目にみて暮らしていた私が、突然自分をデブだと思ったのは、自分への疑いと不確かさのせいだったと言えるわ。
でもその時はただ”サリー、やせなくちゃね”と思っただけ。
その日、私は実は約束を断ったの。
やせられるまで約束を延期しました。
それからどうなったかおわかりでしょ?
よく聞く話とおもうでしょうけど、私、やせました。
でもそれまでに摂食障害になっていたの。
吐いたり、下剤を使ったり、拒食したりはしなかったけど、私の心はカロリー計算のことで一杯だったから、 やっと大学院に入るまで、他のことにはなんにも熱中できませんでした。


この論では「自分の身体を受け入れられない」ということは
アイディンティティの不確かさの問題である、という風に捉えています。

家庭においては昔から女性に期待された役割というものがあり、アイディンティティは安定する、
(ただし女性の社会における自己発達の希望は押し込められ、
家族に食事を作る、与え続ける、ということでその空虚は埋め合わされる)

一方社会というのは、つい最近まで女性にとって排他的であった世界であり
未だ社会に入る女性にとってフィットするアイディンティティの確立がされていない。
摂食障害は女性のこれらの不確実性、埋もれた苦痛、
打ち明けられないアイティンティティの混乱の現われである
という風に分析しています

(ところで日本においては、男女雇用機会均等法ができたのが1985年、
差別的な扱いが法律で禁止され、女性が家から離れはじめます。
そして今日までおよそ20年の時が流れていますね。)

そして、もうひとつ、興味深い論なんですが、
女性が摂食障害になって食べ物とボディサイズに熱中すると、
それによって社会における自己発展を放棄して
自らを家庭に閉じ込めることができる、ということにも注目しています。

「女性の社会進出」ということに関しては実は私はあんまり考えたことがなくて
摂食障害と絡めてしまうとピンとこなくなったりするんですが
ただ、ちょっとその枠をはずして「アイディンティティの不確かさ」というレベルにすると
かなり実感としてわかるようになってきます

そうするとこれは、順序が逆なんですよね。
冒頭のような
「太っていることに対する社会の軽蔑・侮蔑・非難が怖いから痩せていなくては」
という気持ちではなく、
「社会における自己の不確かさ」が体型に関する強迫観念を生み出しているのではないか、
という考え方です。

自分のことを思い出してみると、自分を「太っている」と感じる時って
本当に何かに自信をなくした瞬間に、パチンとスイッチが入るようにして
「太っている、太っている」という観念に頭の中が占領されることがあるんです。

「この人は私を見るといつも太っていると言うから、この人嫌いだ」
というような感じではなくて
「きっとこの人は今私のことを太っているって思ってるんだろう、ああ隠れたい」
みたいな、根拠のない、単なる強迫観念であるケースって多いんです。
それに関してはやっぱり外からきたもの、実際の軽蔑・侮蔑・非難などではなくて
内側からきたもの、それこそ、自己の不確かさとか、場違いであるという感覚
などではないかな、って思うんですよね。

それから拒食の場合でもそうですよね。
実際に太っていてそのことに対して差別的発言をする人が周囲にいるのであれば、
「軽蔑・侮蔑・非難」を恐れるのは現実の恐怖といえるかもしれませんが
現在痩せていて、それでも「軽蔑・侮蔑・非難」が怖いのだとすれば
それは体重が何キロになっても決してなくならない「現実的ではない恐怖」
「内側から来る恐怖」ではないか、といえると思います。

だから私個人としては掲示板に頂いた書き込みのことも
「ハングリーセルフ」に書かれている内容のことも
どちらもわかるし、実際両方あるんじゃないのかな、って思ったんですね。

そうだとして、では個人として
「じゃあ、どうやって生きていこうか」と考えたときにまず取り組めるのって
まずは、「ハングリーセルフ」に書かれているアイディンティティの問題のほうに取り組むことじゃないのかな、って思ったんです。

問題の正体が「自己の不確かさ」とか「場違いな感じ」とかであれば
それをなくすことはできなくても、
「太っているという強迫観念」や「摂食障害」から切り離してみることはできますよね。
「今、太るのが怖いと感じた私の中では何が起こっているんだろう」
ということに注目していく、ということですね

そういうことを、掲示板を見ながら思ったんですけども
皆さんはどう思われるでしょうか。

掲示板に頂いた書き込みを引用させていただきます。

女の人が、怖いのです。
太るとそれだけで非難される要因が自分にできてしまう。
自分が軽蔑・侮蔑・非難の対象となってしまう危険性ができてしまう。だから太りたくないのです。
旦那と二人きりで他に誰とも会わない引きこもり生活ができるのなら、食べ始めてもいい、たとえそれで太っても耐えられると思うのですが、それ以外の人の前にはとても出られる強さは持ち合わせることができない。
何でなんでしょうね。。。

家族の中にいるのであれば自分のありのままの身体を受け入れることができるけれど、
家庭から外へ出ることを考えたときにそれができなくなる、
という葛藤についてちょっと考えてみたいと思います


掲示板の書き込みでは「同性の軽蔑・侮蔑・非難」に対する恐怖、
という風に書いてくださってますが
それは分かりますよね。

不美人論」という本を読んだときに納得したので覚えている言葉に
「ブスとデブは差別してはいけないという社会的コードがない」
という文章があったんですね。

いわれのない差別、偏見、というのは実際に凄くたくさんあって
「差別はいけない」と建前を言ったところで
実際に生きていく上で何かが楽になるわけではないんですが、
ただ一応は私たちの社会というのは前提として「差別はいけない」というのを持っていて
差別に対しては「差別するほうの人間性の問題である」というルールが、
まあ建前ですけども一応ありますよね。

ただどういうわけか「太っていること」に関しては
差別される側の人間性はあんまり問われないんじゃないか、
というのは、感じます。
むしろそういう問題は真剣に考えられるものとして捉えられていない、というのか
太っている人は「デブ」といわれて明るく笑っていなければならない、
そんなことに傷つくわけがない、傷ついちゃいけない、
「太っている人は太っていることについて色々言うんじゃない」とか
そういう押し付けの雰囲気ってあるんじゃないかと思うんですよ。

差別というのは基本的に「弱いものがさらに弱いものをたたく構造」ですから
やっぱり「デブ」に対する差別を一番公然とするのって
「太る」という強迫観念に苦しんでいる女性たちなのかな、っていう風に思うんですね。

だからそういうことを考えたときに
「軽蔑・侮蔑・非難」をしない、とわかっている家族の前では
自分の身体を受け入れることができて、
でも「太っていることに関する差別がいけない」というコードのない社会の外に出ていくのは
ありのままの身体では怖い、という、
掲示板に頂いたメッセージは実感としてわかりますよね。

ただ、これとかなり違う視点から同じことについて書かれた文章があって
私は視点を変えて見てみる上で面白いと思ったので
長くなってしまいますが、ひいてみます。
ハングリーセルフ」という少し古い文献(1989年)です

本当に長くなるのでいったんきります。
2 ハングリーセルフへつづく。

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